第25話 祈り
肉を貫き、コンクリートにナイフの刃先がガツンと衝突する鈍い音と共に、荻原に押さえつけられていたリクの体がビクリと激しく跳ね上がった。
悲痛な叫び声がその青年の口から漏れると、それが心臓を凍りつかせ、もう玉城は体の神経と思考が萎縮して身動きが取れなくなった。
荻原はリクの右手の甲から素早くナイフを引き抜くと、やっと抵抗をやめたリクの頭を左手で押さえつけ、再びその首にナイフを突きつけた。
さっきの抵抗で傷ついてしまった首筋はすでに真っ赤に染まっている。
貫かれた右手は、動くことも叶わないリクの体の横に力なく伏せられた。
脅しではない。本気なのだ。
ほんの30秒ほどの荻原の凶行は、嫌と言うほど玉城にそのことを思い知らせた。
この男は、狂っている。
「おい! さっき会話を録音したって言ったな。そいつをこっちに持ってこい。投げずにお前が持ってこい。逃げやがったらこいつの首を斬り落とすぞ! いいのか!」
いったい、録音データを奪ったからと言って、何になるというのだ。
玉城は絶望的な気持ちでそんなことを思った。
そうやっておびき寄せて、俺を先ず殺すのか。
俺がリクを見捨てて逃げるという頭は、この男にはないのか。
自分は思いやりの欠片もない鬼畜だというのに。
玉城は不意に滑稽になった。
完全に冷静な判断が出来なくなったこの男の考えの方が、今、一番当を得ている。
・・・俺はリクを置いてなんて、逃げられない。
そこに血だらけで倒れている青年の中に、もう、あの、俺の知っているリクが居ないのだとしても。
その体を置いて、逃げる事なんて出来ない・・・。
玉城はポケットから携帯を取り出すと、ゆっくりゆっくり荻原に近づいた。
長谷川との通話はとっくに切れていた。
腕力にはまるで自身がない。
喧嘩など、したこともない。
中学の時に柔道の授業があったが、いつもふざけて何も学ばなかった。
長谷川さんは、強かったな。無敵だった。ふと、そんな事が頭を過ぎる。
ここにいるのが彼女なら、リクを救えたのかも知れない。俺じゃなく、彼女だったら・・・。
あと3メートル。
残されたのは、ただその距離だけだ。
「早く持ってこい!」
ジリジリして荻原が叫んだ。
「ああ・・・行くよ。・・・行くから」
永遠の3メートルだったらいいのに。
ここで時間が止まってしまえばいいのに。
玉城は目まいを起こしそうになりながら、ゆっくりと進んだ。
見たくないのに、うつ伏せに押さえつけられ、もう動かないリクの体に目が行ってしまう。
苦しいだろうな。リク。そんなことを思った瞬間、不甲斐ない自分への怒りが空しく込み上げてきた。
あと2メートル。
荻原が腕を伸ばし、悔し涙で玉城の視界が霞んだ。
その時。
ピンと張りつめた静寂を、何かが微かに揺るがした。
玉城は一瞬体を硬直させた。
荻原も体にグッと力を入れたのが分かった。首をのばし、耳をそばだてている。
気のせいではない。あれはパトカーのサイレンの音だ。
きっと偶然なのだろう。けれど、その偶然に賭けるしかない。
「お前!」
鬼の形相を向けて来た荻原に、玉城は冷静な声で返した。
「悪いね、さっきこの携帯で呼んだんだ。もうあきらめたほうがいいよ。時間の問題だから」
荻原は急に体を起こし立ち上がると、玉城のほうを睨みつけながらにじり寄ってきた。
その目はさらにヌラヌラと異様に光り、血走っている。
なにも思考がまとまらず、ただ怒りに錯乱した目だ。
「ほら、やるよ。お望みのもの。録音したのが欲しかったんだろ? それ持ってサッサと逃げろよ。今なら逃げられる」
玉城が荻原の感情の矛先を変えるために、苦肉の策として握っていた携帯を投げつけると、荻原は血走った目で玉城をひとにらみしたあと身を翻し、脱兎の如く走り出した。
少しずつ音量を増すパトカーの音が焦燥感を煽ったのだろう。
荻原は必死に玉城の携帯を握りしめたまま、シャッターの隙間から外に飛び出し、見えなくなった。
玉城は喉を震わせてやっと一つ大きく呼吸すると、うつぶせに倒れたままのリクに走り寄った。
首筋よりも、手からの出血が酷い。
ナイフは完全に手の甲から掌に突き抜けていた。まだ溢れ続ける血にまみれ、断裂された骨らしきものまで見えている。
少しの血にも目眩を起こしてしまう玉城だったが、吐き気を堪えながら先ず自分のジャケットを脱ぎすて、更にTシャツを脱ぐと、ランニング一枚になりながらリクを抱き起こした。
倒れないようにしっかり支えた上で、まだ血の止まらないその右手にしっかりとTシャツを巻き付け、止血のために両手でぐっと握りしめた。
目を閉じたままのリクが痛みに体を固くし、小さく声を漏らした。
体中の血が抜けたようにその肌は白く、唇にも色が無い。
「大丈夫だから・・・」
喉が詰まって、その後の言葉が続かなかった。
たった今、その目で見たことすべてに現実味が無く、耳にしたすべてが信じられなかった。
まず命が助かったことへの安堵が体中をめぐり、この青年を死なせずにすんだ安堵がそれを上回って脳に沁み渡った。
そして、その次に浮かび上がったのは、疼き。
“この青年は、自分の知っている、あのリクではないのだ。”
自分が抱き留めている青年の凶暴かつ無鉄砲な性格が、あまりにも自分の知っているリクとかけ離れていることに恐ろしくなり、けれどもその体は紛れもなくリクのモノだと思うと、とてつもない喪失感が押し寄せ、そこまでで思考が停止する。
考えるだけで胃が痛くなり、知ることが恐ろしくなる。
山ほどもある質問を浴びせる代わりに、玉城はただ、リクの右手を心臓より高い位置に持ち上げてやり、グッと強く握って止血することに専念した。
パトカーの音がさっきより近くなった気がする。
きっとこの前の道を通るのだ。走って飛び出せば、止められるだろうか。
一瞬、リクの体を放して立ちあがろうとした玉城だったが、かなりのスピードを出しているパトカーに、間に合うわけがない気がした。
再びリクの体を抱え込み、今更ながら携帯を手放したことを後悔した。
何とかしたい。
あの男を捕まえて欲しい。
そしてリクを急いで病院に連れて行かなければ。
この手はちゃんと元通りに動くだろうか。
また美しい、あの繊細な絵を描いてくれるだろうか。
『じゃあ、弔いの酒にしよう。お葬式しようよ』
もう一人の璃久の声が頭に響き、刹那、体にぽっかりと開いた穴に冷たい風がゴウと流れ込んだ。
・・・リクに会いたい・・・。
今は大人しく、ぐったりと玉城に身を預けている見知らぬ青年の血だらけの手を、玉城はただ両手で強く握りしめた。
それはまるで何か、祈りの形に似ていた。




