浮遊病
昼食に選んだ中華料理店は申し分のない味だった。少々騒がしくはあったが、店主は賑やかなのがお好きなようで、常連らしい客とずいぶん盛り上がっていた。
店を出ると、風がやけに強く吹いていた。雲行きも怪しいから、嵐になるのかもしれない。
「うわぁぁああああ」
今度はなんだ。変な学生と話し込んだり、空から人の叫び声が聞こえてきたりと、今日はずいぶんと忙しい。空を見上げると__なんと、人が風に飛ばされていた。そいつはひらひらと宙を舞い、木に引っ掛かって止まった。
「ケイさんっ」
僕の名前を呼んでいる。知り合いだったかな、と首を傾げてから、気が付いた。さっきまで僕が怒られるんじゃないかと危惧していた、あの管理人だった。
「バロンじゃないか。大丈夫か?」
知り合いとあっては見過ごせない。若干うんざりしつつ、僕は木の下に駆け寄った。面倒事は嫌いなのだが、今日は二度も面倒な目にあっている。手助けしようと思ったのだが、彼は自力で降りてきた。
「す、すいません…今日って嵐になるんでしたっけ?」
「いや、天気予報ではそんなことは言ってなかったような気がするな」
「ですよね。あの、ケイさん、非常に申し訳ないのですが、手、つないでてもらえますか?」
なにが嬉しくて、大人の男同士で手なんかつながなくちゃいけないんだ、とも思ったが、どうやらこれは彼にとって、なりふり構ってられないほど重要らしい。飛ばされないように掴んでてもらうってだけでいいんです、と懇願され、仕方なく僕も折れることにする。とたん、風が吹いてきて、バロンの体が数センチ浮いた。
「本当にすいません。僕、体重が軽いんです」
それは見ていてわかった。きっと彼の能力の副作用なのだろう。僕の嗅覚と同じように。
「普段は風の強い日は外に出ないんですけどね、今日は予測してなかったので…」
「君の過失じゃない。通りがかったのが僕でよかったな」
「あ、それなんですけど…実は、連れがいたはずで」
「その連れはどうしたんだ?」
風が小休止して、風船のように浮かんでいたバロンが地面に降りてくる。
「駄菓子屋さんの前から一歩も動きません」
バロンの視線の先には、つい先ほど見たばかりの後姿があった。
「ジル…」
さすがに僕も絶句した。彼は僕らが近づいたことにすら気づかず、うっとりした表情で品物を眺めている。
「あれ、お知り合いでしたか」
「さっき知り合ったばかりだがな」
ああー、とバロンは納得したように息を吐き出した。「あいつ、誰にでも声かけますからね」
まったくその通りだ。
「ジルーっ」バロンが再び吹いてきた風に浮遊しつつ、大声を張り上げる。ジルがぱっと振り向いた。
「え?あ、あれ?なんでケイも?」
純粋に疑問符を放つジルに、僕とバロンがそろってため息をつく。
「君ってばまたお菓子にかまけて僕のこと忘れたでしょ…ケイさんがいなかったら僕飛ばされてたよ?」
「マジで!?ごめんテディ」
「バロン」
バロンは憤然と訂正した。彼の名前はテディというらしい。僕は名字しか知らなかったが、これは意外だ。呼ばれた本人はしかめ面をしているが。
「あ、ごめん、えっと、バロン。そんなに嫌なのかい?」
「テディ・ベアみたいに優しく可愛い子に育ちますように、なんて理由で名前つけられてみれば君もわかるよ」
「うー、確かにそれは嫌かもしれないぞ」
想像してみて、ジルが青くなった。
バロンとジルは学生時代、同室だったらしい。もちろんジルはまだ在学中だから、正確にはバロンの学生時代だ。いわく、ジルとその親友のローランほどの悪友は校内にはいなかったという。
「あぁ、そういえば僕も聞いたことがあるな。一年にとんでもない奴らがいるって。七年にも届いてたぞ」
僕がおぼろげな記憶を辿って言えば、
「そんなにすごかったかなぁ」と本人は驚いたふりをした。
「すごかったよ。というより、今でも十分すごいじゃないか」他人事みたいに言ってるけどさ、とバロンがぼやく。
風が吹きっぱなしなので、さっきから諦めたようにふわふわ浮かんでいる姿は滑稽ともいえるのだが、バロン自身はあまり気にしていないようだった。
まだ駄菓子屋に未練たらたらのジルを引きずり、僕らは役所に戻る道を歩いて__一人は浮遊して__いた。すると突然、ジルが僕の目の前にまわりこみ、道をふさいだ。俗にいう通せんぼというやつだ。
「なに」
面倒事はもうごめんだぞ。
「ケイ、俺は君をスカウトする!」
「はぁ?」
悪いが、理解できない。僕を何にスカウトするって?そんなキラッキラの笑顔で言われても困るだけだ。
「あのねぇジル。そういうのは目的語がないとわからないと思うよ?」
バロンが一応といった感じで、のんびりと注意した。彼はまだふわりふわりと宙を舞っている。というか、突っ込むところはそこなんだな。
「え?あ、それもそうか。でも、なんて説明すればいいんだい?」
「そうだねー…ケイさん、あなたの仕事、何時くらいに終わりそうですか?」
急に僕に話が飛んできて混乱した。だが、質問には答えるべきだろう。
「五時には終わるはずだが」
「そうですか。じゃあ、終わったら玄関ロビーで待っていてください。夕飯でも食べながらお話しましょう」
「あ、それいい!そうしよう」
ジルが僕を下から覗き込んだ。僕はちょっと身を引いて、気付いたら、「あぁ。わかった」と返事していた。
特に関係ないですが、前にロビーのことをホワイエって書いている文があって、「なぜ素直にロビーと書かないんだ」と不思議でした。
母曰く、「かっこつけたいお年頃なんだよ」。母ちゃん、意味わからないぞそれ。