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第7話 優しい男

微かに鼻孔を刺激する消毒液の匂い。

心地よい温かさと、ふわりと軽くなる体。

少しばかりまどろんだあと、瞼の裏でスイと動いた人影を追うように、リクはゆっくり目を開けた。


薄いピンクのナース服を着た若い看護士がそれに気付き、少し頬を赤らめて「もうすぐ終わりますからね」と微笑みながらスライドドアの奥に消えた。

入れ違いに入ってきた荻原医師が、わざとナースの消えた方へ視線を送る仕草をしてみせる。

「眠ってる君を見に来たんだよ、彼女」

そう言って笑いながら点滴の液を確認し、続けた。

「ここにいる二人のナースは、君が来るとソワソワし始める。まあ、気持ちは分かるけどね」

「・・・どうしてですか?」

「カンフル剤なんだよ」


荻原はリクの左側に立つと、その腕から点滴の針を抜いた。

針の痕を絆創膏で抑えながら荻原はじっとリクを見た。

「君は点滴の時必ず眠るね。まだちゃんと夜、眠れてないんじゃないのかな?」

医師の声はよく通るバリトンで、リクは霞のかかった頭でボンヤリそれを聞き、ゆっくり首を横に振った。

「いえ、大丈夫です」

「本当に?」

「・・・はい」

リクが抑揚のない声でそう言うと、荻原は少し顔を近づけてリクの目を覗き込んだ。


「すぐに風邪をこじらす。一度熱を出したらなかなか下がらない。真夏は熱中症になりやすく、あまり外出できない。そして、その原因の一つになったものに、君は何らかのトラウマを抱えている。違う?」

医師は体を起こし、続けた。

「ごめんね。初診の時から気になってたんだ。君の背中の大きな傷跡とケロイド。最低限の処置しかされていないじゃないか。皮膚の移植手術も不完全だ。あれでは体温調節も難しいはずだよ。君のご両親は、君をちゃんと医者に通わせたのかな」

さすがに最後のは失礼な発言だったと思ったのか、医師は少し目を泳がせた。

リクは逆に、今まで傷の事を訊かなかった医師に好感を持ち、小さく首を横に振った。


「昔のことで、よく覚えてません。体の方も昔のように熱を出すことは少なくなりましたし、平気です」

「いったい、なんでこんな大怪我を? 訊いちゃいけなかった?」

「よく覚えてないんです」

「怪我の時の事とか覚えてないの? こんな大けがなのに?」

「・・・ええ」

嘘は吐いていない。あの前後の記憶は随分と曖昧だった。

そして、事件に巻き込まれたことなど、医師に話すつもりは毛頭ない。


そんなことを思いながら、同時に、自分の処置にこんなに時間をとって大丈夫なのかと心配になった。

待合室には順番を待つ患者がまだ多く居たはずだ。


「そう。・・・じゃあ、この包帯とその傷跡は、関係ないのかな」

医師はリクの左手首の包帯をそっと触ってボソリと言った。

リクは頷く。

点滴のために晒した腕のその白は、嫌でも存在を主張している。気になっていたのだろう。

「ええ。ただの捻挫ですから」

「じゃあ・・・自分でやったんじゃないんだね」


リクはようやく理解した。

ああ、この医師は、自分の摂食障害を心の病のせいだと思っているのだ。

背中の傷の原因がトラウマになり、食事も取れず、あげく自傷行為に至ったのだと。


「大丈夫ですよ、先生。トラウマなんてありません。心の方は元気ですから」

「そう?」

仕事熱心な元心療内科医は、読みが外れて幾分がっかりしたような表情をしたが、反面、安心もしたようだ。

「自分は内科医だからね。内科医として君に出来ることはやってあげる。だけど、もっと何か別のことで相談があったらいつでもおいで。時間外だって、休診日だって構わないから」


この医師は、心に不安を持つ患者全員にこんなボランティアをしているのだろうか。

そんなことを思いながらリクは、その風変わりな医師に取りあえず礼を言い、その診療所をあとにした。

心の事で相談をする必要なんてない。

自分の身に起きているのは別の事なのだ。



            ◇



「こら、そこのアホタレ! お前は学習能力ゼロなのか! 馬鹿なのか! 幼稚園児なのか!」


リクが自宅に帰りつくと、その玄関先には、両腕にスーパーの大袋を下げ、不機嫌この上ない様子で立っている男が居た。

そう言えば携帯電話を持って行かなかった。

リクはそうボンヤリ思いながら、沸騰したヤカンのように熱くなっている、もう一人の優しい男を見つめた。


「何してんの? 玉ちゃん」



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