第3話
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北新宿でのIT企業社長殺害事件から一夜明け、また新宿中央署に出勤した。朝方、刑事課フロアに入ると、吉倉が、
「おはよう、井島」
と言ってきた。
「ああ、おはよう。……あのヤマはどうなってるんだ?」
「あのヤマって昨日の午後の北新宿での事件か?」
「うん、気になってる。管轄は違うけどな」
「現場の雑居ビルの階段の手すりに、害者の指紋と、マル被のものと目される指紋・掌紋が付いて残ってたらしい」
「早くホシが挙がればいいんだけどな」
そう言ってフロア隅に行き、プラスチック製のカップにコーヒーを注いで飲む。吉倉が、
「殺しのホシなんて、そう簡単に挙がらないよ。デカなら誰だって殺人犯怖がるだろ?」
と言う。意外に落ち着いた感じで同僚が話す。聞いていたが、やがて、
「別管轄で起きたヤマだ。様子見しよう」
と言い、デスクに座ってパソコンを立ち上げた。MPD――警視庁管内の署のパソコンならどれにでも映るロゴがディスプレイにくっきりと映し出される。近頃ドライアイで目が疲れていた。三十代も後半に差し掛かると、いくら気力があっても、体はあちこちガタが着たりする。
午前中はフロア内で庶務をこなす。いろいろな書類に目を通し、上への報告書なども随時作成していた。九月の新宿の街は騒がしく、昼になると、署内にも出前が来る。その日は丼物で、親子丼が人数分取られていた。正午過ぎに、フロア内でも職員が食事などで利用する大テーブルに行く。俺の分も、月岡や吉倉のそれも用意してあった。
吉倉が椅子に座って食べながら、
「井島、お前、確か以前交番勤務だったよな?」
と訊いてくる。
「ああ。……それがどうかしたのか?」
「いや。デカでも制服着るのと、スーツ着用するのは違うだろうなって思って」
「そりゃそうだよ。俺だって制服の時は困惑してたからね。……入庁したのに、背広じゃないって思ってたし」
本音が漏れ出た。歌舞伎町交番にいた頃は今と同じくずっとあの危険な街を見ていて、神経が磨り減ったのだ。特に違法なものを横流しする業者は、かなり昔から確かに存在した。九竜興業などの暴力団が組織立って警察に刃を向け始めたのもその頃からで、何かあるたび、街の住人も迷惑していたようだった。「こっちの営業妨害しないでくれるかな?」などと言って。
考えてみれば、約十年前と今と、街自体変貌していても、中身はそう変わらない。相変わらず新宿は危険な街だ。歌舞伎町だけじゃなくて、街のあちこちに何かしら真っ黒いものがベタベタと貼り付いて残っている。都内の私大卒業後、国家公務員Ⅱ種試験をパスして、準キャリアで入庁してきても、新宿は怖い街と言うイメージが脳裏に刻みつけられたようにくっきりと残っていた。夜間なども繁華街に当たる場所は物騒なのだし……。
食事を取り終え、食べ終わった丼を返してから、デスクに向かう。そして冷めたコーヒーを温かいものに淹れ直し、カップに口を付けた。疲れはある。いくら壮年とはいえ、気苦労は絶えない。脇に吉倉がいて、時折こっちを見ている。相方も秋の空のように気分が変わるのだろう。分かっていた。いろいろあるんだろうと。まあ、俺だっていくら普段から組んでいても、吉倉の心の底の底までは見えないし、分からない。人間だからだ。当然限界はある。
新宿北署刑事課内の帳場ではデカたちが動いていて、俺たちには直接関係ないにしても、幾分気にはなる。おそらく警視庁の警視クラスの人間が捜査本部に来ているだろう。定式通りだ。事件の発生した所轄の帳場には、その都道府県警の上の人間が出向く。今も昔も全く変わらない警察の捜査の定石だった。
また午後からもパソコンに向かい、パトロール時以外内勤する。同時に署内の道場で剣道の稽古をし、射撃場で射撃訓練もしていた。刑事は大変だ。あれもこれもと日々追われる。ずっと。だが、日勤が主なので、午後五時になると夜勤のデカと交代だ。そして帰宅後は買い置きし、冷やしていたビールに有り付く。警部補への昇級試験の勉強は怠りがちになっていた。心の奥底では、やらないとと思っていても……。(以下次号)