第4話 不機嫌な編集長
「ええっ? 俺の居ない間にそんなことがあったんですか?」
玉城は大東和出版のラウンジのソファから身を乗り出し、長谷川に言った。
興奮気味の玉城とは対照的に長谷川は、腕組みをしながら一人がけソファにもたれ掛かり、憮然とした表情だ。
「そんな事もこんな事も、2カ月近く一本も電話してこないヤツに話せないでしょうが。まあ、『グルメディア』スタッフと楽しい楽しい旅行中のヤツには、そんなことどうでもいいんだろうけどね」
「やめてくださいよ、長谷川さん。慰安旅行も兼ねてましたけど8割がた取材だし、アジアのあの地域は連絡取りにくかったんですから」
玉城はいつになく不機嫌な長谷川を懸命に宥めながら説明した。
長谷川から、『帰国したんならリクと一緒にこっち(大東和出版)までおいで』と電話が入ったのは、ちょうどリクの家に居る時だった。リクと話し合い、翌日の朝10時ごろラウンジに集合ということにした。
そして当日。
少し早めに来てしまった玉城に、長谷川は2週間前の秋山をめぐる騒動を話して聞かせたのだ。
「だけど、リクがそんなに他人に親身になるなんて、ちょっと意外だな」
「同じ事を言うね」
「え、誰と?」
「私と。私も言ったんだ。あんたが人の事を気にかけるなんてね、って」
「え・・・。面と向かって言ったんですか?」
「悪い?」
「きついですよ」
「そうかな」
無自覚な長谷川に玉城はあきれかえり、その一方でジワジワと可笑しさがこみあげ、笑い出しそうになった。
この人は心底リクを愛し、大切に思ってる癖に、未だにそれに気付かない。
母性愛か何かだと思ってる。それ故の暴言だ。
けれど玉城にはその構図がなんとも愛らしくて堪らなかった。
彼女がいつ気付くのか。あるいは気付かないのか。
密かに玉城はそうやって見守ることに、ワクワクしていた。
「でもそれは、あんたのせいだよ、玉城」
「はい?」
ニタニタして聞いていた玉城は、何の話だったろうと訊き返した。
「あんたがリクを冷たい奴だって言ったから」
「は?」
「あいつは変わろうとしたんだ」
「え、そんな。俺、そんなこと言った覚えは・・・」
玉城は慌てて記憶を辿ったが、思い出せなかった。
「あんたの言ったことが堪えたのか、変わらなきゃって思ったんだよ、リクは。だから私は変わらなくていいって言ったんだ」
長谷川の顔が少し険しく歪んだ。
「危険な目に遭うくらいなら、変わらなくていい」
玉城は長谷川の辛そうな表情を改めてじっと見つめた。
上背もあり筋肉質で、女性らしいとは言い難いが、キリリと整った目鼻立ちは男から見ても凛々しく、いつも頼りがいを感じた。
けれど今日の彼女はいつもと少し違う。
いつもの絶対的な安定感が無かった。
「何かありました? 長谷川さん」
「あんたと入れ違いになるね」
「え?」
「転勤なんだ。明日からシンガポールさ」
「・・・え・・! 明日って、なんで? なんでシンガポール!?」
玉城は思わず大声を出し、振り返った2、3人の社員の目に気付いて、慌てて声を落とした。
「なんで? なんでこんな秋口に? グリッドは?」
長谷川はようやく穏やかな表情になり、小さく息を吐いた。
「急に持ち上がった話なんだ。シンガポール印書館との合併話は」
「印書館?」
「中国の商務印書館の支店なんだけど、今は完全に独立体勢でね。少し経営が危ぶまれてるところに、うちが目をつけた。アジアにちょっかい掛けるつもりだよ。大東和は」
「それで、長谷川さんが?」
「うん。今はまだ調査と地盤作りだけどね。白羽の矢が立っちゃった。どうにも断れなくてね」
長谷川は寂しそうに笑った。
「でも・・・グリッドは?」
「グリッドの編集長には別の人が立つよ。辞令も上がった。もう、グリッドも発行部数が伸びて軌道に乗ったから大丈夫だと思う」
「あなたが軌道に乗せたのに! あなたとリクが!」
「声がでかいよ。何泣いてんのさ」
「泣いてなんかいません」
玉城は目をこすり、鼻をすすった。
サラリーマンという物が、そんなものだとは分かっていたが、どうにも割り切れず、とてつもなく悔しく、悲しかった。
グリッドは長谷川が心血を注ぎ、リクと玉城が出会い、大きく関わり合った、言わば母体のような存在だった。
それなのに。




