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執行者  作者: 兼嫌法師
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序章

 水の壁――俺の視界に広がる光景を一言で表現するならば、その言葉がしっくりはまるんじゃないかと思う。


 まったく計り知れないほどの強大な力によってり上げられる膨大な量の海水。

 重力に抗いながら悠然と立ち上がる様は、まるで天へと昇らんとする龍のよう。

 己が身をうねらせながら、ゆっくりと、ゆっくりとその身を起こしていく。

 そして、その我が身を起こさんとする力が、それをあるべき場所へと引き戻さんとする重力と均衡を迎えた地点、その一瞬だけ、水の粒子は自らが液体であることを忘れる。

 それらはあたかも固体であるかのように一塊の壁を形成し、まるで時間が止まっているかのような錯覚を俺に与え――


 ――ああ、この美しく巨大な芸術を見上げ、すくみ上がる俺という一個体の何と小さきことよ。


 そんな刹那の感傷を胸中に抱いた数瞬の後、水の壁は轟音と共に崩れ落ちる。

 流動性を取り戻した水の塊は滝のように海面へと向かって降り注ぎ、俺の周囲にもそのしずくほとばしらせる。

 顔面に着弾した海水がもたらす冷たさ。

 眼窩にみ込むそれは眼球にみ、口腔に侵入したそれは舌を狂わさんほどに塩辛い。


 ふと周囲を見渡せば、故郷である海面へと帰還した水の壁の成れの果ては、其処彼処そこかしこに白い水泡を浮かばせている。

 その水泡が一つ消え、二つ消え。

 そうして、白は再び黒に塗り潰される。


 だが、時間を置かずして、また新たな壁が形成され、先刻と同じように崩落し、それを見上げながら驚愕している人間に再びその滴を注ぐのだろう。

 俺が運良く何処かの陸地に漂着しようと、はたまたこのまま茫洋たる大海の藻屑もくずと消えようと。

 それはきっと永遠に繰り返される慣性運動で、それを留める外部からの力など恐らくは存在しない。


 それは自然の摂理であり、俺なんかの関知するところではないけれど――。


 ――単純に美しいと思った。


 この光景を目にすることが出来ただけでも、都を出て来た甲斐があったというものだ。

 それは、過去に俺が見てきたような、作られたまがい物の美しさとは厳然たる一線を画していて。

 人の身では絶対に届かないような神秘性を有しており。

 その笑ってしまうほど無垢な暴力性に己の命が晒されていることを差し引いても――。


 俺は、自然という名の神が俺だけに与えたもうた奇跡をひたすら両のまなこに焼き付けるんだ。




      ◆   ◇   ◆




 荒れ狂う波に翻弄される身体は、まるで木の葉のように二転三転。

 海中に引き摺り込まれ、海面へと引き揚げられ、また海中へと引き戻され――それが延々と繰り返される。


 身体は恐らく疲労の極致。

 長時間に渡って体温が奪われたせいだろうか、手足もほとんど言うことを聞かない。


 ――さて、どうしようか?


 そんなことをぼんやりと考える。

 思考能力もかなり奪われているようで、何から考えるべきなのかすら分からない。

 一体、自分が何処を漂っているのかも判然としないし、この状況から逃れるために何を為すべきかも考え付かない。

 今一つ、今のこの状況に対する現実感が薄いためなのか、命を失うかもしれないという恐怖感もほとんど感じていない。

 正直、運を天に任せてしまおう、なんていう一種の諦観の方が強いかもしれない。

 

 ただし、それは決して悲壮感に溢れているわけではなく――。

 どちらかと言えば、この機会に俺に生きる価値ってやつがあるのかを大自然に問うてしまえ、という、ちょっと傲慢で不遜な意図が隠されていたりもするのだが。




      ◆   ◇   ◆




 そう、一昨日の朝早く、住み慣れた邸宅を抜け出し――。

 父の愛馬を無断で駆り、都と外部とを隔てる城門を抜けて、港町へと続く街道を直走ひたはしっていたあの時。

 俺が求めていたのは、自己の価値の証明だったはずだ。


 それは名門と呼ばれる家の庇護の下にあることで得られる類のそれではない。

 将来の栄達が約束されているが故に向けられるそねみ交じりの称賛などとも断じて違って。

 俺はただ、一個としての俺という存在の価値を知りたかったのだ。

 そして、それはあの風通しの悪い虚栄に満ち満ちた場所なんかで計れるようなものではなくて――。

 だから、俺は放逐を覚悟の上で、家を出る決断をし、それを実行したんだった。


 ――今頃、父はどうしているのだろう?

 俺が消えたことに慌て、人を使って行方を捜させているのだろうか?

 恐らくはそうだろう。

 父が慌てふためく様を脳裏に描き、少しだけ溜飲を下げる。


 都では「未来の宰相」と噂され、冷静を通り越して冷徹だと言われることもある父。

 しかし、内側から見てきた俺の評価は全く逆。

 あの人は冷徹で有能な官吏などではなく、臆病で処世にけた人物に過ぎない。

 強き者にへつらい、弱き者を踏みにじる。

 それは処世術としては当然の選択なのかもしれないけれど、俺の目にはいささかも魅力的な生き方としては映らなかった。


 ――母はどうしているのだろう?

 あの人は意外に肝が据わっているように見えるから、平然としながら父の様子をうかがっているかもしれない。

 むしろ、いつか俺がこういった行動に出ることを予想していた節だってある。

 彼女は、その上で「勝手にしろ」と突き放す類の人間だ。

 ある意味で、父とは比較にならない程に豪胆で、冷酷な部分があるのかもしれない。


 二人の兄に至っては、俺が消えたことに胸を撫で下ろしていそうだ。

 父の後を追って官吏の登用試験に合格した長兄、近衛銃士隊に史上最年少で入団した次兄。

 いずれも将来有望と目され、将来的に家名を国中に轟かせるであろうと期待されている若き才能。

 彼らにとって、多分俺は家名に傷を付けるかもしれない危険分子でしかなくて――。

 自分たちの栄達を妨げるかもしれない一家の鼻摘はなつまみ者がいなくなったなんてのは、紛れもなく朗報の類なんだろう。


 多数いた使用人たちにとっても、いつも奇天烈な言動で自分たちの仕事を増やす人間がいなくなったことは喜びだろう。

 立場上、俺に対しては敬意を表しながら接しているように見えた彼らもまた、心のうちには様々な野心を秘めていて。

 甘言を以って主に取り入ろうと試みる者。

 肉体を以って主を篭絡せんとする者。

 隠した刃を以って主の命を狙わんとする者。

 各々がそれぞれの信じる「より良き生」の実現のため、人としての矜持をかなぐり捨てて、只ひたすらに醜い暗闘を繰り広げていたんだ。

 そんな彼らにとって、俺のようなかぶき者の相手をしなければならないというのは時間の無駄以外の何者でもなくて。

 接していても、彼らのそんな考えが手に取るように感じられて――。


 こう考えると、俺があの家から出て行ったことを本当に悲しんでくれる人間は、あの家にはもう一人もいなかったんだと思う。

 唯一、いつも俺のことを気遣い、話し相手になってくれていた一つ年上の姉が、言葉を交わしたことすらない名門貴族の御曹司の下へと嫁いでいったあの日。

 その日以来、あの邸宅の中に俺の身の置き所はなくなっていたんだ。


 ――姉はこの知らせを聞いたら、どう思うのだろう?

 悲しんでくれるだろうか?

 ああ、きっと彼女は悲しむだろう……。

 ひょっとすると、本気で怒られるかもしれない。

 あの優しかった人の瞳に涙を浮かばせることになってしまうかもしれないことだけは、本当に心苦しい。

 申し訳ないとも思う。

 でも、話せばきっと分かってくれるはずだ。

 その機会はきっともう巡って来ないのだろうけれど……。




      ◆   ◇   ◆




 天は俺を見放したんだろうか?


 波はますますもって激しくうねる。

 そこに在る一つの生命の灯が今にも消えんとしていることなどお構いなしに。


 急上昇。

 急降下。

 急上昇、急降下。

 急上昇、急降下、急上昇、急降下――。


 少し可笑しい。

 都でも有数の大きさを誇る邸宅で、絢爛たる衣装を身に纏い、無為な日々を過ごしていたこれまでの人生。

 そんな経験とは比較にならないほどに――。

 俺は今、「生きている」と感じているんだ。


 今にも自らの生の終わりが訪れんとしているのは確かだけど。

 もう幽世かくりよに半分位は身体を突っ込んでいるようなものなんだろうけど――。

 でも、俺は生きているんだ。

 現世うつしよに身体半分残ってるんだ。


 涙と鼻水と唾液と。

 既に顔面はそれらの混合物でぐしゃぐしゃで、恐らく俺の人生史上でも最も酷い顔をしているだろう。

 でも、そんな酷い顔で俺は叫ぶ。


 「俺は生きているんだ」と。


 次の瞬間に生命の糸が切れるかもしれない、そんな現世と幽世の狭間。

 だけど、今この瞬間、俺は確かに生きていて――。

 そのことがなんだか無性に嬉しく感じていた。

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