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紫蘭の花が咲く頃に

作者: 藤光右人

 記憶とは完全に無くなるわけではなく、自然に薄れていくものだ。そういえば、あの時あんなことがあったな、と思い出しながら時間は流れゆく。だから、どんなに楽しかったことも、どんなに悲しかったことも、人はそのうち忘れてしまう。

 それならばこの記憶は、いつになったら消えてくれるのだろうか。


「ありがとうございました」

 両手を体の前に重ねて、お客さんに向かってお辞儀をする。ここの花屋では普段、学校が終わった後にレジが混むことはあまりないが、休日である今日は、どの時間帯でも店内にお客さんが何人かいた。受験期間で多少のブランクはあるにしても、働き始めてもう二年と少し経っているので、レジ打ちの仕事は流石に慣れてきたと自負している。

明里(あかり)、そろそろお店閉めるよ」

 レジの後ろにある従業員口から店に入ってきた店長の声が聞こえてきた。 明里と呼ばれた少年は声を張り上げて返した。

「分かりました。レジも閉めちゃいますよ」

 店の奥からよろしく、という軽い返事を受けて、明里はその場で両手を組んで、上に向かって大きく伸びをした。まだ十九時にもなっていなかったが、日が沈むのは早い。二月半ばに入って春が近づいてきたとはいえ、まだ寒い日は続くようだった。この店も暖房が使えないからかなり寒いけど、外に出たらもっと寒いんだろうな、などと他人事のような感想を抱いていた。そろそろ閉店の作業を始めようと明里はレジから出たが、それとほぼ同時に店の自動ドアが開いた。

「あの、すみません」

 息を切らしながら、一人の女性がお店に入ってきた。明里はいらっしゃいませ、と声を掛けるべきか、もうお店を閉めてしまいますので、と声を掛けるべきか判断に迷ってしまった。厳密にはまだ閉店したわけではなかったが、今から探しているものを訪ねて案内をするのが少し面倒でもあった。

「まだ、お花は売っていますか」

 どう説明したものかと悩んで無言でいた明里に対して、女性が改めて問いかけてきた。白いコートに身を包み、先ほどまで首に巻いていたと思われる黒いマフラーを片手に抱えている。走ってここまで来たのか、肩ぐらいまである明るい茶髪が乱れ、額には汗が浮かんでいた。このお店に何か急用があったのだろうか。そんなお客さんを追い返してしまうのにも気が引けてしまい、明里は態度を改めて接客することに決めた。

「いらっしゃいませ。どのような花を」

 お探しですか、と言葉が続かなかった。ここに来て初めて、お客さんの女性とちゃんと正面で向き合ったのだが、整った顔立ちをした少しつりあがった鋭い目に、明里は見覚えがあった。相手もこちらを認識したのか、怪訝そうな表情を浮かべている。

「明里、だよね。なんでこんなところにいるの」


 明里幸(ゆき)()は高校一年の秋頃に働き始めた。高校からバスで十分ほどの場所にあり、植物園の中で経営している小さな店だ。幸い店長が気前の良い人で、放課後に働かせてもらえているが、ここ神代(かみしろ)(まち)では、高校生を雇ってくれる店はほとんどない。校則で禁止されているわけではないが、学業とアルバイトを両立させている生徒は少ないはずだ。働きだした頃は、出来るだけアルバイト中に友人やクラスメイトに会うことを何となく避けたいと考えていた。しかし、わざわざバスに乗ってこの店に草花を買いに来る知り合いはおらず、高校とは違ってリラックスして仕事に励むことが出来た。

 だからこそ、微妙な関係の生徒に接客業を見られてしまったことを明里は悔いていた。

 目の前に突如現れた彼女に困っていたところ、頭につけていた赤いバンダナと紺色のエプロンを外した店長が、店の奥から表に出てきた。

「あれ、明里。まだお客さんいたなら言ってくれよ」

 そう言葉を投げ掛けた後に、何やら不思議そうにしているお客さんと、何故か固まっている明里を交互に見比べて、首をひねった。

「お客さま、うちの従業員が何か失礼をしたようでしたら申し訳ありません」

 何を勘違いしたのか、店長は明里の頭を軽く叩き、少し頭を下げてお詫びを口にした。

「いえ、とんでもありません。店員さんが同じクラスメイトの明里君だったので、少し驚いていただけです」

 それを受けた彼女は慌てることもなく、明里に対していぶかしんでいた態度を引っ込め、微笑んだ。

 なるほど、と店長は納得した様子で、明里のことなど気にも留めず、他愛ない会話を続けた。

 花を買いに来たと言った彼女、鹿()(ずみ)(あや)()とは、高校二年になってから同じクラスだ。教室での座席が名前順で縦から並んでいたため、授業中は隣の席にいる。国語や理科の授業の時に行うグループワークで何度か一緒になったり、英語の授業中にペアで英文の読み合わせをしたりと、たまに話すことはあるが、普段は特に関わらない。つまり、クラスメイトではあるが友人ではなく、あまり得意としない関係の人間だった。

放っておいたらいつまでも会話を続けていそうな二人を見つめて、明里は小さくため息をついた。すると、それに気づいた鹿住が会話を切り上げた。

「お店を閉める時間にこんなに話し込んでしまってすみませんでした」

 少し申し訳なさそうな顔をして、店長と明里に謝罪した。

「うちの店の閉めも時間厳守ってわけじゃないから、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」

 あっけらかんとして店長が答えたが、たしか彼女は花を買いに来たのではなかったのか。二人が先ほど話していたことを何となく聞いていたが、店長が何か花を紹介しているような話題もなかったはずだ。いくら店を閉めるのが適当な時間と言っても、十九時を過ぎてしまったので、仕事を済ませてそろそろ帰宅したい。

 そんな明里の心情を察したのか、鹿住は買いに来た花について話し始めた。

「このぐらいの時間になると、近くのお花屋さんがどこも閉まっていたので、助かりました」

「それで、なんの花を買いに来たんだ」

 つい仕事を終わらせたい気持ちが前面に出て、急かす言葉が出てしまった。普段の接客中だったら、こんなことを思っていても口に出さないが、今回は目の前にいる相手が知り合いだから、少し気が緩んでしまっているのだろうか。

 明里の態度を見て感化されたのか、鹿住からも話し方に堅さがなくなった。

「お墓参りに持って行くお花を買いに来たの」

 少し悲しい表情を残して、笑みを崩すことなく言った。

「墓参り、か」

 明里は無意識に呟いていた。その言葉に何か懐かしさを感じると同時に、自分の胸に鈍い痛みが走った。

「こっちに仏花のセットも置いてあるけど、自分で花を選んでみるかい」

 店長がおすすめの花を促したが、彼女はゆっくりと首を横に降った。

「今日は、そこに置いてある仏花のセットを買って帰ることにします」

 鹿住は、店長が持ってきた黄色を基調とした色鮮やかな花束を受け取り、代金を支払った後頭を深く下げてお辞儀をした。

「閉店前に駆け込んでしまい、申し訳ありませんでした」

 彼女の仰々しい態度に、店長は決まりが悪そうに苦笑していた。しかし、そんなお客さんを気に入ったのか、深くお辞儀を返した。

「そんなことないですよ。またのご来店をお待ちしております」

 そして店長はふと何か思いついたのか、明里の方に向き直った。

「時間も遅いし、鹿住さんを送って行ってきなさい。クラスメイトなんだろう」

 予想していなかった話の展開に、明里は戸惑いを隠せなかった。

「まだ閉店作業が終わってすらいないのに、そんなこと出来ませんよ」

「とっくにシフトの時間過ぎてるし、閉店作業はやっておくから上がっていいよ。ほら、ここに残る理由は無いんだから行きなさい」

 有無を言わさず、店長は帰宅命令を出した。明里はすぐにエプロンを外して制服に着替え、まるで追い出されるかのように、店から閉め出された。外で律儀に立っていた鹿住にお待たせ、と言い、二人で歩き始めた。

 店を出た先の目の前にある大通りでは、数本の電灯が灯っていた。けれども、周りに建物があまり無いためか、夜になってからは淋しく感じられる。

 バス停に向かっている途中、明里は隣で歩いている鹿住を横目に見た。店長の言っていたことを間に受ける必要はないのに、彼女が明里の仕度を待っていたのが少し意外だった。二人の間で特に会話がないのを、お互いに気にしている様子はなかった。明里は沈黙が続く空気を気まずく思ったり、何か話しを切り出したりするタイプではない。しかし、今日は何かと予想外な出来事が多く、それに触発されたのか、彼女に自分から話しかけてみた。

「店長と、随分仲が良さそうだったな」

 唐突に話題を振られた彼女は少し驚いていたが、すぐに返事をくれた。

「店長さんが、私の姉と知り合いだったの。そのことでちょっと盛り上がってただけだよ」

 意外な所で接点があったおかげで、会話が長く続いていたらしい。しかし、明里はそれ以上に彼女について気になることがあった。

「鹿住って、学校の外だと雰囲気が違う気がするんだけど」

 彼女は学校だと、いつも周りにクラスメイトの何人かが集まっていて、中心で会話を盛り上げているリーダーのイメージがあった。担任の先生や教科の先生に、気軽に話し掛けているのを何回か見かけたため、今日のように、店長に丁寧な態度を取っているのに違和感があった。

「そんなに違うのかな。そんなこと言ったら、私だって明里がにこやかに接客してるのを見て驚いたよ」

 鹿住は、君も人のこと言えないでしょう、と苦笑いを浮かべていた。

 それは明里自身も分かっていた。学校に友人がいないわけではないが、基本的に一人で過ごしていて、必要な時以外は特に会話もしない。そんなクラスメイトがお店で接客業をやっていたら、たしかに違和感を持たれてもおかしくない。

「なんで、お花屋さんで働いているの」

 黙っていると、純粋な興味からか、彼女は再び言葉を投げかけて来た。

「なんでって言われても。多分、草花が好きだからかな」

 数秒、間を置いてから出た明里の答えに鹿住は何か勘付いたのか、怪しいなあ、と呟いた。

 草花が好きなのは嘘じゃない。実際働いてみて、未だに新しい発見があったり知識が身に付いたりするのは楽しい。ただ、花屋で働きたかった理由がもう一つあるのは確かだった。

 しばらくすると、何か閃いたのか、鹿住は目を輝かせて考えを口にした。

「もしかして、あの『閏年の噂』を聞いたからかな」

 明里は思わず押し黙ってしまった。彼女の言葉が、半分正解だったからだ。

 『閏年の噂』とは、「閏年の二月二十九日の十四時二十九分に、植物園である花を見つけると、その場所で一番大切な人に出会える」という、何を根拠にしているのかよく分からない噂話だった。たしか、高校に入学してすぐに噂が耳に入ってきた。当時はその話題で持ちきりだったが、閏年はそこから二年後の話で、今は大学受験がピークの時期であるため、『閏年の噂』を忘れているか、気にしている人など特にいないかのどちらかだと思う。

 明里は噂を聞いてから一度も忘れていなかったけれど、他の人から話題に出されたのは久しぶりだった。

 返答せずにいるのを見て図星だと思ったのか、鹿住は嬉しそうに笑った。

「噂のこと、まだ覚えている人がいたんだね」

「たしかに、『閏年の噂』が気になって店で働き始めたっていうのも理由の一つだよ」

 明里は仕方なく観念して口を割った。詳しく理由を話すつもりはなかったが、認めれば怪しまれずに済むだろう、と考えた上での行動だった。

 忘れるはずもなかった。その時が訪れるのを、ずっと待っていたのだから。

 何気なく話していたが、いつの間に明里たちはバス停に辿り着いた。

「私はまだ用事あるから。ここまででいいよ」

 鹿住が別れを告げて、バス停の先に再び歩き出そうとしていた。数年間このバス停を使っている明里は、あまり本数の多くないバスが来る時刻を、ほぼ覚えていた。今の時間だと、バスが来るまでにはもう少し余裕がある。だから彼女が帰る前に、まだ聞きたいことがあった。

「今から墓参りに行くのか」

 明里の短い問いに、鹿住はこちらを振り返った。街灯が少ないこの道は暗く、彼女の表情を伺うことはできなかった。

「とても大切だった親友に、持って行くの」

 しばらく無言だった鹿住が、ぽつりと呟いた。また明里は胸に鈍い痛みを感じた。

 この質問が彼女にとって些細なものなのか、それとも心の奥に踏み入ってしまうものなのかは分からなかった。けれども、どうしても聞いておきたかった。

「その友人に、会いたいと思うことはあるか」

 街灯の代わりに、雲から現れた月の光が彼女を照らした。

「あるよ。今も思ってる」

 言葉とは裏腹に、清々しい顔をしていた。後悔や諦めから来ているものではなく、決意を固めているようにも見えた。

 これで話は終わりだと言わんばかりに、鹿住は前へ歩き始めた。その背中が見えなくなるまで、明里は彼女を見つめ、バスが来るのを待ち続けた。

 数分後、到着したバスに乗り込む際に切符を手に取り、空いていた一番後ろにある窓際の席に力なく腰を下ろした。弱めの暖房が、外で待っていた明里の身体を暖めた。窓のサッシの部分に肘を置いて頬杖をつき、外の景色を眺めながら、鹿住との会話を思い返す。

 『閏年の噂』には、他の意味を持つ噂話が存在する。「閏年の二月二十九日の二時二十九分に、植物園である植物を見つけると、その場所で一番大切だった亡き人に出会える」という内容だ。これは彼女に聞かれたものとは別の噂であり、おそらくあまり広まっていない。明里は花屋の店長から、このもう一つの噂について聞いた。

 明里には、かつて大切な人がいたが、今はもうこの世にいない。噂を知った当初は、死者に会えるなんて微塵も考えてもいなかった。しかし、噂を少しずつ調べていくうちに、もしかしたら本当に出会えるんじゃないかと信じ始めた。『閏年の噂』の日まで一ヶ月を切り、明里は毎日そればかりを考えていた。

 月の光は雲に隠れてしまい、何も見えない。それでも明里は窓の外を見つめ続けていた。


 翌日の月曜日、明里は教室に入り、席に鞄を置いた。その直後、隣の席にいた鹿住が話しかけてきた。セーラー服の上に白いカーディガンを着た彼女と、昨日、白いコートを着ていた彼女の姿が重なって見えた。

「あのさ、明里のバイトのシフト教えてよ」

 質問の意図が分からず、慎重になりながらも簡潔に言葉を返した。

「なんでさ」

 彼女は腕を組んで少し考え込んでから、あっけらかんと言った。

「ちょっと聞きたいことがあるから」

 鹿住の取り巻きにいた女子生徒二人が、何やら意味ありげに含み笑いをしていた。被害妄想なのかもしれないが、何か自分が笑われている気分になるので、明里はこういう連中が苦手だった。早く話を終わらせたくなり、素っ気なく教えた。

「月曜日と金曜日と日曜日だよ」

「そう、ありがとう」

 その言葉に満足したのか、鹿住はあっさり会話を終了させ、周りの友人と話し始めた。

明里は首に巻いていた臙脂色のマフラーを取り、席に着いた。こちらの話を聞いていたのか、前の席に座っていた友人が後ろを振り向いて声を掛けてきた。

「明里って、鹿住と仲良かったんだっけ」

 たしかに先日少し話をしたけれども、それだけで仲が良いというのかは分からなかった。

「俺にもよく分からない」

 ありのままの感想を伝えると、友人も首を傾げていた。

 この日の放課後、普段通り花屋で働いていたところ、鹿住が店に来た。学校でバイトのシフトを聞かれたのも疑問だったが、またここに買い物に来たことが更に不可解だった。ただ明里にとって、閉店に近い時間に来なかったことがせめてもの救いだった。また帰る時間が遅くなるのは、勘弁してほしかったからだ。

 明里は、前回の丁寧な接客態度を鹿住に見せるつもりはなく、店に入ってきて、真っ直ぐレジに向かってきた彼女に告げた。

「今日も仏花を買いに来たのか」

 鹿住は答えず、明里の後ろの作業台にあるバケツを興味深そうに見つめていた。

「なんの作業してたの」

 辺りを見渡してみても他のお客さんは見当たらなかったので、暇潰しがてらに彼女の会話に付き合ってみた。

 明里は後ろを振り向き、バケツの水に浸かっていた花の茎の部分を持って、鹿住に見せた。

「水切りをやっていたんだ」

 水切りとは、水中で花の茎を斜めに切って、切断面を新しくすることで花を長持ちさせる作業だ。大雑把な説明をすると、彼女は納得した様子で何度か頷いていた。

「その花の名前、教えて」

 明里が手に持っている一輪の切り花を見て、鹿住が言った。明里にとって、誰かしらが花に興味を持つのは嬉しかったので、再び質問に答えた。

「これはアネモネっていうんだ。この紫色以外にも、赤とか白とかの花もある」

 花の説明をしている間、彼女は鮮やかに輝く大きな花弁から目を離さなかった。彼女の瞳は、とても綺麗に輝いていた。

 話を終えた後、彼女は学生鞄から財布を取り出した。

「そのお花、買わせて欲しい」

 まさか買ってくれるとは思わなかった。自分の接客で花を買ってもらえるということが、嬉しくないと言えば嘘になる。

「ありがとうございます」

 態度を改めてお辞儀をして花を包装した後、彼女に渡した。

「その花、明るい場所だと咲きやすいから、暗いところに置いた方が長持ちすると思う」

 簡単なアドバイスを伝えた。それに頷きながら、鹿住は再び明里に尋ねた。

「このお花の、花言葉はなんて言うの」

「アネモネには色ごとにも花言葉があるんだけど、紫色は『君を信じて待つ』って意味があるらしい」

 明里は、草花を一言で表す花言葉が好きだった。働いている最中に店にある花の名前と花言葉を店長にいちいち尋ねていたら、いつの間にか覚えてしまった。

 鹿住はそうなんだ、と言って微笑むと、ふと何か思いついたように言葉を続けた。

「そういえば、今週の土曜日って何か予定あるの、明里」

 バイトを入れている日以外は特に予定もないので、一応空いている、と答えた。

 満足したのか、彼女は予想外な発言をした。

「一緒に、植物園に行こう」

 それは、クラスメイトからの突然の勧誘だった。


 数日経った土曜日の昼頃、バイトが休みにも関わらず、明里は植物園の入場門にいた。待ち合わせの五分前には着いたのだが、鹿住はまだいない。何か温かい飲み物でも買ってこようかと思い、黒いダウンコートから財布を取り出そうとしたその時、広場から小走りでこちらへ向かってくる人影が見えた。長い髪をなびかせながら、白いコートを着た彼女が、目の前で立ち止まった。

「待たせてごめんね」

 少し息を切らしながら、鹿住は軽く謝った。先日も似た光景を見たが、何も言わなかった。券売機で入場券を買い、植物園に入った。

 緑の木々に囲まれ、舗装された道を二人で歩いた。雲一つない快晴だったが、寒い日が続いているためか他の人とはあまりすれ違わなかった。

 鹿住は視線を様々な場所に巡らせていて、何か落ち着きがなかった。そんなに植物園に来たかったのか。そこで、今日までずっと気になっていたことを彼女に切り出した。

「なんで、俺を誘って植物園に来ようと思ったんだ」

 鹿住はこちらを振り返り、楽しそうに言った。

「植物園は前からちょっと来てみたかったんだ。明里はお花屋さんで働いてるくらいだから、植物に詳しそうだし。それに、クラスで受験が終わってるのって、多分私と君ぐらいでしょ」

 たしかに、いち早く推薦で大学を決めているのは、知っている限りではクラスだと自分と鹿住だけだった。今の時期だと、そろそろ私立の大学を受けている生徒は結果が出ている頃だろうか。

 決定打のない理由で連れてこられた気がしてならなかったが、あちこち見て回っている鹿住に大人しくついて行くことにした。

 つつじ園、しゃくなげ園、しゃくやく園と、いくつかの場所を歩き回った。明里は度々、鹿住から草花について質問を受けたが、何でも知っているわけではなく、適当に答えを濁した場面も少なくなかった。それでも彼女は、嫌な顔一つすることなく、真剣に園内を観察していた。

 しばらくしてから、ばら園に辿り着いた。明里は何度かこの場所に来たことがあったけれども、中心に噴水があり、タイルで出来た道の周りを、色とりどりのばらの花が囲っている景色は、いつ見ても美しいものだった。

「こんなに綺麗な場所があったんだね」

 隣にいた鹿住も、満足気に息を漏らした。その横顔を盗み見た時、学校での姿とも、さっきまではしゃいでいた姿とも違う、また新しい一面を持つ彼女がここにいるように思えた。

 ばら園の入り口の対面には少し高い丘があり、休憩スペースになっている。そこには真っ白なテーブルと椅子が置いてあったが、相変わらず人影は見当たらない。外気に晒された寒い場所で休憩を取るよりも、ばら園の向かい側にある大温室や、入り口の付近にある植物の資料館に時間を割く人の方が多いからだろう。椅子に座っている鹿住に、自販機で買った缶コーヒーを渡し、明里も空いている場所に座った。小声でありがとう、とお礼を言った彼女は、受け取った飲み物で手を暖めていた。明里からは何も話さないでいると、向こうから話を振ってきた。

「実は、明里にまだ聞きたいことがあったんだ」

 自分のコーヒーを一口飲んだ後、何を、とぶっきらぼうに返した。

「先週の帰り道、なんであんなことを聞いてきたの」

 あんなこと、に対して思い当たる節が一つあった。おそらく、亡くなった友人に会いたいと思ったことはあるか、という質問だ。あの時は無我夢中で聞いてしまったが、改めて考えるとかなり失礼な行動で、彼女を傷つけてしまったのかもしれない。

 明里は素直に謝罪を述べた。

「気に障ったなら、ごめん」

 それを受けた鹿住は、ゆっくりと首を振り、べつに聞かれるのは構わないんだけれども、と前置きをして続けた。

「聞かれたくなかったら答えなくても良いんだけど、明里にもそういう、大切な人がいたのかな」

 彼女がこちらの顔を覗き込んできた。その真っ直ぐな瞳を見て、明里は思わず目を逸らしてしまった。人に聞いておいて自分の心情を答えないのは、ずるい気がした。そして何故だか、同じものを抱えている彼女ならば、話してみても良いのではないかと思えた。

「いたよ。俺にもそんな人が」

 明里は淡々と、昔話を語り始めた。


 明里には(まゆみ)という幼馴染がいた。小学校に入学してからの初めての友達であり、学校でも放課後でも共に同じ時間を過ごした。彼女が女子にしては短い髪で勝気な性格だったからか、男子と校庭や公園でよく遊んでいた。その中でも特に仲が良かったのが明里であり、常に隣にいる相手だった。小学校の高学年に上がった頃から、檀と一緒にいると男子の友人によくからかわれていた。彼女はその度に怒っていたが、当時の明里からしたら、からかわれる理由がよく分からなかった。檀が隣にいるのは当たり前だと思っていたからだ。

 小学校を卒業してすぐに、檀は隣町へ引っ越してしまった。会いに行けない距離ではないのだが、中学生の自分達には、とても遠い場所に感じられた。お互いが違う中学校に通い、中学一年の始めの方は、新しい環境に慣れるのに大変だったが、毎週欠かさずに電話で連絡を取り続けていた。そうすることで、自分たちの関係が離れていても揺るがないものなんだと確信していた。だが、遠くないといっても、隣町へ行くにはバスを使うので手軽には会えず、中学校での他の友人との付き合いや部活があったため、直接会うのは難しかった。夏休みや冬休みの長期休暇に会うことも出来たのだが、何故か二人とも、それに関して触れようとはしなかった。

 そんな関係を続けて二年が経とうとしていた、中学二年の二月頃だった。高校の受験期に入ってしまう前に、久しぶりに直接色んな話をしよう、と檀が提案してきた。明里にそれを断る理由もなく、再会する約束を交わした。その時は自分の半身のような存在に再び会えることに胸が躍っていた。

 檀と会う予定だった前日の夕方頃、家の電話が鳴り響いた。その日は雪が降っていたため、仕事に行っていた両親の帰りはいつも以上に遅く、明里は家で留守番をしていた。電話をかけてきたのは檀の母親で、交通事故で亡くなった檀のお通夜に出てくれないか、という内容だった。

 それからの記憶はおぼろげだ。明里は通夜にも葬式にも出席したはずだが、何一つ実感が湧かず、涙も流さなかった。彼女は亡くなったのではなく、どこかもっと遠くへ行ってしまったのだと考えていた。しかし、毎週電話をする習慣もなくなり、中学で他の友人と過ごすうちに、あることを知った。檀は明里にとって友人だったとか、好きな異性だったとかではなく、そんな関係では言い表せない程に大切な存在だったのだ。他の誰でも代用のきかない、自分の心の穴を埋めることの出来るたった一人の人間だった。もう二度と会えないことに気づかないふりをして、明里は気を紛らわそうと受験勉強をした。

 明里は隣町の高校に無事受かったが、入学したての頃は無気力な高校生活を送っていた。友人を積極的に作るわけでもなく、必要以上の会話を心のどこかで拒んでいた。時が経つにつれても傷は癒えず、自分は大切なものを失ってまで何のために生きているのだろうか、と考えているうちに、檀の死は明里にとってある種の呪縛になってしまっていた。

 そんな時に友人から耳にしたのが『閏年の噂』だった。噂をすぐに信じたわけではなかったが「大切な人に会える」という言葉が、明里の胸に響いた。かつて、自分の支えだった彼女に似た存在に再び巡り会えるのかと期待してしまった。当時はそんな噂に振り回される程に、心が荒んでいた。その『閏年の噂』について興味を持ち、少しでも詳しく情報が欲しかったため、植物園の花屋でアルバイトを始めた。


 黙って話を聞いていた鹿住が浮かべていた哀しそうな顔は、明里に対する同情に見えた。

「暗くなるような話をして、悪かった」

 二人の間を行き交う気まずい空気に、明里は居た堪れなくなってしまった。

「謝らないでよ。聞いたのは私なんだから」

 鹿住は椅子から立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てた。明里もそれに続き、丘の坂を降りてばら園を後にした。

 明里は鹿住に語った話で、一つだけ言わなかったことがある。それは、『閏年の噂』の亡き人に会えるというもう一つの内容についてだ。これは花屋で働き始めてしばらく経った頃、店長から聞いた。店長の知り合いに神代町の地主がおり、「神代町には魂を宿す植物がある」と教わったそうだ。そこから、「ある植物を見つけると、死者に会える」という噂が広まり、現在は「大切な人に会える」というふうに変遷して語り継がれているらしい。

 明里は、檀のような自分にとって大切な存在になり得る人を探しているわけではなく、再び檀との再会を強く望んでいた。

 二人で再び入場した門に帰ってくると、少し前を歩いていた鹿住がこちらを振り向く。

「もう着いちゃったね」

 バラ園での長話を終えてから、鹿住は特に寄り道をしようとはせず、もう用は済んだと言わんばかりに、真っ直ぐ退場門まで向かって行った。もしかしたら、明里の話を聞くことが目的だったのかもしれないとさえ思えてくる。

 彼女に聞きたい話がいくつかあったけれども、明里は喉まで出掛かったそれらを飲み込んだ。

「俺はこのまま帰るけど、どうする」

 鹿住は少し考える素振りを見せた後に、明里の目を真っ直ぐに見つめた。

「もう一箇所だけ行きたい場所があるんだけど、いいかな」


 植物園の門から出た広場を左手に横切っていくと、小さな公園がある。入り口にいくつか並ぶ車止めの横にある石碑には、『黄心(おうしん)公園』と刻まれていた。名前の通り、黄色を基調とした滑り台とブランコが、申し訳程度に置いてあった。しかし、植物園の側にある公園というだけあって、遊具が置いてある広場の周りには色とりどりの花が咲いており、数え切れないほどの草木が生い茂っていた。

 鹿住は周りの草花に目もくれず、入り口から一番遠い広場の端まで、一直線に向かった。彼女がどこに行こうとしているのか明里には予想がついていたが、何も言わずに後を追いかけた。

 しばらく歩いたあと鹿住は立ち止まり、目の前にそびえる巨大な木を仰いだ。深く地面に根を張った太い幹と、そこから出ている無数の枝は、他の草木と比べられないほどの葉を生やしていた。

「やっぱりすごいね、この木は」

 どこまでも高く続いている深緑を見上げながら、鹿住は呟いた。

 隣に並んだ明里も、彼女に倣って大木を見つめる。

「この木のこと、知ってたのか」

「オガタマノキだよね。ここの植物園に来たかったのは、これを見たいっていうのもあったんだよ」

 明里は一旦見上げるのをやめ、後ろにあった背もたれのない古びたベンチに腰掛けた。

 オガタマノキは、緑の葉を一年中枝につけている常緑樹というものだ。様々な漢字もつけられていて、『黄心樹』とも書かれる。公園の名前はおそらく、ここから来ているのだろう。二十メートルの高さを超えるものは数百年以上生きていると言われていて、目の前に重々しく構えるこの木も、樹齢数百年の歴史を持っているに違いなかった。

 明里が店長から『閏年の噂』を聞いて数日経った頃、噂についてもう少し詳しく知りたいと思い、図書館で神代町について調べてみた。ある一冊の古い歴史書には、「神の依り代である樹木が存在する」というのが町の名前の由来だと載っていた。そして、この時読んだ文献にあるオガタマノキは漢字で、霊を招くという意味なのか『招霊木』と書かれていた。

 神の依り代であり、霊を招く木が植物園の公園に存在することが、『閏年の噂』と無関係だと明里には到底思えない。二月二十九日の当日、ここで何かあるのではないかと目星をつけていた。

「あのさ、あの花はなんていうの」

 考え込んでいた明里の隣には、いつの間にか鹿住が座っていた。彼女が指差す方に目を向けると、オガタマノキの根元に、ピンクや紫の小さな花弁が散り散りに広がっている。

「あれは、リモニウム。スターチスっていう名前の方が有名だと思う」

 スターチスはもともとギリシア語の止めるという言葉を語源としていて、薬草と下痢止めに使われていたという理由からその名前をつけられたらしい。何となくそのイメージを払拭したかったため、明里は学名のリモニウムという名前で呼んでいた。

 ふうん、と鹿住は特に名前については言及せずに、花々を見回した。

「じゃあ、花言葉はなんていうの」

 明里はリモニウムから、視線を隣に移した。好きなものを尋ねられるのはなんだかんだで嬉しい。アネモネを買っていった時もそうだったが、彼女は花言葉が好きなのだろうか。

「リモニウムには、『変わらない心』っていう意味がある」

 西洋での花言葉は、『記憶』と言われたりするらしい。比較的どこにでも咲いているけれど、花言葉を知ってからは、明里のお気に入りの花になった。

「変わらない心、ね」

 鹿住が、教えられた言葉を口に出し繰り返した。明里から見た彼女は、どこか遠くを見ていた。

「何か気になったのか」

 明里は不思議に思って声を掛けてみたが、鹿住は微笑みながらベンチから立ち上がった。

「なんでもないよ。そろそろ行こうか」


 あまり長居した覚えはなかったが、公園から出る頃には日が暮れ始めていた。

「そろそろ帰ろうか」

 明里の言葉に、前を歩いていた鹿住が立ち止まった。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

「こちらこそありがとう」

 なんとか社交辞令にも似た言葉を紡いでみたものの、また真っ直ぐな目で見つめられて明里は視線を逸らした。鹿住に自分の心を見透かされている気がしてならなかった。これ以上彼女と一緒にいると調子が狂ってしまうため、早めに解散したかった。

 そんなことを考えていた時、ちょうど帰りに乗るはずのバスが停留所に止まっているのを見かけた。明里はじゃあな、と鹿住に小声で告げてから足早にバス停へ向かっていった。

 去り際に聞こえたまたね、という彼女の言葉が、バスに乗り込んだ後も明里の頭の中に残り続けていた。


「そういえば、明里」

 放課後、バイト先で床の掃き掃除をしていると、花の手入れをしていた店長が呼び掛けてきた。

「なんでしょうか」

 明里が無気力に返事をする姿に、店長はため息をついていた。

「お前ここ最近、作業中ずっとうわの空だな。なにかあったのか」

「なにもありませんよ」

 これからくる『閏年の噂』の日に浮き足立っているのは自分でも分かっていたが、今日以前に何かあったわけじゃない。だから、なにもなかったという答えは嘘じゃない。言い訳染みた言葉を自分に言い聞かせていると、そんな気も知らずに店長は更に畳み掛けてきた。

「最近、鹿住さん見かけないな。この前までよく来てたのに」

 明里はそうですね、と動揺を隠すように、箒で落ちた葉や枝を集め続けた。

 植物園に行ってから数日経つが、あの日以来、鹿住が話しかけてくることはない。挨拶を交わすぐらいのやり取りしかせず、互いに深く関わろうとはしなかった。心に何か引っかかるものがあったが、明里はそれでも構わなかった。自分にとって、数日後に訪れる『閏年の噂』の日の方が重要だったからだ。かといって、彼女の目的が分からず終いだったことも、それはそれで気になっていた。植物園に誘ってきた理由も、明里の話を聞いてきた理由も、追求していれば何か分かったかもしれない。最後に会った時、逃げるようにバスに駆け込んだのが今更になって悔やまれたが、急に自分から鹿住に話し掛けるのも気が引けた。結局のところ、知りたいことがあるのに一歩を踏み出さない自分が悪いんだ、と無理矢理結論づけるしかなかった。

 色んな葛藤を抱えて気持ちを整理できないまま、明里は二十九日を迎えた。


 夜中の一時を少し過ぎた頃、両親が寝静まったのを見計らって、明里は黒いコートを羽織って家を出た。バスの最終便が走っている時間はもう終わってしまっているため、植物園まで歩いて行った。そこまでの経路には建物はおろか、街灯さえ少ないので、警察に見つかって補導される事態はおそらくないだろう。見上げた空に雲はなく満月が浮かんでいて、いくつもの星が瞬いていた。時間は有り余るほどあるが、体を撫でる夜風が思っていたよりも冷たく、少し急ぎめで目的地に向かった。

 植物園前のバス停を通り過ぎ、花屋の前を横切って、いつか来た公園に足を進めた。明里が働いている花屋と黄心公園は、植物園内の施設として紹介されている。植物園自体は午後六時に閉園してしまうが、花屋はもう少し遅くに閉めるし、公園は二十四時間開放されている。時間がかなり遅いためか、人の気配は感じられなかった。

 公園に入った明里は、月明かりに照らされている遊具を一瞥してオガタマノキを目指した。歩くたびに靴底で踏みつけた砂利が、一定のリズムで音を立てていた。電気が切れかかった一本の外灯を見上げた後、暗がりの中で周りに咲いている花を見渡す。まるでこの世界に一人だけ取り残されたような気分だった。

 やがて古ぼけたベンチに辿り着くと、明里はゆっくりと腰掛けた。座った部分から冷え切った感覚が衣服越しに伝わってきたが、歩いてきたからだろうか、身体は少し火照っていた。腕時計で時間を確認すると、まだ一時間ほど猶予があったけれども、ベンチに座ったまま残り時間を過ごすことに決めた。

 オガタマノキとその根元に咲き乱れるリモニウムが、自然と明里の目に映る。これから会えるかもしれない幼馴染の檀は、本物の人間なのか、それとも幽霊なのか。少しでも話が出来るのならば、そんなことはどちらでも良かった。明里は檀が生き返って欲しいだとか、また一緒の時間を過ごしたいだとかを望んでいるわけではない、と言えば嘘になるが、願ったのはある言葉を伝えたいだけという小さな想いだった。

 かじかんできた指を両手で組みながら、少し俯いてため息をついた。真っ白な呼気が立ち昇り、すぐに見えなくなる。しばらく時間が経って身体は冷え初めていた。寒さを忘れるほどに心を落ち着かせたかったが、一際強い夜風が吹き、思わず両腕をさすった。

「随分、来るのが早いね」

 突然後ろからどこか聞き覚えのある声が聞こえ、明里は動きを止めた。色々と考えていたせいか、誰かが近づいてきていることにすら気がつかなかった。なぜ彼女がここにいるのか、真相を確かめるためにゆっくりと後ろを振り返った。

 ベンチのすぐ側に、見覚えのある少女が立っていた。おなじみの白いコートを着て、赤いマフラーと明るめな茶色の髪が風になびいていた。そこにいたのは檀ではなく、クラスメイトの鹿住綾芽だった。

「なんで君が、こんなところにいる」

 動揺を隠そうと早くなる鼓動を押さえつけながら、明里が声を上げた。

 鹿住は微笑みを崩さないまま、明里の隣に座った。その顔は、いつも見せていたものと違っていた。何か哀しみを達観した表情の上に、無理矢理笑顔の仮面を被せているようなイメージだった。

「私は明里と同じ理由で、ここに来たんだよ」

 鹿住は星空を仰ぎ、綺麗だなあ、と呟いた。

 同じ理由、というのは、鹿住も噂について深く知っていて、亡くした親友のためにここに来たのか。

 まだうまく働かない頭を回転させながら明里が確認すると、彼女は大きく頷いた。

「それと、明里に話さないといけないこともあるんだ。聞いてくれるかな」

 先日、明里は大切な幼馴染の話をした。今度は彼女が打ち明ける番なのだろうか。根拠はないが、この話を聞く義務があるように思えた。

「分かった。聞くよ」

 明里の二つ返事に、鹿住は満足そうにうなずく。

「じゃあ、話すよ。私の大事だった人との思い出を」


 中学校に入学した鹿住は、これからの学校生活が不安だった。同じ小学校からきた友人は離ればなれのクラスになってしまい、周りは皆知らない人だった。クラスに馴染めず、中学生になって初めての下校は一人きりだった。かつての友人たちが、新しい友達と一緒に帰っていたのを見かけて、鹿住は落ち込んでいた。まだ着慣れない制服と履き慣れない革靴で、学校から五分ほどかかる帰路を歩いていたところ、誰かが鹿住の肩を叩いた。驚いて振り返ってみると、微笑んだ少女が立っていた。

「同じクラスの鹿住さん、だよね。一緒に帰ろう」

 この時出会った彼女、()()()は、この後鹿住にとって最も親しい友人となった。

 雪華梨は一言で表すと、活発な子だった。クラスでもリーダーの役割を果たしていたが、日々の生活で何かと鹿住を振り回し、困らせていることも度々あった。それでも、クラスに溶け込めなかった鹿住を引き入れてくれた彼女に、感謝の気持ちを抱いていた。

 雪華梨は、中学になってから神代町に引っ越してきて、慣れない環境に緊張していたらしい。一人でいるのは嫌だったので、偶々帰り道に見かけた鹿住に話しかけて良かった、としばしば言っていた。そのうち交友を深めてくると、彼女は自分の幼馴染についてよく話してくれていた。小学校の頃は何をしていたか、幼馴染と何をして遊んでいたのかを一所懸命に話す姿を見て、鹿住も楽しい気分になっていた。未だに電話で連絡を取り合っているという二人の仲に驚きもあったが、羨ましくもあった。

 中学二年もあと少しで終わる頃、放課後に雪華梨と帰っていた時だった。昼まで雪がかなり降っていたので、道端には新しい雪が積もっていた。彼女は満面の笑みを浮かべて鹿住に言った。

「明日さ、久しぶりに明里と会うんだ」

 明里とは、雪華梨の幼馴染だ。幼馴染なのに二人とも苗字で呼び合っているというのは、鹿住にとって不思議だった。

 しかし、その日の彼女の表情は、いつも幼馴染のことを語っている時と何か違う気がした。鹿住の眼差しに気づかず、雪華梨は続けた。

「それで明里に綾芽を紹介しようと思うんだけど、一緒に来られたりしないかな」

 鹿住は少し考えてしまった。雪華梨がよく話している明里に会ってみたい気持ちはあったけれども、二人の久々の再会に水を差したくはなかった。

「私がいたら邪魔になっちゃうでしょ。二人で会ってきなよ」

 鹿住は隣を歩いている雪華梨の一歩前に出て、後ろ向きに歩きながら説教じみた言葉を告げた。また後日、どんな話をしたのか雪華梨から聞ければそれでいいと思っていた。

 困ったように目をそらした彼女は、それでもなお食い下がった。

「いや、そんなこと気にしなくても」

 いいって、と言おうとしていた雪華梨の表情が一瞬にして強張った。

 鹿住は雪に足を取られて転倒してしまった。雪華梨の方を向きながら後ろ歩きをしていた鹿住は、すぐ背後に自動車の通るT字路があることを分かっていなかった。そして不幸にも、転倒したタイミングに車が今まさに横切ろうとしていた。それにいち早く気がついた雪華梨は、血相を変えて両手を前に伸ばし、突き飛ばされた鹿住は地面に倒れ込んだ。全部が一瞬の出来事だった。

 自動車はわき道から二人が飛び出してきた時に慌ててブレーキをかけたが、雪華梨は撥ねられた際に頭を打ってしまい、命を落としてしまった。

 鹿住はその日、夜通し泣き続けた。自分の不注意で雪華梨が死んでしまったのだと、自身を責め続けた。

 雪華梨が亡くなってから二ヶ月ほど経った頃、学校に行かずに家に閉じこもっていた鹿住に、雪華梨の母から、娘の墓参りに来て欲しいという電話がかかってきた。誰かと会うことは未だに怖かったけれども、事故があった当時より気持ちが落ち着いていたので、墓参りに向かうと決めた。買っていった花を添えてお参りをした後、鹿住と一緒に来てくれた雪華梨の母が、優しく語りかけた。娘のことを忘れてほしくはない。けれど、今を一緒に生きている人と、大切な時間を過ごしてほしい、と。ここで娘の命を奪ったのはあなただ、と責められることを覚悟していた鹿住には、暖かすぎる言葉だった。墓前で涙を流しながら、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も雪華梨と雪華梨の母に謝り続けた。自分は彼女のためにこれからも生きなくてはいけない、と強く決意した。

 その出来事があってから鹿住は再び学校に通い始め、徐々に元の生活を取り戻していった。毎月欠かさずに、墓にいる雪華梨に向かって話をした。楽しかった最後の中学校生活のこと、高校の受験に受かったこと、彼女がいなくなってから起きた些細なことまで丁寧に語った。

 そして、彼女がいなくなって一年と少しが過ぎ、鹿住が地元の高校に入学した時に初めて、檀雪華梨を失った明里幸都に出会った。

「入学式で配られるクラス名簿で名前を見て、すぐに分かったよ。この人が雪華梨の幼馴染なんだって」

 一通り語り終えた鹿住が、再び夜空を見上げながら最後に付け足した。

 明里は一息つき、隣の彼女に目をやった。自分が知らなかった幼馴染の姿を一気に聞かされて少し混乱していた。あの頃檀から電話で聞いていた友人が鹿住だったとは、思ってもいなかった。

 白い息を吐きながら、鹿住は続けた。

「私は雪華梨の母さんに声を掛けて貰って、少し救われた気がした。でも明里は、何も言われなかったんだね」

 彼女の言った通りだった。檀の母親とは小学生の頃に何度か会ったけれども、葬式の後から一度も連絡を取っていない。交通事故の詳細も聞かされていなかった。もしも当時鹿住が語った事故の真相を知ったら、鹿住を恨んでいたかもしれない。間接的とはいえ、檀が亡くなった原因は彼女にもあったのだから。

 少し強めの風が吹き、鹿住の長めの髪が揺らめく。二時二十九分までには、まだ少し時間があった。

「それで私は、クラスに『閏年の噂』を広めたんだよ。明里と何か、話のきっかけが欲しかったんだ」

 彼女は元々、「閏年の噂」について知っていたと言う。母方の旧姓が神代という苗字で、祖父であるこの町の地主から、神代の植物に魂が宿るという伝説を聞いていたそうだ。つまり、鹿住の祖父が店長に教えていた噂が、明里まで伝わってきた。結局、彼女に導かれる形でこの場所にいるのは何か皮肉だったが、思うところがひとつあった。

「そんな回りくどいことをしてまで、何がしたかったんだ」

 明里は少し威圧的に鹿住を問いただした。こんな遠回りをしなくとも、檀について直接話せばいいだけではなかったのか。噂に振り回されたことに文句を言うつもりはなかったが、この結末には納得いかなかった。

「明里は、もし噂が現実になって雪華梨に会えたとして、何を伝えたかったの。それがずっと知りたかったんだよ」

 真夜中の暗さに目が慣れてきたのか、夜空の星が明るかったのか、彼女の真剣な表情を読み取れた。

 檀を失ってから、確信のないただの噂や伝説にすがりつき、こんな寒い真夜中に公園に来てまで、自分は何を望んでいたのだろうか。明里は鹿住の鋭い目から顔を逸らし、しばらく考えを巡らせた後に呟いた。

「お別れを、伝えたかったんだと思う」

 そうしないと自分の中で時間がずっと止まったまま、生きていかなければならない。会えない人をずっと想っていることは、苦しくて辛いことだとこれまで痛感してきた。だから、檀の存在を断ち切るために、忘れるために、ここに来た。

 たどたどしく言葉を紡いだ明里に対して、鹿住は改めて問いかけた。

「じゃあ、忘れるために雪華梨に会いに来たの」

「そうだ」

 今度は彼女に向き合って、間髪入れずに答えた。そうしないと、自分の決意が揺らいでしまう気がした。

 鹿住は明里を見つめた後、ゆっくりと首を横に振った。目元に何か、光っているものが見えた。

「そんなに悲しいことは、ないよ」

 悲痛な鹿住の言葉に何も言えないまま、明里は俯いた。その拍子に腕時計を横目に見てみると、長い針が時計盤の五の部分を指していた。

 明里はベンチから立ち上がり、巨大なオガタマノキがある方へ向かった。公園の中に数本しかない外灯の光が少しだけ届く場所に辿り着くと、低めの柵の奥にある、雑草に紛れて咲いていたリモニウムを眺めた。数歩遅れて、鹿住もやってきた。再び時計を確認すると、その瞬間が訪れるまであと二分ほどだった。

 二十九分なんて中途半端な時間は時計によって誤差が出るだろうし、正確な時刻なんて分からない。この数分の間に何か起こるか。それとも、やはり噂にしか過ぎず、何も起きないのか。二人は黙ったまま、リモニウムを眺めながら立ちすくんでいた。

 そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。ふと我に返って時計を確認すると、針は二時半から少し進んだ時刻を示していた。数分しか立っていなかったはずなのに、もっと長い時間が過ぎていたように感じた。

 何も起きなかった。周りで何かが変わった気配もなく、ただ古びた外灯の小さなうなり音だけが響いていた。心の底では分かっていた。死んだ人が生き返るなんてありえない。もう二度と会うことは出来ないのだから。

 隣にいる鹿住にもう帰ろう、と促そうとしたが、明里は言葉を発せられなかった。彼女は何かを見ようと、懸命に瞳を凝らしていた。自分には見えないものが、彼女には見えているのだろうか。そして唐突に、目の前にあった低めの柵を飛び越えて、可能な限り花を踏まないようにしてオガタマノキに近づいて行った。何が起きたのかわからなかったが、明里も足元に気をつけながら、その後ろに続いた。

 ほのかに照らされた樹木の前に着くと、何かが刻み込まれていた。明里と鹿住は顔を見合わせて、ポケットから携帯電話を取り出し、おそるおそる刻まれている何かを光で照らし出した。


 『忘れないでくれて ありがとう』


 そこにはメッセージがあった。明里は木の表面に触れてみたが、刻まれた傷は治りかかっており、ここ最近でつけられたものではないのは分かる。ただ、そんな真偽はどうでもいい、と思ってしまった。このメッセージが誰かの書いたものでも、誰に向けて書いたものでもよかった。ただ、今この場にいる二人に彼女が伝えたかった言葉だと、信じたかった。

「あのさ、明里」

 ずっと黙り込んでいた鹿住が、泣きそうになりながらこちらを見ていた。

「大切な人を忘れて生きていくのって、その人が死んじゃうよりも悲しいことなんじゃないかな」

 胸を刺す言葉に、明里は刻まれた文字を目に焼き付けながら答えた。

「そうなのかも、しれないな」

 ずっと忘れたかった。過去に縛られたまま過ごす日々が、辛かったからだ。忘れようとする度に思い出して、苦しんでいた。いつか消えていくだろうと思っていた記憶は、残り続けていた。それほどまでに、自分にとって大切な存在だったからだ。

 明里は再び、刻まれたメッセージに手を触れ、どこかにいるかもしれない大切だった人に、伝えたかった想いを呟いた。

「ありがとう。さよなら」

 自らを縛ってきた過去が、明里の中で忘れられない想い出へとたしかに変わった。



 翌日、明里は鹿住に指定された場所へと向かった。バス停のある大通りから少し外れた坂道を登った先の、小さな霊園に着くと、入り口で鹿住が待っていた。いくつもの墓石を横目に、敷石の道を歩く。井戸で汲んできた水が入った水桶と花を手に、鹿住の後ろ姿を追う。

「ここだよ」

 彼女が立ち止まった目の前には、丁寧に手入れがされている墓石が佇んでいる。竿石の部分には、『檀家之墓』と刻まれていた。柄杓(ひしゃく)で水を汲み、墓石にかける。一際綺麗になった墓石が、暖かくなってきた日の光を反射して輝いていた。

 鹿住が花を供えて合掌した後、明里もそれを真似て手に持っていた花を静かに捧げた。その時、こちらを見つめていた鹿住と目が合った。

「そのお花はなんていうの」

 これで彼女に花の種類を教えるのは何回目になるか。昨日起こったことに衝撃を覚えたせいか、これまで彼女とあった出来事がとても懐かしく思えた。

「これは、紫蘭っていうんだ。檀にあげるなら、この花が相応しい気がして」

 先刻、明里が店長に墓参りに持って行く花を欲しいと告げたところ、先回りされてこれを持って行くといい、と選んでくれた。奇しくも、明里が欲しかった花と同じだった。

 無言で花を見つめる鹿住に、明里はからかい半分で聞いてみた。

「花言葉、聞かなくて良かったのか」

 数秒目を瞑った後、鹿住はそっぽを向いてしまった。

「いいよ、今度は自分で調べてみる」

 子供じみた態度に呆れてしまったが、明里は気を引き締めて墓石に向き合い合掌した。

霊園から出る直前、隣を歩く鹿住が聞いてきた。

「そういえば明里は、さっき雪華梨になんて伝えたの」

 今更だがなんとなく気恥ずかしくなり、鹿住にそれを伝えるのは憚られた。

「それは秘密だ」

 煙に巻こうとする明里に聞いても無駄だと悟ったのか、彼女は小さくため息をついた。

「ほら、もう行くよ」

 鹿住に催促されたが、明里は振り返って遠くから墓石を眺めた。さっき供えてきた紫蘭の花が風に揺られているのを見て、合掌した時に伝えた言葉をもう一度強く心に刻みつけた。

 ずっと君を忘れない、と。


読んでいただけたら幸いです。

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