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第5話 傷の訳

サラリーマンの不条理に納得できず、いつまでも不毛な不満を露わにしている玉城に対し、長谷川は淡々と言った。

「私の補佐に抜擢された多恵ちゃんも、最初あんたみたいにピスピス泣いてたんだけどね。さすがにあの子は切り替えが早いよ。一足早く向こうに飛んで、今頃は快適な住居探してる最中だと思うよ」

「多恵ちゃんもシンガポールに?」

「うん。あの子は強いね。私も頭を切り換えなくちゃ」


・・・違う。長谷川が切り替えられないのはリクのせいだ。

玉城には痛いほどそれが分かった。

待ち合わせ時間にもう15分も遅刻している、あの青年のせいなのだ。


「リクは知ってるんですか? 長谷川さんのこと」

「知るわけないよ。電話も通じないしね。あいつ、電源を入れやしない。私からのコンタクトなんて、うざったくて望んでないんだろ」

「昨日ちゃんと言っておきました。連絡取れる状態にしておけって」

「ねえ、玉城。リク・・・どうしてた? 少し痩せてたろ?」

長谷川の声が少し不安げに細くなった。

「ええ。食欲が無いって言ってました。ちゃんと医者には行ってるみたいですけど」

「へぇー、そう。医者嫌いなのに、進歩だね」

「でも、・・・あの手首はちょっと気になりますね」

「手首?」

「ええ。聞いてます? 左手首のこと」

玉城はぐっと身を乗り出した。

「あれは何の傷なんですか? 自分で手当してるみたいでしたけど、かなり出血があるようだし、部屋の様子も変だったし、・・・ちょっと気になるんです」


長谷川の表情が途端に険しくなった。

「リクは・・・あいつは何度訊いたって、ただの捻挫だって言った。・・・・・・くそっ!!」

長谷川が吐き捨てるようにそう言って立ち上がったのと、ラウンジの入り口にリクが顔を見せたのは同時だった。


玉城は自分が余計な事に触れてしまったことに気が付いたが、もう遅かった。

「リク!」

カツカツと足音を響かせてリクの所まで歩いて行くと、長谷川はその右腕を強く掴み、廊下の方へ無理やり引っ張って行った。

「ちょっと、長谷川さん!」

玉城がそう叫んで慌てて追うが、長谷川は無言でリクを掴んだまま、どんどん廊下を突っ切って歩いていく。


「放せよ! 痛いってば」

ようやく声を上げたリクを、長谷川は廊下の突き当たりの壁に押しつけた。

光に満ちたラウンジとは対照的に、普段あまり使われていない資料室前のこの空間は窓もなく、青白い蛍光灯のせいで夜中のように感じられた。


リクが腹立たしげに長谷川の手を振りほどくと、長谷川は今度は素早くリクの左手をつかみ、白地のコットンシャツの袖を捲った。

ほっそりとしたその手首には、白い包帯が無造作に巻き付けられていた。

やっと追いついた玉城は長谷川の唐突な行動に少しばかり驚き、リクは自分の腕をつかんでいる長谷川を睨みつけ、声をあげた。

「何だよ!」

「この手首は捻挫じゃないよね。何で嘘をついた?」


一瞬驚いたように目を見開いたリクだったが、すぐに鋭い目つきで再び長谷川を睨んだ。

「何がだよ。たとえ捻挫じゃなかったとしても、なんで長谷川さんにそんなこと言われなきゃなんないんだよ」

「あんたに嘘を吐かれたくないんだよ」

「嘘だって何だって、関係ない。僕の体だし、どうだっていいだろ」

「あいにく、どうだって良くないんだよ。あんたの事が心配で仕事に支障が出る! 大迷惑だよ!」

長谷川はきっぱりと言い、そして続けた。

「明日付けで海外に転勤なんだ。しばらく帰って来れない。すっきりしないと、何も手に付かない性格なもんでね。もう、遠慮はしない事に決めたから」

「・・・海外に・・・転勤?」

リクは急に声のトーンを下げ、驚いた表情で長谷川を見、そしてその横の玉城を見た。


「本当なんだ」と言う代わりに玉城が小さく頷くと、リクはゆっくり視線を戻し、自分の左腕をまだ強く掴んでいる長谷川の手をじっと見た。


その目にはもはや先程までの刺々しい怒りは感じられなかった。ただ、はたから見て分かるほどの困惑と動揺が浮かんでいる。キュッと心臓を掴まれたような痛みを感じた玉城。

きっとリクの痛みだ。訳もなくそう確信し、玉城はようやく口を開いた。


「ごめんな。リクの家で血の付いた包帯を見たんだ。ベッドルームの血まみれのロープも見た。あれは・・・尋常じゃないよ。何かあるなら言って欲しい。俺はお前に何かあると全部自分のせいじゃないかって思ってしまうんだ。俺のせいで、あの力が強くなったから・・・」

「玉ちゃんのせいなんかじゃないよ」

リクは小さく呟き、そして長谷川の目をじっと見た。


その真っ直ぐな、胸をざわつかせるような眼差しに逆にたじろいだ長谷川が、思わず手を放した。

リクは開放された左手を軽く右手で撫でると、抑揚のない声で静かに話し始めた。


「夜・・・寝る前に、自分で自分の左手首をロープでベッドに縛りつけるんだ。この体が勝手な事をしないように。僕がやってるのは、ただそれだけだよ」

玉城が思わず口を開きかけたが、リクは遮るように続けた。


「でも、それに抵抗して体が暴れ出すんだ。僕の中に、僕以外の何かが居る。ロープや針金で固定しても、それを無理やり引き千切ろうとするんだ。

この前、手に届くところに置いてあったナイフで、ロープと一緒に手首まで落とされそうになった。馬鹿みたいに見境ないんだ。あの時はさすがにやばいと思ったけど・・・。でも、その抵抗する痛みで僕はいつも目覚める事ができる。

だから痛みを感じられるように、毎晩同じ場所をロープでくくりつける。自分じゃない自分に、体を支配されないように。・・・怖いんだ。自分の手首を落としてまで、自由になろうとするバケモノが僕に中にいる。だから・・・死んだっていいから眠りたくなかった。自分じゃない“何か”になってしまうんなら、死んだ方がいい」


リクは一気にそう喋ると、不安を押し殺して閉じこめたような目をして、長谷川をじっと見た。


「ぜんぶ話したよ。もう、隠してることなんか何も無い。・・・これでいい?」




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