失憶の時計
この店に居ると時間の感覚がおかしく感じる。
楽しい時間は速く感じるという事は解っている。
それにしても速すぎると思い、計ってみるかと左手に目を移すと、いつもはしている腕時計が無かった。
失敗したなと思い、店主に時間を尋ねた。
店主は棚に並んでいた時計を見ながら時間を教えてくれた。
これは丁度良いと今日の聴く話は決まった。
「店主、この時計にはどんな過去があるのですか」
店主は、自分の意図が解ったのか、時計の針がキリの良い所まで待ち、語り始めた…………
女と男は小さな喫茶店で大切な話をしていた。
お互いに気持ちは解っていた。
なかなか最後の科白を言わない男に、女は自分から言う事にした。
結婚して下さいと。
間を計り、今だと口を開き掛けた瞬間に衝撃が走り、体が持って行かれた。
喫茶店に車が、ドアでは無く壁から入って来た。
薄れる意識の中で女は、男の姿を探した。
身体が動かず無事でいてねと祈りながら眼を閉じた。
女が目を醒ますと病院だった。
頭が重く痛かった。
記憶が曖昧だった。
幸いな事に、身体は軽く怪我は無かった。
代わりに古傷が痛んだが、記憶に無いくらい前の事だと気にならなかった。
それよりと、医者に男の事を
聴いた。
医者は何処か面倒臭そうに見えた。
態度は気に入らなかったが、早くと急かした。
まず、女の事をと順番に医者の無駄に長い説明を頭の中で要約した。
自分の事はどうでもいい。
男は記憶を失った。
稀に思い出すが一日しか持たない。
新しい記憶も同様に。
午後の十二時にリセットされる。
何故か不自然な程に理解が出来た。
やるべき事は直ぐに解った。
男の病室に走った。
病室の前で覚悟を決める。
何を言われても我慢すると。
病室に入ると男がベッドに腰掛けていた。
怪我は無いように見えた。
お互いに無事で良かったと声を掛けると、覚悟はしていたが、聞きたく無かった言葉が返ってきた。
誰ですか。
たった一言で、ここまで人を傷付ける言葉が在ることに泣いてしまいそうだった。
なんとか我慢し、名前と二人の関係を話した。
男は首を振り、何も思い出せないと言った。
辛そうな女に、男はすいませんと頭を下げた。
それが女の我慢の限界を越えさせた。
他人行儀な言葉と態度が、痛くて辛くて、おかしくなってしまいそうだった。
泣き叫びながら男の襟首を持ち、力任せに振った。
看護師が飛んで来て押さえ付けられた。
引き摺られる様に自分の病室に戻された。
女は落ち着きを取り戻し、ベッドの上で考えた。
医者から説明された事を整理し、これからの事を決めた。
思い出してくれるのを待つ。
例え一日しか持たないとしても。
思い出さない日も好きにさせてやる。
次に思い出すのが何時になるか自分も不安だったが、出来る事はしようと決意した。
それから毎日、男の病室に向かった。
自己紹介から始まり、二人の思い出を語った。
どれくらい好きだったか伝えても、男は曖昧に首を振るだけだった。
四日目は変化が在った。
記憶は戻らないが、一緒に居ると楽しいと言ってくれた。
心の中で、やったと繰り返した。
枕元の上にある、時を刻む時計が憎かった。
もうすぐ一日が終わる。
また始めからだと思うとやりきれなかった。
時計が十二時を指すと、男は眼を閉じた。
お休みと呟き病室を後にした。
時間が足りない。
苛立ち親指の爪を噛んだ。
爪は何度も噛んだような跡があった。
いつやったのかは思い出せなかった。
五日目と、六日目は何も無かった。
女の言葉に曖昧に返事を返すだけだった。
爪に新しい痕が増えた。
七日目に女は、時計の針が迫ってくる夢を見た。
時間に追われている事は解っていた。
今日は精一杯に頑張ろうと決めた。
男の病室に行き、深呼吸を一つしてドアを開けた。
男は起きていた。
いつものように自己紹介を始めると、男は笑いながら女の名前を呼んだ。
懐かしい呼び方と雰囲気に、何が起こったのか理解するまで固まってしまった。
男の記憶が戻った。
言いたい事が沢山あったのに、何も言えず手で口元を押さえ、嗚咽を堪えながら泣いた。
男はお互い無事で良かったと言った。
男の記憶は事故の在った日のままだった。
明日には忘れてしまうと解っていても嬉しかった。
あの日に出来なかった話をした。
結婚しよう。
結婚して下さい。
二人は同じ気持ちで言った。
答えは聴かなくても互いに解った。
二人共に顔を見合せ笑った。
ただ一緒に居るだけで幸せだった。
時間が気になり、何度も時計
を見た。
壊れているのではないかと疑う程に時間が経つのが早かった。
やがて刻が来た。
男が眠いと言った。
また明日なとベッドに入り眼を閉じた。
時計に眼を向けた。
今日が終わるまで後、秒針が三週分あった。
一週分の時間を男に感謝と気持ちを伝える事にした。
幸せを有り難う。
忘れてしまうけど、きっと私がまた逢いに来るからね。
涙が頬を伝った。
医者の言葉が頭に甦った。
貴女の記憶は七日間しか持ちません。
次に思い出すのが何時になるかも解りません。
時計の針は優しくはしてくれず一週を切っていた。
女は眼を閉じ、優しく呟いた。
次に思い出す私、頑張ってね…………
「時計の針は誰にも平等で残酷です。だから、時間はとても貴重な物です。何せ、いくらお金を積んでも買うことが出来ない程に高いですからね」
時計に眼をやると、かなりの時間が経っていた。
「お客様にとって、私の話は限られた時間を使うに値するでしょうか」
大きく頷き店を出た。