そして少女は勇者に……なる?
「………………あっ」
少女は心底戸惑ったような。困惑したような。やってしまったといわんような――そんな、声を漏らす。
暫し身体を膠着させて、逡巡。
「元に戻しといたら、バレないかな」
えいやっ、と言わんばかりに元通りにしようとして。けれどそれは、叶わない。何故なら――手にしたそれが、元通りになる事を、拒むのだから。
ジト目で手の中に収まっている物体を睨み付け、重い、重い、溜息を吐き出す。
「とりあえずさっさとこの場を離れよう。そうしたらきっと――」
「勇者様だ……勇者様が現れたぞ!」
「でもこんな小さな女の子が?」
「だとしても、あの子の右手。あれは間違いなく聖剣だ」
「誰かが抜いたのを、あの子が横取りしたんじゃ」
「いやいや。あの聖剣は抜いた人間しか触れないんだ。間違いなくあの子が抜いた、勇者だろう」
「……うそ。もう人が集まってきてる……」
如何しようもない。だから、手にしたものをそのまま放り投げ、逃げ出そうとして。然し一歩遅かった。
何処からともなく人々が集まり始め、口々に囁き出す。驚きの余り、呆然とその様子を眺めて長居してしまったのが悪かったのだろう。もし、その時慌てて走り出していたら。まだ間に合ったかもしれない。
あれよあれよと、少女は衛兵の手によって王宮に連れていかれ。王の前に引き摺り出された挙句。ぽん、と野に放たれた。
――魔王討伐の、勇者として。
うっかり引き抜いてしまった聖剣と共に。
「……さてね。如何するかな」
背中に聖剣を巻き付け、立ち尽くしながら零す。
取り分け勇者となる事に抵抗感はない。例え女が――それも子供が引き抜いてしまったとあって、国の期待は薄く、パーティーを組む事すら許されず、たった一人の討伐隊だったとしても。
問題、は。
「探しましたよ、魔王様。全く。せめて何処へ行くかぐらい、書き置きしておいて下さいと何時も言っているでしょう。歴代の中で最も強いとは言っても、またまだ未熟なんですから。それに探す家臣の身にもなって欲しいものです」
「……サージェス」
ぽん、と突然その場に現れた執事姿の男は、少女に向かって捲し立てる。
一見すれば人間と変わらない執事姿の男は、勇者となった少女に向かって確かに言った。――魔王様、と。そうして少女もそれを否定するとなく、執事姿の男の名を、呼ぶ。
つまりそう。勇者となった少女が抱える問題とは――本人が倒されるべき、魔王であるということだった。
「何でしょうか。魔王さ、ま……ちょっと。待って下さい。魔王様。あなたがいま背負ってるそれは、一体なんです? いえ、いいえ。言わなくても見覚えが嫌という程あります。ええ、ですがまさか本物なんて言いませんよね? そうですよね。嘘でもそうと言って下さいお願いします」
「……聖剣。抜けちゃったんだけど。どうしよう。これ」
「っ〜〜〜〜! どうしよう、じゃないでしょう! この大馬鹿者が! だからあれ程いったではないですか! 好奇心だけで行動するのは慎みなさいと。それが何時か己の身を滅ぼす事になると!」
「いや、いやね。ほんのちょこーっと、触ったら痛いのかなーって思ってさ。触ってみたんだよ。そしたらなんか、するって石から抜けてさ」
「その時の状況を聞いてるんじゃないんですよ! むしろ聞きたくありません! 如何するんですかそれ! そんなもの魔王城に持ち帰るなんて許しませんよ私は!」
「サージェスぅぅ……おねがい。一緒に考えて、これどうしたらいいか」
「 い や で す ! ご自身の問題はご自身で解決して下さい。今回という今回はほとほと愛想が尽きました。私はこのまま魔王城に帰って、皆にことの顛末を話します。魔王様はどうぞ勇者ごっこを楽しんでください。但し魔物をそれで切った段階で、魔界に魔王様の居場所はなくなるものとお思い下さい」
もうサージェスは止まらない。暴走機関車の如く喋り倒し、怒り心頭といった様子で踵を返す。けれど。そんなサージェスの背筋をぞわり、と何かが撫でる。
ひんやりとしたものが背中を伝う。全身から吹き出す汗が、止まらない。
――嗚呼、嗚呼。やはり、聖剣を抜いたとて魔王は魔王でしかないのだと。思い知らされるかのように、サージェスは頭から、肩から、全身に掛かる負荷に耐え切れなくなり、思わず地面に膝をつく。
「ふうん。そっか。そっか。私の居場所は無くなるのか。じゃあサージェスも、みんなも、遠慮なく勇者として叩き斬って、それから人間の国で過ごすのも悪くないかもしれないね」
無邪気に、笑う。嗤う。わらう。
自分が負けた時の事なんて、微塵も考えていない。――否。負ける訳がないと、言わんばかりに。嗚呼けれど、それは当然の事なのだから。
サージェスは知っていた。下位から上位まで、全ての魔物が束になって掛かったとしても、この魔王には敵わないだろうという事を。それ程までに、圧倒的な力量差があるのだという事を、嫌という程に。
恐怖からか。サージェスの顔はいっそ死人の方が顔色が良いくらいまで青褪め、身体は不規則に震えている。
「手始めに、ちょうど目の前にいるからサージェスの首を落そっか。そうすれば、私が魔王じゃないならサージェスが魔王だし、きっと魔王を討伐した事になるよね」
――そう。そうだった。
今でこそ魔王に仕え、執事服なんて着ているけれど。今背中にいる、暴力的なまでの絶対的な強さを持った魔王が生まれ落ちる前までは、サージェスが魔王であったのである。
下克上された訳でもない。倒された訳でもないというのに、ただそれが存在するだけで敗北感を味わう――赤子を前にして、抱いた感情に。サージェスはそっと、魔王の地位を譲り渡した。
何処かにいる魔族の長は、サージェスを臆病者と蔑む。城に仕える者の中でもサージェスを歴代で最も弱い魔王と比喩しているのを、知らぬ訳がない。そうして、現魔王をサージェスが臆病風に吹かれたが故に魔王となれたのだと、嘲笑っている事も。
――だが、果たして本当にそうだろうか。
魔族とは力が全て。何も持たぬ者が魔王になどなれる訳がない。余りにも力が強過ぎて、もしかしたら彼らは分からないのだろうか。或いは普段はその片鱗を見せぬが故、侮られているのかもしれないけど。
何にしても、今は関係ない。己が身に差し迫った恐怖にすら太刀打ち出来ぬほど、身体を強張らせているサージェスに視線を向けること無く。魔王は、背中に背負っていた聖剣を手に、して。
動けないサージェスの首目掛け、勢いよく振り下ろす。
「……あはっ、なーんてね! 他の馬鹿どもならまだしも、サージェスの首は取らないよ。此処まで育ててもらった恩義がある。それに、色々教えてくれたり、心配してくれてるの知ってるし。まだまだ、いーっぱい教えて貰わなきゃ駄目だしさ」
空を切る音に、サージェスは間違いなく死んだと思った。目を瞑って、けれど何時迄も訪れることのない死に、そっと瞼を持ち上げる。
地面に切っ先が突き刺さった聖剣。ばらばらに散らばった黒く細い、何かの物体。
――嗚呼、髪を切られただけで生きているのだと。視界と耳に入ったそれらから、一気に全身の力が抜ける。魔王から向けられる魔力や圧迫感から解放された、と言うのも大きいだろう。
思わずへたりこむような形で完全に、地面に座ってしまったサージェスをみて魔王は不思議そうに首を傾げ。
「あれ。どうしたの? もしかして、頭に聖剣当たっちゃったりした?」
「……いえ、いいえ。ただ少し、疲れが出ただけで」
「そっか。それくらい私のこと探してくれてたんだ? うーん、怒ってごめんね。今度から、気をつけるから。この聖剣どうするか、一緒に考えてくれる?」
「……ええ、勿論です」
「良かったー! サージェスならそう言ってくれるって思ってた! よーし、そうと決まれば、とりあえずこのまま魔界に帰る訳にはいかないし、近くの人間の街にでも行こっか!」
「魔王様……」
思わず、学習能力がないのですか、と言おうとして。サージェスは口を噤む。多分また聖剣を向けられる事は、この程度ではないだろう。けれど、さっきの今。先のような態度は、取れないというよりも取りたくなかった、というべきか。
一つ息を吐き出して。サージェスは漸く戻ってきた身体の感覚を確かめながら、ゆっくりと立ち上がる。
「街中で、騒ぎを起こさないで下さいね。絶対に」
「……うん! 善処する!」
あ、これは駄目だな。と頭が痛くなった。善処する気など全くないだろう。元気よく魔王から放たれた言葉から、サージェスには嫌という程それが読み取れたのだ。
――全く。神はなんて粋な事をするんだ、と。信じてはいない神を、この日ばかりはいるものとして呪いたくなったのは、きっと仕方がない。