二人ぼっちこの場所で
「寒いな……春が来るまであとどのくらいだろうな?」
何年も使い古したジャケットを羽織った僕は白い息を吐く。僕が声を掛けると、彼女は僕へ僅かに視線を動かすけれど、何も言わない。ただ僕の隣で歩き続けている。
ま、彼女が無口なのはいつものことだ。僕自身、お世辞にも話術があるとはいえないけれど、それを差し引いても彼女は僕と会話らしい会話を交わしてくれない。
それでも彼女が僕の傍にいてくれるのは、きっとここにいるのが僕でなくてもいいからだろう。もっとも、残念ながらここに僕の代わりになりえる人間はいないのだけれど。
コートとマフラー、手袋にタイツ、なにやらもこもこしたブーツ、おまけに耳あてを装備している彼女の防寒力というものはいかほどだろうか。おまけに全体的に服の色が黒いぞ。
ついでに僕に対する心の防御力も相当のものだろうね。自嘲気味に僕は笑う。
僕の家まで彼女がやってきて、僕の家を出発して、だいたい二十分は歩いただろうか。僕たちは、とあるマンションに到着した。七階建てのマンションのエントランスは、不用心にも大きく口を開けている。僕と彼女は、堂々とその中へと入っていった。気温は外と、大して変わらない。風がないだけまだマシ、というところか。ここまで坂道だったおかげで、多少なりとも自分の体温が上がっているのが救いだ。
かつん、かつんと、二人の足音が誰もいないエントランスに響き渡る。
「エレベーター生きてるかな」
ダメもとでエレベーターのボタンを押してみるが、ボタンのランプは点灯しない。うん、予想通り。それに動いてくれたとしても、この様子じゃあ乗る気にはなれないな。乗った後まともに作動するかどうか物凄く不安だし。
しかしそうなると相当階段を上る事になるな。うん。正直面倒になってきたが、言いだしっぺの僕がそんな事を言うわけにもいくまい。……何よりもまず、彼女は嫌がらないだろうか。
「……屋上まで階段になるけど、いい?」
彼女は無言である――数秒ほど僕の方を見つめた後、こくりと頷いた。
妙なことを言い出した僕に付いてきてくれるだけ、ありがたいね。
やっとの思いで屋上まで辿りついた。坂道プラスこの階段はキツいって。
屋上への扉を開ける手はかじかみ、もはや感覚がない。手袋さえあればな。扉を開けた瞬間、冷たい風が僕たちを襲った。最近切っていないため無造作中の無造作な僕の髪がはねる。寒さに対するせめてもの抵抗として、握りしめた拳をポケットへねじ込んだ。
寒い寒いと無意味に呟きながら、僕は柵の方へと歩を進めた。彼女は僕の後ろをただ付いてくる。
柵の手前で立ち止まり、空と町の境界線を見つめる。方角はこちらで合っている筈だ、多分。やっと一息つく。
「もうそろそろだと思うよ」
腕時計は止まっていて意味を為していないし、家を出る時、僕の部屋の時計も電池切れだったから、正確な時刻は分からないけどね。頼りになるのは体内時計くらいだ。
じっとそこで佇んだまま、どの位時が過ぎただろうか。ついにその時はやって来た。
青から紫、そして橙色から桃色へとゆるやかに変化していく空の色。寒色と暖色が混ざりあい、独特の光を放つ群雲。その下に広がっている街並み。じわじわと、しかし確実に変化していく目の前の光景。
「朝焼けってさあ、僕、今までまともに見た事がなかったんだ」
ほとんど独り言に近いものを口から滑り落としていく。彼女の返事など期待はしていない。耳あてをしている彼女は、もしかしたら僕の声はあまり聞こえていないのかもしれない。
「自分の住んでいる地域のさ、厄介な坂道をひいふう言いながら上った先で、こんな綺麗なものが見られるとは思ってもいなかったよ」
僕たちがわざわざこんな所までやって来たのは、朝焼けを拝むためだった。何故こんなことになっているのかというと、正直ただの成り行きである。
ただなんとなく、朝とは言えないような時間に目が覚めて、なんとなく彼女を誘って、なんとなくここまで来たのだ。全ての行動理由は『なんとなく』。説明になんかなっちゃいない。
僕の『なんとなく』が僕や彼女にどんな影響を及ぼすかなんて、その時は知ったことじゃなかったが、ここへきて僕は自分の『なんとなく』を恨めしくも思った。
止まった時計。ここまでの道中。簡単に侵入できるマンション。動かないエレベーター。
肌を切りつけるような寒さに、鮮やかな空と、朝焼けに照らされている街並み。
全てが僕等に現実を突き付ける。
ここから見える、生が感じられない街並み。人の消えた街並み。文明の消えた街並み。
僕等が通って来た道路に今、動く車は一台もない。あるとしても、枯れ葉や埃を被り、打ち捨てられた廃車程度。
僕等がここまで来る道中に、動く人は一人もいない。時間帯? そんなもの関係ない。人の気配は、どこの民家にも感じられない。
僕等がこれまで見た建物に、廃墟と化していないものは一つもない。管理する人間がいないのだ。当然の結果。
この世界では――いや、少なくともこの街では。この場所では。
「僕と君の二人ぼっち、か」
微笑を浮かべて彼女を見てみたが、彼女は相変わらず何も答えない。ただ、色合いが徐々に変化していく空をじっと見つめていただけ。僕も、彼女につられて再び空へ視線を向ける。
人類が消えていったこの世界。原因は何だったのだろう。
ちょっと前、まだたくさんの人がいて、テレビもパソコンもケータイも、文明の利器といえる何もかもが顕在だった頃。
小惑星の激突だとか、地球環境の悪化だとか、新しい病原体の発見だとか、巨大地震とか超強力台風だとか、とにかく世間が一気に騒がしくなった気がする。なんとか文明の予言で世界の終焉が謳われていた、なんてのも言っていたな。
それはもう何十年も前の話な気もするし、つい一週間前の話な気もする。
僕の周囲の人が一人消え、二人消え、十人消え、この街で百人が、千人が消えた。
他にもどこかで生きている人間がいるのかもしれない。こんな事になっているのは僕等の国だけなのかもしれない。この街だけなのかもしれない。しかしそれを知る手段は無い。
何であれ、分かる事は一つである。
ここには僕と彼女しかいない。
瀕死の状態になりながらも、役目を果たしてくれていた自家発電機は昨日ご臨終されたし、辛うじて残っていた様々な物資も底を尽きた。他に残るものといえば、消えた人間の忘れ形見と、自分以外のもう一人の人間の存在だけ。
これから先、僕等はどうするんだろう。
これから先、僕等はどうなるんだろう。
「春、まだ来ないだろうな」
季節の春は遠く、僕等に次の季節は訪れるのか。それだけの時間を生きる術は、まだ残されているのか。もう、限界なんだろうか。
白い息を吐きながら立ち上がり、朝の色へと移り変えられた空に見切りをつける。
「いこうか」
笑って言った僕に、彼女は無言で頷いた。