第5話
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その日、歌舞伎町のパトロールが終わった後、昼間はずっと課内に詰めていた。そして庶務の傍ら、前歴者の顔写真や犯歴などが載ったデータベースを見る。石井謙一は歌舞伎町の業者で、基本的に悪いことをして回る悪党だ。あの街ではそれで名が通っている。そして九竜興業などの暴力団が組織ぐるみであの手の輩に付いて回る。実に始末の悪い。あっちは極軽くジョークのつもりでいても、こっちは震え上がるぐらい恐ろしいのである。ヤツらの背後の闇には、想像もつかないほど厄介なものが控えている。
「井島」
「何?」
吉倉が声を掛けてきたので、応じた。
「北新宿のIT企業社長殺害事件、科捜研のDNA鑑定の結果が出たよ」
「そう?……一体誰?」
「それがな、階段の手すりには雑居ビルの支配人の指紋と掌紋が残ってたみたいで、新宿北署の捜査員たちはその支配人を疑い始めたんだ」
「厄介だね」
そう返し、軽く息を吸い込んで、吐き出してから、
「マル害を殺したのはビル支配人ってこと?」
と言った。
「いや。まだそうとは言い切れない。……ただ、帳場にいる捜査員は困惑してるらしい。支配人引っ張って取り調べても、何も出ないだろうって」
「まあ、手すりなんかにはビル関係者の指紋とか掌紋なんていくらでも付くからな。……現時点で支配人はシロだと思うよ」
そう言って息をつく。口寂しくなったので、コーヒーの入っていたプラスチック製のカップを持ち、立ち上がってフロア隅で淹れ直した。湯気の出るほど熱いホットコーヒーを飲みながら、頭の中を整理する。東川幸生がなぜ雑居ビル内で転落死したか?自殺じゃないから、事故か他殺のいずれかだ。今後、新宿北署の関係者はどう出るか?しばらく考えていた。
昼になると、また店屋物が人数分取られていて、俺も吉倉も食事に吸い寄せられる。この時間帯が一番いい。腹が減ると、出来る捜査も出来ない。そう思い、出前の置いてあるテーブルへと向かった。座ると、ラーメンのいい匂いがする。もらった丼の中身を啜った。月岡も吉倉も食べている。食事中は職務を忘れることがあり、課内は電話応対する女性警察官以外、皆昼食を取っていた。
事件の裏で何かあると薄々感じ取っている。だが、俺も吉倉も他の捜査員も黙っていた。管轄が違うから、気にするなということだろう。まあ、別に他管轄の事件――しかも単に一殺人事件だが――が解決されずとも、困ることはない。マスコミがしつこく集るぐらいで、警察官の本来の職務に影響はなかった。警視庁本体もその程度の失策一つで屋台骨が壊れるようなことはないのである。それだけ頑丈なのだった。
それにしても東川が死亡して得する人間がいるのか?IT企業などピンからキリまでで、世の中には掃いて捨てるほどある。思っていた。きっと騒ぎ過ぎだと。考えてみれば、殺人事件など、今という時代いくらでもある。もちろん、未解決で終わってしまうものもあるのだ。だから、警察サイドも一々気にしていられない。一刑事として思う。過剰反応だと。それに時が経てば、薄れていくものだから……。
翌日の朝も普通に署に出勤した。コーヒー一杯しか飲んでなかったのだが、空腹はない。デスクに着き、仕事を始めた。疲れている。やはり緊張感があるときつい。夜遅くまで起きていて、朝が早いから寝不足だ。刑事課フロアには月岡も吉倉もいたし、俺の属する強行犯係以外も、他の班がずらりと部署を構えている。日々動くのだ。この新宿中央署も。そして警察を嘲笑うかのように、強盗や殺人などを犯した凶悪犯も蠢いている。ここ新宿の街で。(以下次号)