妹は人魚姫
明日は、衣替え。夏服の準備を確認し、ぬかりはない。
あとは風呂に入って寝るだけだとリビングへ降りていくと。わが妹が、無言でなにか本らしきものを読んでいた。
「何を読んでるんだ、おまえ」
「あ、兄貴。これは中学の文化祭でやった『人魚姫』の劇の台本。夏服の用意してたとき、洋服タンスの奥から見つけて、懐かしいと思って読んでた」
「……ああ、おまえが中1のときのか」
思い出した。確かこいつは主役の人魚姫やったんだよな。この超絶美少女ぶりを買われて。――演技は超絶大根役者だったが。
「おまえがセリフを棒読みするシーンを思い出すと、今でも笑えるな」
「そりゃ棒読みにもなるよー。あの頃はまったく人魚姫に感情移入できなかったんだもん。セリフ少ないっていうからやったのになあ……」
自分の身を犠牲にして、王子を愛した人魚姫か。――確かに、そんな心情が中学生に理解できたら、そっちのほうが怖い。
「悲恋の代表的な話だもんな、人魚姫は。なんでそんな話を劇でやったんだ?」
「単なる担任の趣味」
「……その担任はひょっとして独身だったか?」
「アラフォーに片足つっこんだ独身男性教師でした。多分まだ独身」
「やっぱり」
あだ名はアンデルセン先生だったに違いない。『人魚姫』は、女性に振られまくった腹いせにアンデルセンが作った作品、なんて笑い話があるくらいだから。
「……??」
「ああ、気にするな。でも、人魚姫ってきれいな話だとは思うけどな」
「登場人物バカばっかじゃん」
「おい言い方」
「今読んでもそう思うよ。王子もバカなら、人魚姫もバカ」
確かに、ロミオとジュリエットしかり、ある意味みんな残念であるからこそ悲恋が成り立つ、というか。いや本人たちは至って真面目だと思うけど……真面目に残念を演じるから、巡り巡って悲劇になるのかな。
「悲劇だから、印象が美しく残るだけかもしれないな。でなきゃ人魚姫の像が観光名所にならん」
「あのデンマークにあるやつ? あれは一回見てみたい」
「ん? 人魚姫好きでもないのに、像は見たいのか?」
「だってあの像、実物すごいショボいらしいんだよー。札幌の時計台を最初に見たとき、『……えっ?』ってなった、あの感覚をもう一度味わいたいんだー」
「そんなん大阪にあるレプリカでもいいじゃないか……」
「ああいうのは、元祖を苦労して見てがっかりするものでしょうが! 兄貴はわかってない!」
おまえはそんな残念な感覚を楽しむために、海を渡るのか。おまえが一番残念だよ。
―・―・―・―・―・―・―
その後、妹は風呂に向かった。
テーブルの上に置きっぱなしになってる台本を、なにげなく手に取ってみる。
「……声と引きかえに足を与えるとは、本当に魔女えげつねえ……いや、えげつないから魔女なんだな」
声を失い、王子に真実を伝える手段を失ってしまった人魚姫。
そして、言葉がないと真実がわからない王子。思わずひとりごとが出てしまう。
「確かに、どっちもバカなのかも、しれないな。伝わらない想いなんて……」
――永遠の魂のことはこの際置いといて。
真実を言葉で伝えられなくても、王子のそばにいたかったのか。それとも、王子が真実をいつかは知ってくれる、そう信じていたのか。
想いが伝わらないのは、傍目から見るとすごくもどかしい。
「……言わないと伝わらないことも、あるってことなんだよね」
いつのまにか風呂から上がってきた妹が、髪をタオルで拭きながらそう話しかけてきた。
「おう、いつの間にか上がっていたのか」
「ん、いい湯でした」
「そうか、俺も入ろうかな。……言わないと伝わらないこと、か……」
「ん。人魚姫は、あれだけ大好きな王子のそばにずっといたのに、大好きな人に一番伝えたいことは言えないまま……」
「…………」
「……それでも、王子から離れることも殺すこともできず、自分の気持ちに嘘をつかず生きたんだよね。今なら、人魚姫の役、うまくやれるかも」
言い切りやがった。中学生の頃と比べ成長したということか、こいつも。
「ほう、ならば、試しに人魚姫役やってみろ」
「いいよ。『……王子、愛しています』」
そういって、妹は濡れた髪も乾かさず、俺の胸に顔をうずめてきた。シャンプーの香りがあたりに広がる。
「……そんなセリフあったか?」
「黙れ王子。『――例えわたしは、あなたに想いを伝えられなくても、あなたのそばにいます。それだけがわたしのすべてなのですから』」
演じる劇を間違ってないか? 俺の記憶の中の人魚姫と違うのだろうか。どうすればいい、王子役の俺。あとおまえマジで演技うまくなったな。
「………………」
「――という人魚姫の気持ちは、哀れ王子様には伝わらなかったのでした。まる」
セリフをどう返そうか困って無言でいたら、妹が俺の胸にうずめてた顔を離し、そうオチをつけてきた。妹劇場無事終了。
「……どうだった? わたしの人魚姫」
何やら意味ありげに、妹が感想を要求してきた。その尋ね方には冗談のかけらすら残ってなくて、少し俺は戸惑う。
「……ああ、やっぱ人魚姫だったのか。違う劇かと思った。確かに演技はうまくなったな」
「演技じゃなかったからね、厳密には。うん、やっぱり人魚姫は妹属性。そして、王子は兄属性」
「なんだそりゃ」
「つまり、わたしたちは毎日、人魚姫の劇の練習をしてるようなものなんだよ」
妹はそう言って寂しそうに笑ってから、ふたたび俺の胸に顔をうずめてきた。
――――なんだ、今の表情は?
そんな言葉は言えるわけもない。妹の濡れた髪を撫でるしか、今の俺に出来ることはなかった。
「……わたしを泡にして消したりしないよね、お兄ちゃん……」