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最終話 大切な宝物

「たぶん電話じゃなくて、目の前でリクの怪我のこと長谷川さんに報告してたら俺、絶対殴られてたと思うよ。・・・マジで怖かった」

あれから10日が経ち、久しぶりにリクの家を訪れた玉城が震えながそう言うと、リクは「まさか」と、屈託なく笑った。

それぞれが別々に後処理に追われていたため、二人がこうやって会うのも久しぶりだった。


「田舎のお父さんが危篤って大嘘ついて帰国だってさ、長谷川さん。さっき羽田に着いたって連絡あったから、1時間後には、このドアを蹴破って飛び込んで来るよ。確実に。今だってきっと、タクシーの中で足踏みしてる」

今度は、穏やかな笑顔で玉城は言った。


15年前のリクの受難、そして診察をしてくれた精神科医の診断書を合わせて考察した結果、今回の事件でリクが罪に問われることは免れた。

証人として法廷に立つという約束はさせられてしまったが。

当然、解離性同一障害のことも公に晒される。

こういった諸々の事情も合わせて、玉城は出来るだけ詳しく長谷川に電話で話したつもりだったが、どうやらその下手な説明が長谷川をイライラさせたらしい。

重要な合同会議の前であるにもかかわらず、突然長谷川は帰国すると言い出した。


「長谷川さんが嘘ついて仕事を抜け出すなんて、考えられないけど」

玉城にコーヒーを煎れながら、リクはキッチンから訝しげに言った。

「信じられないか? そうかな。俺は長谷川さんらしいと思うよ」

玉城はソファに沈み込みながら、相変わらずきちんと片づいたリビングをぐるりと見渡した。


あの日割れて散らばったグラスはもちろん、ワインの赤いシミも、きれいに無くなっている。

リクは、いったいどんな気持ちでそれらを片づけたのか。


「熱いから、気をつけて」

テーブルから離れたソファに座る玉城に、リクが左手でマグカップのコーヒーを差し出した。

柔らかく芳醇な香りが、ふわりと玉城を包み込んだ。

カップを受け取りながら目を滑らせると、まだしっかりと包帯が巻かれているリクの右手が視界に入ってくる。


病院に搬送されたあの日、3時間にも及ぶ細密な右手の手術が行われた。

手術後、玉城が病室に飛び込むと、リクは玉城を見て嬉しそうに笑った。

まだ当分医者通いが続くのだと、ウンザリしたように言った第一声が何とも暢気な響きがして、玉城は笑ってしまった。

たぶんそれはリクなりの、精一杯の気遣いだったのだ。


「手、まだ痛むのか?」

リクを見上げて言った玉城に、「大丈夫、動かさなければ」と、リクは笑みをうかべた。

「医者は元にもどるって言ってたのか? 握力とか・・・」

リクは玉城のすぐ前に木製の椅子を引き寄せて座り、玉城を見た。

「筋肉を動かす神経と筋が一度完全に断裂されたから、元通りとは行かないかもしれないって。リハビリは頑張るけど」

「・・・そう」

“絵はまた描けるのか?” その質問が、怖くてできなかった。

自分があの時、荻原を刺激したせいかもしれない。その事がずっと玉城の中にあった。

あの場面が何度も夢に出てきて、ここ数日ずっと玉城を苦しめている。

リクの手には視線を向けず、玉城はぼんやりと自分の手の中で揺れる液体を見つめていた。


突然リクは何かを思いついたらしく、納戸の方へ走っていくと、奥からF5のスケッチブックと木炭を持ってきて、再び椅子に座った。

「玉ちゃん、ちょっとじっとしてて」

「は? なんで?」

けれど、自分を見つめてくるリクの目に射抜かれて玉城はソファの中で身を固くした。

少しぎこちなく包帯の右手で支えたスケッチブックの紙面で、サラサラとリクの左手が動く。

「え? リク、左手でも描けるのか?」

玉城はにわかに嬉しくなって弾んだ声をだした。

「さあ、どうなんだろ。初めて描くけど」

「・・・なんだ。・・・そうか」

「そんな萎んだ顔すると、そのままブ男に描くよ?」

「誰も描いてくれなんて頼んでねーよ、こんな顔」

玉城がムスッとしてワザと変な顔を作ると、リクは声を出して笑った。


リクの、吸い込まれるように綺麗な琥珀色の瞳が、緩やかに白い紙と玉城の顔を往復する。

窓からの柔らかい木漏れ日と、コーヒーの香ばしい香りだけがその空間を満たしていた。

風もなく、小鳥の声もなく、胸を熱くさせるほどの静寂だ。

10日前に起きた事件も、15年前に起きた事件も、すべて夢であってくれたらいいのにと、玉城は思った。


1年前にこの青年と出会い、いろんな事があった。

この青年に出会わなかったら自分は、もしかしたらまだ人間不信のまま、借金を膨らませてウダウダしていたのかもしれない。

とても大切な出会いだったのだと思う。自分にとって。

けれど、この青年にとって、自分は災いだったのではないだろうか。


「玉ちゃん」

スケッチブックの上に目を置き、左手を動かしながらリクが小さく言った。

「ん?」

「ごめんね」

「・・・なにが?」

「きっと僕、酷いことしたんだ。玉ちゃんに」

「はあ?」

玉城はつい間の抜けた声を出したが、胸は小さく疼いていた。

リクが何の事を言っているのか、分かっている。その体が璃久だった、あの数時間だ。


「僕の中にはまだ、あのもう一人の僕がいる。激しくて凶暴な感情を持った僕が。今は荻原の事があって、ショックで少し大人しくしてるけど、キレやすくて衝動的な僕はきっとまた表に出てくる。僕の一部と融合して、息を潜めてる。もしかしたら・・・、本当は、そっちが僕の本質なのかもしれない」

リクは手を止め、スケッチブックの上に目を伏せた。

長い睫毛が、不安そうに心音と共に震える。

玉城はため息をついた。


「だから、何?」

「・・・だから」

「だから自分か怖いのか?」

リクが目を上げ、驚いたように玉城を見た。

玉城はおかしそうに笑った。

「俺は全然怖くないけどなあ。上等じゃないか。やられたらやり返す。自分を守るために牙を剥き反撃する。どこがおかしい? また何度でもそんなリクを見たいね。すぐにどこかに飛び去る小鳥じゃなくて、生命力に溢れた猛禽類のリクを」


玉城は口先でなく、本心からそう思った。

最初こそ恐れてはいたものの、次第に理解できるようになってきた。

あれは、もう一人のリクじゃない。本来のリクから抜け出した、リクの心の一部なのだと。

あの、鷹の目を持つ青年も、正真正銘リクなのだ。

もちろん、リクの思っているような危険因子ではない。

弱い部分を補い、生きていくために、生まれるべくして生まれた「強さ」なのだ。

ただ、あの幼いころの経験が奇異過ぎて、少しばかり枠をはみ出したのかもしれない。

けれど、結果的にその強い部分が犠牲となって悲痛な事実を内包し、繊細なリクを守ってきたのだ。


それにしても・・・。

そう言ってしまった自分がどうにも照れくさく、体が火照り、仕方なく玉城はソファから立ち上がった。

「あっちのリクは酒もいけそうだしな。お前、ちっとも飲まないから酒の席ではあっちを呼び出すよ。焼き餅やくなよ」

リクがずっと驚いたような顔で見つめてくるので、体の火照りはますます止まらず、照れ隠しにリクの膝に乗っているスケッチブックを覗いてみた。

そこには玉城がいた。


木炭だけを使ったとは思えない、色彩さえ感じられる濃淡の中に、柔らかい目でまっすぐこちらを見ている玉城がいた。

息を呑んだ。

そこに居るのは、リクの目と、心を通し再現された玉城だった。

実物よりも優しげで、賢そうで、ほんの少し男前だ。

これを、この青年は初めて使う左手の指先だけで描き上げたのか。


「左手とか、握力とか・・・そんなの関係ないんだな。リクには。・・・何て言うか・・・安心した。びっくりだ」

そう言うのがやっとだった。

自分でも不思議なのだが、心臓が止まりそうだった。

「玉ちゃん」

「リク、この絵、貰ってもいいかな。いいよな?」

「玉ちゃん」

「・・・え?」

「ありがとう」


全身から汗が噴き出すのを感じながら、玉城は何とも奇妙な仏頂面をしてみせた。

「何がだよ」

もうこれ以上、汗の出るような事を言わないでくれと、心で祈りながらそう言った。


その時同時にドアホンが鳴らなければ、立ちくらみを起こしていたかも知れない。

それほど、自分に説明の付かない“気恥ずかしさ”だった。


「ほら、リク。お前が本当に礼を言わなきゃいけない『女神』のご帰還だ。でも開けた瞬間殴られないように注意しろよ?」

そう玉城が言うと、リクは可笑しそうに笑った。

艶やかな亜麻色のふわりとした髪を揺らし、リクが玄関に向かう。

その後ろ姿を見ながら玉城は思った。

冗談ぬきで、いったい女神はドアを開けるなりどうするんだろう。

日々胸を痛めながら心配し続けた青年を前にして、怒鳴るのか。微笑むのか。抱きしめるのか。


リク。

お前はそろそろ気付いたらいい。

自分がどれだけ愛されてるのか。

彼女や、・・・そして、俺を含めた周りの人間から。


玉城は、自分が描かれたスケッチブックをパタリと閉じ、しっかりと抱えた。


この日もうひとつ、宝物が増えた。




           (END)


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