第20話 璃久
『玉城、それどういうこと?』
電話の向こうで長谷川は低く唸るように言った。
玉城はリクのリビングでウロウロ歩き回りながら、たった今起こったことを長谷川に息もつかずに話したのだ。
床には先程自分とリクが割ったグラスの破片が、まだ至る所に散乱したままだ。
木材に染みこみ始めた赤い液体と強い香りが、数分前の出来事が現実だったのだと玉城に伝えてくる。
「俺にもわかりません。ただ、リクの中にリクじゃないヤツがいるんです。確かなのはそれだけです」
『憑依って事?』
「そうなのかもしれません。・・・いえ、そうであって欲しい。だって憑依なんて一時の事でしょう? だったら問題ない。あいつの霊力は、そんなに弱っちいもんじゃないですから」
『でも、あんたはそうじゃないかも知れないって不安があるんだろ?』
「・・・わからないんです」
玉城は息苦しくなって、また部屋をグルグル歩き出した。とにかく動いていないと堪らない気持ちになってくる。
ガラスの破片のないロフト下を歩くと、目の前の納戸が少し開いていて、中のキャンバスやイーゼルがひっくり返っているのが見えた。
「あれ?」
『何?』
「ちょっと待って下さい」
玉城は気になってその扉を開けた。
リクは大ざっぱなところもあるが基本綺麗好きで、整理整頓に関しては、とても徹底していたはずだ。
それなのに、いつもきちんと並べられていたキャンバスの一部が床に散乱し、絵の具もケースから出されて散らばっている。チューブから飛び散っているものまであった。
クリーム、赤、青、黒。
そして中央に転がっているキャンバスの絵に、玉城はぞくりとした。
『どうした? 玉城』
「奇妙な絵が・・・。いえ、以前にも抽象的な落書きをしてたことはあったんですが、それとも違う。これはリクの描いたものとは思えません。これは、まるで・・・」
『まるで、何?』
「リクの背中の傷あとです。とても稚拙な・・・小学生が描いたような。それに・・・」
『何?』
「サインがあるんです。大きく、サインが」
玉城は全身に鳥肌を立てていた。
何か大きな引っかかりが、喉元に詰まっている。
『リクのサインじゃないの?』
「リクじゃない」
『誰?』
「・・・璃久」
『え?』
「漢字の璃久。リクが、画家としては表に出して使わない、漢字の“璃久”です」
一瞬、海の向こうの相手は考え込むように黙った。
玉城はその沈黙の最中に、携帯を耳にあてたまま、リクの家を飛び出した。
「長谷川さん、俺行きます。リクのところ」
『どこか分かるの?』
「ええ。華南ロータリー近くの廃屋。知ってるでしょ? 悪ガキどもが以前溜まり場にしてて、何かの事件でニュースにもなった、松井モータースの廃工場です」
玉城はそう伝えながら、閑散とした道を駅方面に向かって走り出していた。運よくタクシーが通りがかるのを祈りながら。
15分ほど前に出ていったリクの姿は当然もう無い。
目でタクシーを探しつつ、手では命綱を持つように長谷川に繋がった携帯を握りしめた。
「長谷川さん・・・リクは、霊に憑依されたんじゃ無いのかもしれない」
『うん、私もそんな気がしてきた』
ピリリと鼓膜が震えるように、長谷川の確かな声が響いてきた。
『玉城』
「はい」
『この電話、切らないからずっとあんたの耳に当てといて。出来る限り状況を伝えて。リクが、誰に、何のために会いに行ったのかが知りたいんだ』
「はい!」
『いい? 慎重に。焦って突っ走らないでよ』
「はい!」
玉城はいつも窮地を救ってくれた女神の命綱をしっかりと掴み、一方で、普段は車の交通量の極めて少ない一車線の車道に目を走らせた。
女神の恩恵なのだろうか。一台の空車のタクシーがこちらに向かってくる。
玉城は車道に飛び出し、めいっぱい手を振ってそれを止めると、転がるように乗り込んだ。




