第26話 守りたい
パトカーのサイレンが更に近づいたような気がした。
玉城は注意深く耳をすました。速度を緩めたのが分かる。
まさか、本当にここに来るのか?
「パトカー・・・来るね」
不意に腕の中のリクが小さく呟いた。聞き逃しそうに小さくかすれた声。
目は閉じたままだ。
「え? ・・・ああ」
「玉ちゃんが呼んだ?」
「いや、俺じゃない。俺にそんな余裕は・・・」
突然玉城の頭にひと筋の光が通り抜けた。
確信めいた、希望と歓喜の矢だ。
「リク? お前、リクなのか?」
玉城はグイとその肩をつかみ、青年の顔を覗き込んだ。
リクが重そうに瞼を開け、ガラス細工のような琥珀色の瞳で玉城を見た。
「・・・。何て答えたらいいのかな」
そう言ってリクは微かに笑った。
それはとても弱々しいが、棘のない柔らかなものだった。
玉城の中の、半信半疑と不安の霞が消えてゆく。
「俺の知ってるリクなのか? 凶暴な、さっきまでナイフを握ってたもう一人のリクじゃ無いんだよな?」
「・・・」
「なあ!」
「玉ちゃん・・・ごめん。頭がボーッとしてるんだ。クラクラして・・・。
やっと僕の中で、いろんな事が繋がり掛けてきた・・・。でも、まだ、思い出せないことがいっぱいあって・・・」
けれど、リクが言い終わる前に玉城はリクを力一杯抱きしめていた。
そうしていないと、またその体の中から大切なものが抜け出してしまいそうな気がした。
リクは驚いて一瞬目を見開いたが、本当にもう何かを考えたり抵抗する気力も無いらしく、玉城の腕の中で力を抜いた。
そのうちサイレンは更に近づき、二人の居る空間を満たし、反響した。
パトカーはやはりこの場所を目指していたのだ。
工場の前でピタリと音は止まり、静寂の中をバタバタとこちらに走ってくる足音があった。
シャッターの隙間から様子を伺うように顔を覗かせた二つのシルエットは、逆光だったが紛れもなく警察官だ。
「大丈夫ですか!? すぐに来てくれと通報があったんですが!」
“通報?”
玉城はハッとして目を斜め下に走らせた。
一瞬のうちにすべてが理解できたのだ。
ああ、そうか! そうなんだ!
玉城は大声で叫んだ。
「怪我人がいるんです。救急車を! 犯人はたった今そこから右方向に逃げていきました。ナイフを持った、カーキのジャケットの中年男です!」
「あなたの名前を確認させてもらってもいいですか」
「たまき。玉城です!」
警官二人は「分かりました、そこにいて下さい」と叫ぶと、すぐさま男を追って走り出した。
状況を見て玉城の言葉に嘘がないことを察知してくれたのだろうか。
いや、すでに、通報である程度の状況が伝わっていたのだろう。
だからこそ警官は玉城の名を確認したのだ。
「くそっ! ・・・やられた!」
玉城は心底悔しそうに、しかし、半分笑いながら叫んだ。
「・・・なんで?」
リクが驚いたように、半笑いの玉城を見上げる。
「長谷川さんだよ。あの人は海の向こうに居たって、お前を守っちまうんだ」
「長谷川さん・・・」
リクはぼんやり呟くと、懐かしいものを思い出すように玉城の腕の中で笑った。
「長谷川さん、怒るぞーー。俺もお前も、携帯なくしちまったから」
「そうだね」
「連絡取れないと、とにかく機嫌悪いんだ。あの人」
「うん」
「めちゃくちゃ心配してたから。リクのこと」
「・・・うん」
「でも、もうお前、大丈夫なんだよな?」
「・・・」
リクが玉城の目を見た。
玉城の質問の意味は充分理解した上で、思いあぐねている。
けれども、一つ一つ表現を選びながら、リクは一生懸命言葉にした。
「まだわからない。今、僕も頭が混乱してて。ショックも大きくて。・・・でも、自分の中にもう一つ、人格がいることは分かった。・・・いや、思い出した。今まで閉じこめてたんだ。僕自身が。だから、これからも閉じこめる。・・・大丈夫だと思う」
リクはそれだけ言うのが必死なようで、再び目を閉じ、俯いた。
「いいよ。またゆっくり話そう。今は休め。もう少ししたら救急車も来るし。あの男もきっと捕まる」
「僕は酷いヤツなんだ。きっと、だから・・・もう一人の僕が生まれた」
「うん。もういい。また今度聞くから」
右手でリクの柔らかな髪をクシュッと撫でると、リクは力を抜き、玉城に体を預けてきた。
玉城はその体を、壊れものを扱うように両腕で慎重に支えた。
けれど、そのうちリクはゆっくりと背を丸め、首を垂れ、動きを止めた。
呼吸音も感じられない。
不安になった玉城が覗き込むと、青白い瞼は閉じられていた。
「リク? リク?」
「・・・・・うん」
「びっくりしたっ!!」
思わず声を出し、そして安堵のため息を漏らす玉城。
この青年といると、きっと自分は心臓に負荷がかかりすぎて早死にするな。そう思った。
リクは再び俯き、静かな規則正しい寝息を立て始めた。
手は痛まないのか不思議に思ったが、きっとそれよりも更に強烈な睡魔なのだろう。
自分の中の見えない影に怯えて、ずっとぐっすり眠ってなかったのだ。
玉城にはその「もう一人のリク」が一体何だったのか、まだ本当に理解しきれてはいなかったが、リクには概ね、その見当がついたのだろう。
暫くして、はるか彼方から救急車のサイレンが聞こえ始めた。そして助っ人らしい別のパトカーのサイレンも前後して響く。
心底ホッとし、「よかったな」と玉城は小声でリクに呟いた。
静かな寝息を聞いていると、もう少しだけ、このままここで青年を寝かせてやりたい気分にもなってくる。
そんな自分を妙だと思いながら、玉城は少し下にずり落ちてきたリクの右手を、
再び注意深く胸の上で握りしめた。




