それは一人の前日譚
「なんだ、これ………」
見渡す限りの銀世界。
人の足跡、獣道一つも何もない。純白の雪景色。
────んにゃぁぁぁあ……
頭上の猫の声でやっと我に返る。
「ううぅ、寒っ!」
女の声が隣から聞こえる。見ると鼠色の布一枚で体を覆った中学生くらいの女子が自らの体を抱き締めて寒さをこらえていた。
布一枚、と言っても頭はフードみたいに隠れてるしちゃんと手足を通す袖みたいなのもある。足は別れていないでスカートみたいにはなっているしどちらも彼女の体にしては大き過ぎるくらいだ。
先程中学生くらいと称した女子であるが、実際は中学生でも何でもない。
「てか神様ならこの事態どうにか出来るんじゃないのかよ…よ…よ……」
やばい、口すら震えてきた。
「神といっても今の私は力無き有象無象の神々と変わらないわ……何のためにお前に付いてきたと思ってるの!? まぁったく、さっむいなぁ」
────にゃぁぁあ
頭の上に乗った猫が鳴く。ただ危機感の感じられない鳴き声に彼は和み、神と呼ばれた女子は一歩後ずさって怯える。
「何でこんな事になったんですかね」
猫の鳴き声が銀世界に木霊する。
そんななか、彼女は少し前のことに思いを馳せていた…────。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
───彼はしがない会社員だった。
普通。彼自身は普通の会社員だった。色々、過去に普通のようで普通じゃない、いや普通の範疇の出来事を抱えた一般人だった。
ただ、勤め先がどうしようもなく真っ黒い、ブラックコーヒーも真っ青なくらいのブラックさだったのです。ついでに言うとブラックコーヒーを彼は毎日飲んでました。カフェイン中毒上等の勢いで飲んでました。三徹くらいは余裕でする位に大変でした。
そんな彼には日々の癒しと呼べる時間が………。
「ニャーちゃーん」
銀の毛並みの、雑種。体毛は長めで、顔だけ暗い灰色の雌の猫だ。
元は捨て猫。ある日拾ったのである。
「かぅぁあいいいい…………」
彼は既に二十代の後半に入った頃合いであるが、そんなことお構いなしに、猫を抱き抱え撫で回しながらゴロゴロ転がって悶える。
正直そのデレデレ具合に、他の人が見たらドン引きするだろう。
「ニャーちゃんは────」
彼は楽しそうに猫の肉球を弄ったり毛繕いをしたり、頬擦りしたりしている。
「…………電話? ………はぁ」
彼の部屋にけたたましく音楽が響く。電話の着信音であり、彼には電話をかけてくるような間柄の人間は存在しない。
つまりはこの電話、地獄への片道切符である違う仕事の電話である。
「俺の癒しを削り取ろうなんて良い度胸を─────はいもしもしどーもでーす………」
声音明るく、姿勢低く電話に応対する。心配そうに飼い猫が鳴いたのだが、誰も聞いてはいない。
「ったくこんな時間に仕事か………」
既に日は暮れている。珍しく長めに休めると思ったら、結局半日ものんびり出来なくて頭が痛い。
電車に乗って、乗り換えて、暫く揺られて、降りて、暫く歩く。およそ一時間ほどで会社に着いた。
「ったく……」
「──あれ? 先輩じゃないですか? こんな時間にご苦労様です」
声をかけられた。正面からは若いスーツ姿の女性が歩いてきた。肩に付かない程度の長さの茶髪に、薄目の化粧の。
外見が若干幼く見えると言うのに、立ち振る舞いが若い子らしくないこの子は彼の後輩の───
「時子ちゃんじゃないか、今帰り? 良いなぁ、俺今から仕事だよ」
名字を覚える前に名前を覚えさせられたせいで、彼女のことは時子ちゃんとしか彼は言えなくなっていた。名字は覚えていないが、数少ない後輩の一人である。
「………そう言えば先輩、なんでこんな超過酷な職場に居続けてるんですか?」
「……どうしたの突然…?」
「いや、働いてる身からして、この会社ブラックじゃないですか、腐った蜜柑並みのやばさじゃないですか」
「その言い回し合ってない気がするけど……そうか、ブラック会社だったのかうちの会社」
「気付いてなかったんですか? ははっ、ちょっと先輩可哀相です」
「………その言いぐさひどいよ。薄々感づいてたし、感づいてたし!」
「そうですか? じゃあなんで辞めるなんて思ってないんですかね」
心の底から不思議そうに、時子ちゃんが聞いた。
彼自身、答えは決まっていた。
「あの子の為、かな」
普段から頭を酷使してきたからか、彼は言わなくても良いことを饒舌に語る。
「あの子を拾ったのは……確か高校卒業から暫くたった頃だったかな。あの頃の僕は大学受験失敗して……色々なことが重なってニートしてたんだよ、まだ親が生きてた頃だけどね」
「先輩の親御さんって確か……お亡くなりに」
「うん、事故死だったんだ。両親とも揃って仲良く……。それで一応あった遺産が俺の手元に転がり込んできて……それで遊んでたんだ」
「遊べるほどあったんですか?」
「……無いよ。大した金じゃない。直ぐにそんなものはなくなり……そうになったんだ」
「無くならなかったんですか?」
「ええと、なくなる前にあの子に会ったんだ。駅前で遊んだ帰りに、雨に濡れて鳴いてたのを見つけちゃって……どうも放っておけなくて」
「泣いてた子を拾った……」
時子はどうしてか小さい女の子を想像していた。時子の彼に対する視線が犯罪者に向けるそれに変わる。
「拾った当初は大変だったよ。ご飯代が馬鹿にならなくてさ、バイトを始めた。それもいくつも。そのころは明日の生活も困るくらい困窮していたからさ」
時子からの冷たい目線に気付かないままに、彼は話を進めた。
「どう世話すればいいのか、分かんなかったからある程度調べた。出来るだけ高い物を買い与えたし、それこそ食べ物には結構注意したよ……缶詰よりも魚の残りとかの方が好きだったみたいだけどね」
「そんなのしか与えてなかったんですか……?」
「そんなの……って言っておくけどこれでもがんばってたんだからね! 出来る限り可愛がって育てたし!」
「可愛がって………!?」
どうしてか時子が青ざめるのが彼にも分かった。
「とにかくその子のために仕事を頑張ってるの! これがすっっごく可愛いんだよ! 写真見るかい!?」
「うぇ、えっ…………と、見ますよ?」
「ほらこの子!!」
取り出したスマートフォンを操作してその画面を時子に押し付ける。
「近っ!!? って……………猫?」
「最初からそう言ってるじゃないか」
「言ってませんよ!? まぁ、先輩が誘拐犯じゃなくて良かったです」
「………どこを聞けばそうなるんだか」
「ははは…………」
時子はこの一瞬だけ青筋を額に浮かべるほどに激怒したが、彼はやっぱり気付かない。
「そうですか、猫のために……」
「そう、あの子居なければ屑みたいな生活してたかも分からないから感謝してもしきれないんだ、まあ、可愛いし」
「参考になりました、やっぱり私この仕事辞めます」
「えっ、辞めちゃうんだ」
「私にはこんなブラック会社でも働けるような大層な理由が無いですから……でも、先輩、体は大事にしてくださいよ? いつか……本当に死んじゃいますよ?」
「──────…………それは、嫌だなぁ」
彼は一瞬、想像して背筋が凍る思いをした。真っ先に飼い猫が心配になり、どうしようもない不安に駆られた。
「まぁ、先輩も早くこんな傾きすぎて真っ二つになって沈む寸前な船から脱した方がいいですよ……いざってなったら養って上げます」
「……っ…冗談だよな。連絡先も知らないし」
「えー、先輩真面目だし結構本気で………」
「はぁ、仕事遅れちまうから行くぞー、じゃあな、巡り合わせが良ければまた会えるよ」
「案外すぐ会えそうですよね私たち」
「…………」
彼は、会社に入って行った。
「はぁ、まぁ。あの人、もう長くないですしね……」
歩み去った時子は、夜の暗がりに紛れて消えた。
「仕事終わり………って言うか、マジで人居ないや。上司とかどこ行ったよ」
独り言が虚しく職場に響く。
「まあいいや、帰るか……朝日……じゃねえ、夕日が眩しいや」
窓からの陽が目に刺さる。頭が痛い。
「……………っ」
階段に踏み出す寸前一層すさまじい頭痛を覚えて、そして────────