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最新話の更新でなく、申し訳ないです。
八月二十九日。文章を訂正しました。
アースは、街から少し離れた山の中に建つ、蔦の這うレンガ造りの古びた一軒家の前に居た。彼の師匠であるタロットの家である。
その家の扉は固く閉じられ、以前のように魔法では粉砕どころか傷一つ付けられない仕様になっている。
それでもアースは持てる力と知識を総動員して、その扉をこじ開ける事が出来た。この扉を開けるのに一週間を費やした。これでは世界一の魔法使いの称号は返上しなくてはいけないかもしれない、と少し自嘲気味に、額から流れる汗を袖で拭った。
理由も分からず家出をされて一週間。師匠の家に籠城をする彼女の顔を見なくて一週間もたったのだ。
これでマリーと会えると安堵した彼を待ち受けていたのは、杖を構えた彼の師匠であるタロットだった。
相変わらずマリーはタロットの背後に隠れ、窺うようにしかアースを見ない。
一週間もかけてこの扉をこじ開けたのにだ。一週間と言っても、一日中扉に張り付いていたわけではないが。当然、仕事の隙間時間に作業したのだ。コツコツと。休憩時間という憩いの時間を削って。
迎えに来たのに、隠れ続ける彼女に苛立ったアースは腕を引き、有無を言わせずに連れ去ろうと試みる。しかし、彼が近づいた途端、マリーはビクリと身体を震わせて泣きそうな顔になった。
彼女のそんな様子を見たタロットは、薄い笑顔を浮かべてアースにむかって火の魔法を吹きかけた。文字通り、どんな原理か解らないが口から火を吹いたのだ。ふう、と細い火を。まるで大道芸人の如く。
世界一の魔法使いを称するアースですらできない芸当である。さすがは師匠と言うべきか。しかし、今はそんな事を考えている状況ではなかった。
タロットの吹いた火は、アースの服の一部を焦がしたのだ。
「―――熱い! なにをするんだっ!」
「おやおや、世界一の魔法使いともあろう人間が、これ位の魔法も防げないのかね。アースよ、私はこれからマリーと楽しい時間を過ごす予定なのだよ。毎日毎日ご苦労な事だが、即刻帰ってくれるか?」
「マリー、もう一週間だ。いい加減に一緒に……」
「帰らないからっ! アースがそのままなら、一生傍に行かない。ずっとタロット様の傍に居るんだから」
マリーはタロットの背から顔を出し、瞳を潤ませて叫んだ。彼女のその白い手は、当然タロットの腹にまわっている。
言葉を遮るマリーの剣幕と、師匠のうすら寒い気配に押されて、アースは師匠であるタロットの家から踵を返さざるを得なかった。アースは無言で踵を返すと、開け放った扉から出て行った。
腑に落ちなく、マリーの行動にかなり苛立つ。ああ見えて頑固者のマリーだ。機嫌が直らない内はテコでも動かないだろう。
「……なぜだ。なぜあんなに機嫌が悪いんだ。こんなに優しく接してやってるのに。仕事の合間を縫って迎えに来てやってるのに。第一、俺には抱きつこうとすらしないのに、師匠に抱きつくとはどういった了見だ」
こんなに苛立った状態で仕事に戻れない。今のまま仕事をしたら、おそらく八つ当たりで仕事場が吹き飛ぶ。
冷静になろうと普段は移動魔法を使って移動する木々の中を歩き始めた。
この森はアースとマリーの勝手知ったる庭のような場所だ。色々な想い出がある。そういえば、自分が魔法使いを目指すきっかけを作ったのはこの森だったとアースは思い出した。
『ずっと一緒にいてね。大人になっても、よぼよぼのおじいちゃんとおばあちゃんになっても』
『そうだな。歳をくって足腰立たなくなっても、お前とは縁が切れなさそうだしな。……第一、ひ弱なお前を放っておくとどこかで行き倒れていそうだ』
その求婚の様な言葉は、ふたりが十の時に交わしたほんの小さな約束だった。
些細な事でも寝込むほどの虚弱体質ゆえに、大人になれないだろうと宣告されていたマリーと交わした最初の未来の約束。
森で迷子になった挙句に、熱に浮かされていた彼女は、おそらくその言葉を言った時の事を覚えていないかもしれない。その時は、アースが背負って山道を彷徨わなければならない程に彼女の体力は無かった。意識すら危うかったに違いない。
彼女が忘れていても、アースにとっては忘れる事のない約束である。
なにせ、その後に起きた出来事が師匠との出会いとなり、交わした約束が、結果的に今の自分の地位を築き上げたのだから。
森の奥地に迷い込み、陰から追いかけてくる野生の狼たちに怯えながら、熱を出したマリーを背にして森を駆け抜けた。子供ながらに精一杯逃げたつもりだった。しかし、直ぐに狼たちに囲まれてしまった。
狼たちは腹を空かせていたのだろう。一匹の狼が牙をむき出して唸り威嚇し、よだれを垂らしながら、マリーを背にするアースに飛びかかった。
咄嗟に突き出した腕を咬まれ、あまりの痛みに背負っていたマリーを地面に落してしまった。
喰いつかれた恐怖と腕を襲う痛みで注意をそがれた瞬間、熱で浮かされて満足に動けないマリーと、腕から血を流すアースにむかって残っていた数匹の狼たちが飛びかかった。
―――もうダメだっ!!
アースが死すら感じたその時、一陣の風と共に一人の青年が現れた。後に、アースの師匠となるタロットである。
彼は杖を前に突き出すと、アースには聴き取る事が出来ない程の早口で何かの呪文を唱えた。その途端、狼たちは弾きとばされて木にぶつかり、尻尾を巻いて逃げだした。
それを見届けたタロットは、血を流すアースと、熱で意識が無いマリーに治癒魔法をかけた後、そっとアースの頭を撫でた。恐ろしい体験をした子供の脆い心を癒すような優しい手つきで。それでいて、最後の瞬間まで身動きができない者を守ろうとした勇気を称えるように。
『もう大丈夫だ。安心せい。……坊主、よく頑張ったな』
アースは華麗とも言える早業で狼を追い払い、挙句に治癒まで出来るタロットの魔法に心奪われた。そして、優しげに微笑むその魔法使いに頼みこんだ。
『―――俺に魔法を教えてくれ! そうすれば、どんな敵からもマリーを守れる。虚弱体質を嘆くマリーを治してやれる。一緒に、大人になれるんだっ!!』
子供の戯言と最初は相手にしなかったが、その後も単身森に乗り込んでくるアースの熱意に折れて、タロットは小さな弟子をとる事となった。
その後、アースはマリーの虚弱体質改善を彼女に知られぬように数年にわたって魔法をかけ続け、いつしか師匠から『世界一の魔法使い』の称号を贈られるほどの腕前になった―――……。
アースが想い出に耽っていた所、不意に背後から声をかけられた。
「アースよ。こんな場所に居てもいいのか? やる事がたくさんあるだろうに」
背後を振り向くと、飄々とした態度のタロットが立っていた。彼はおもむろにアースの傍に寄ると、鼻をふんふんと鳴らした。何かを確かめるように。
「……なんですか? 風呂には入っていますが」
「いや。今日も『におう』とマリーが言ってたのでな。……若気の至りもあるが、マリーを追いかけるならば少し絶ってみたらどうであろう」
「……なにを?」
「女遊びを。マリー曰く『そんな匂いが付いてるアースなんて嫌い』だそうだ」
まさか女遊びを絶てと言われるとは思わなかったアースは、さすがに驚いて目を剥いた。
自分の匂いと女遊びとどう関係があるのかは解らなかったが、まさかそんな事を言われるとは微塵も考えていなかったのだ。
驚きの表情を隠せないアースの顔を見たタロットは、ニヤリと笑って弟子を尚も慌てさせる言葉を吐いた。
「昨日は楽しい夜を過ごした。お前、今まで一度も手を付けていなかったのだな。さすがに私でも驚いたぞ」
「―――はぁっ!?」
カカカと意味深な笑いを残して、タロットは消えた。驚愕の表情を浮かべるアースを残して。
直ぐにでも追いかけて、先ほどの言葉を問い質したい衝動に駆られたが、おそらく強化された玄関扉に阻まれるだろうと、本日二度目の敗退を余儀なくされた。
***
「アースさんっ! 今日は緊縛の魔法を教えてくださいっ!」
威勢よくその部屋の扉を開けた少女は、机の前で微動だにしないアースを見つけた。そして、先ほど師匠の言葉が頭の中で回り過ぎて呆けているアースに、勢いを付けて抱きついた。
少女の突進ともとれる挨拶でもアースは呆けたままだったが、ふいに漂ってきた香りに我に返った。
彼女の香水の香りである。
師匠が言っていた『におう』とはこの事かもしれない。マリーの言っていたらしき「そんな匂いが付いてるアースなんて嫌い」のそんな匂いとは、この少女のものかもしれない、と考えた。いや、十中八九この少女のものだろう。
アースに香りが移るほど接近するのはこの少女しかいないのだから。
「―――お前が原因だったのかぁっ!! お前のせいでアイツが帰ってこないんだ」
「帰ってこないって……―――えええっ?!」
少女を払い落すように立ち上がると、すかさず距離をとった。そして長い棒を手にしてこれ以上近づくなと威嚇する。
少女は茶色の双眸を見開きながら、何事? といった感じである。
「誰かが家出したんですか?! 私も一緒に探してあげたいのは山々なんですが、まだこの世界の地理に疎くて。……でも、私のせいって?」
彼女は二年ほど前に異世界から迷い込んだ少女で、名をサヤという。結わずにいる腰までの真っ直ぐで艶やかな黒髪と茶色の瞳が特徴である。
長い間、城の奥に住んでいたが一年ほど前に恋人の為に魔法を使いたいとアースの前に現れ、この国の王からも頼まれている事もあり、アースが面倒を見ている。
魔法を教えて一年。サヤはアースに慣れ親しみ、この半年ほどは現れる度にどついてくる様になった。
香水の香りが移ったのもそのせいだろう。その匂いがあるがゆえに、マリーは家出を繰り返し、今回は限界を迎えてアースのもとを離れた。今確信した。これはもうマリーに聞くまでも無い。許すまじ、サヤ。
「お前の移り香で俺の女が家出した。……これから先、俺に教えを請いたかったら近づくな触れるな!!」
今までの恨みをこめてサヤを睨む。だが、そんなアースの睨みを受けても、きょとんとした表情を浮かべている。
「あのぉ……? 俺の女って、どの彼女さんですか? メイベル嬢? サリタ嬢? それとも……キャシー王女ですか? でも、皆さんが家出したって話は聞いた事がないですよ」
「誰だそいつらは! マリーに決まってるだろうが。マリーベル!! 俺の両親と彼女の両親が認める、俺だけの婚約者になる者だ!」
「……なんとっ!! アースさんが結婚っ! これで噂の『遊び人のアース』も年貢の納め時ですねぇ」
「―――はぁっ?? なんだその噂は!」