監視者の眼鏡
店内を眺め、雰囲気に浸る。
どの品の話を聴くか、目移りしながら選ぶ楽しさに心が躍る。
足の命ずるままにすると、度のきつそうな眼鏡の前で足が止まった。
「店主、この眼鏡にはどんな過去があるんですか」
店主は、いつもより丁寧に眼鏡を掛け直し、品の過去を語り始めた…………
仲の悪い夫婦が居た。
もう互いに気持ちは無く、別れずにいるのは、娘がいたからだった。
男は娘を愛していたが、女は大嫌いだった。
互いに親権を求め争った。
男は愛する娘と一緒に居る為に。
女は裕福な男から、養育費という名目で金を得る為に。
二人は娘の機嫌を取り、自分と一緒に暮らそうと言った。
娘が選んだのは母親だった。
そして、満足な額の養育費と慰謝料を勝ち取った。
裁判が完全に終わると、女の態度は一変した。
女は、娘を居ない物として扱った。
どんなに無視をしても、お母さんと言い、なにかと側に寄ってくる娘が更に嫌いになった。
面倒になり、解るように説明をする事にした。
金の為だけに親権を取った、お前が大嫌いだと。
娘は泣きながら謝った。
捨てないでと抱きついた。
訳の解らない事を必死に言っていたが、聞く耳を持たず、声も聞きたくないと突き放した。
それからは、娘は話掛けて来なくなった。
必要な物があれば紙に書いてあった。
耳障りな声を聞かなくて済むようになり清々した。
しばらくは良かったが、苛立つ事が一つ増えた。
何かを言いたげな眼が気に入らなかった。
父親似の眼で、お母さんと訴えかけて来る。
見るなと言っても、その場だけで、直ぐに女に視線を戻した。
いくら言っても聞かず、怒鳴り散らした。
娘は何も言わず、女に背を向け、点いていたテレビを消した。
動かない娘が何をしているか解らなかった。
暗い画面を見て、不意に娘が何をしているか解った。
画面越しに自分を見ていると。
テレビを付けようと近づく女を、画面に映る娘の視線が追った。
気味の悪さと怒りが込み上げ、自分の部屋に逃げ込んだ。
それからも、娘は女を見る事を止めなかった。
女は何か手はないかと考え、眼鏡を娘に掛けさせた。
度の合わない眼鏡を。
娘は首を振り、嫌がったが赦さなかった。
いずれ視力も落ち、視る事が困難になればいいと、素晴らしい考えに思えた。
分厚いレンズ越しに、眼を細める娘が滑稽で女は笑った。
一緒に居る時は必ず、眼鏡を掛ける約束をさせた。
娘は可笑しな事を始めた。
鏡を手放さなくなった。
色気付いたかと思ったが、違った。
何をしているかと近付くと、鏡越しの娘と眼が合い、鳥肌が立った。
女の動きに合わせ、鏡の角度を変える娘に恐怖を覚えた。
女は怒鳴った。
今すぐ止めろと。
娘は泣きそうになりながら、何かを説明しようと口を開いたが、女は喋らない約束だと更に怒鳴った。
乱暴に部屋に戻ろうと居間のドアを開けた。
娘が追ってくる気配に、苛立ち振り返り、呼吸が止まった。
娘は背を向け、後ろ向きに近付いて来た。
鏡の角度を調整しながら。
女は悲鳴を上げて部屋に逃げ込んだ。
何が目的だ。
嫌がらせか。
嫌いなのはお互い様だ。
いくら考えても解らず、頭がおかしくなりそうだった。
酒を煽り気持ちを落ち着かせた。
酔いが回った頃、音が聞こえた。
何かが暴れているような音に、言い様の無い不安が押し寄せた。
音は暫く続き止まった。
娘の奇行が増えたのかと、止めさせる為に腰を上げた。
居間に入ると娘が血塗れで倒れていた。
酔いも手伝い、頭が働かなかった。
娘に駆け寄り、名前を呼び、大丈夫かと揺すった。
娘は薄く眼を開け、手探りに眼鏡を探した。
震える手で眼鏡を掛け、首を振った。
何が有ったと聴くと、口の前に人差し指を当て、また首を振った。
もどかしいやり取りに怒りが込み上げた。
娘にでは無く自分に。
喋ってもいいと、自分でも驚く程に優しく言った。
娘は笑った。
笑った顔は久し振りに見たと思った。
嬉しいな。
名前を呼んでくれて。
お母さん、大好きだよ。
もう守ってあげられないの、ごめんね。
娘の身体から力が抜け、呼吸を止めた。
女は声を上げて泣いた。
自分が母親だった事を思い出した。
いくら謝っても、娘は動かなかった。
悲しくて哀しくて壊れてしまいそうだった。
娘は守れなくてと言っていた。
誰からだ、誰が娘をと怒りが湧いた。
殺してやる。
殺意を向けるべき相手が解らず頭を抱えた。
そして、簡単な事に気が付いた。
娘に聞けばいいと。
女は娘に優しく語り掛けた。
何も答えない娘に、女は苦笑いを浮かべた。
偉いね、ちゃんと約束を守って。
眼鏡も掛けてるしね。
女は頷き、笑った。
私も大好きよ。
お母さん、解るの。
喋らなくても、眼を見れば何を言いたいか解るのよ、お母さんなんだから。
誰にやられたか、お母さんに教えて。
そう、お母さんにやられたの。
そういえば、ずっと包丁を持ってるもんね。
ちゃんと見てないと危ないね。
うんうん、自殺しないように頑張ってたんだね。
だから貴女も、包丁を握ってるのね。
自分とお母さんを、一緒に見張れるように鏡で見てたんだね。
まだ子供なのに賢いね。
包丁を逆手に持ち変えた右手を、左手で必死に抑えた。
お母さん弱いから、これからも見守ってね。
眼鏡の奥の眼が何を答えたか、女は優しく頷いた。
「それが、この眼鏡です。目は口ほどに物を言うと言いますが、会話まで出来るとは、やっぱり母親は凄いですね」
大嫌いだった母親の事を思い出し、嫌な気分になった。
店主は慌てて頭を下げた。
「すいません、余計な事を言いましたね」
自分が今、どんな眼をしているのか気にしながら店を出た。