第18話 弔い
「誰って訊かれても困るな。僕は、僕だよ」
リクはサラリとそう言うと、服を丸めてキッチンのダストボックスへ放り込み、さっさとシャワールームへ入って行ってしまった。
その赤黒いシミを付けた衣服は、洗う余地もなく、その青年に不浄なものとして処理されたのだ。
当の玉城は、自分の口から出た「お前、誰だ」という言葉に自分で衝撃を受け、リビングの隅でシャワールームのドアを見つめたまま固まった。
そんなこと、あって良いはずはない。けれど、あれはリクじゃない。絶対に違う。
リクは腹の立つ憎まれ口も叩くが、人をあざけるような、あんな目はしない。
けれど、あれがリクでなければ、誰なんだ。
リクはどこへ行ったというんだ。
玉城は蒼白になり、グルグルとリビングを歩き回った。
“いったい、何なんだ。これは、何なんだ”
ほどなくしてタオルで髪を拭きながら戻ってきたリクは、もうすでに清潔な空色の綿シャツとジーンズに着替えていた。
血の気がもどってほんのり上気した艶やかな頬も、穏やかな口元も、健全な青年のモノであり、自分が投げつけた質問こそ馬鹿げているようにも思われた。
けれど玉城は一言も喋らず、観察するようにじっとリクを目で追う。
リクはそれに気付いたのか、チラリと玉城に視線を流したが、一瞬侮蔑の色を浮かべただけで、まるで興味無さそうに顔をそむけた。
ゾワリと玉城の背が、苛立ちと不快感に粟立った。
“違う! ・・・リクじゃない!”
玉城の胸の内で起こっている激しい疑念をよそに、リクはタオルを首に掛けると軽い足取りでキッチンへ行き、冷蔵庫のドアを開けて中身を物色し始めた。
「腹減ったな~。あ、何か、いっぱい入ってるね。チーズに生ハムにサラダにワイン」
楽しそうにそう言うとリクは赤ワインを掴みだし、玉城の方へ振って見せた。玉城がリクの為に買ってきた、インド土産のワインだ。
「ねえ、ワインでお祝いしようよ。お祝いする時って、お酒飲むんでしょ?」
玉城が間髪入れず、返した。
「何の祝いだよ」
「ハッピー・バースデイ」
「お前、2月生まれだろうが!」
玉城が睨みつけるように言うと、リクは引き出しを引っかき回して見つけたコルクスクリューでワインのコルクを器用に抜きながら、肩をすくめて笑った。
「へえ。・・・よく知ってるね。仲いいんだ」
リクは更に「ワイングラス無いんだな」とぼやきながら大きめのグラス二つを取り出し、中央のテーブルにトンと置いた。ボトルを高く掲げ、ドボドボと溢れんばかりに赤ワインを注ぐと、テーブルの横に仁王立ちしている玉城に、その片方のグラスを差し出した。
「じゃあ誕生祝いはやめて、弔いのお酒にしよう? お葬式しようよ」
いつも少しだけ背の高い玉城を見つめてきた、臆病で寂しがり屋の、あの青年の瞳はそこにはない。
そこで玉城を見据えているのは、傲慢で無遠慮な、正体不明の男の目だった。
玉城は込み上げてきた怒りと絶望的な悲しみに任せて、そのグラスを払いのけた。
ワインの入ったグラスは軽々とはじき飛ばされ宙を舞い、壁に当たって砕け散った。
ログハウス調の温かな木目の壁から、飛び散った液体が血液のように垂れ、濃厚な甘い香りと共に床に広がった。
「お前、誰なんだよ!」
「ふん。野蛮人」
リクは短くそう言うと、手に持ったもう一つのグラスのワインを、ジュースのように一気に飲み干した。
そうして空になったグラスを、同じように乱暴に壁に投げつけると、その砕ける音と共に玉城を睨みつけた。
「僕がリクじゃなかったら、誰なんだよ」
「知らねーよ。だから訊いてんだろ?」
「ふーん」
人形のように無機質な目が、一瞬好戦的に光った。
「仕方ないね。じゃあ、本当のことを教えてあげる」
リクは胸が触れ合うほど玉城に体を寄せ、肩を抱き、その耳元に唇を寄せて呟いた。
「あなたのリクは、昨日、死にました」
語尾で、その唇がニヤリと笑った。
怒りに目眩がした。
その青年を殴りつけようと体を離した玉城は、相手の右手が舞うように宙を切ったのを目の端に捉えた。
けれどその意味を理解する前に、次の瞬間にはその拳が激しく玉城のみぞおちに食い込み、火花が飛び散るような痛みに体を折り曲げた。
思いもしなかった青年からの攻撃に、まるで何の防御も出来なかった。
呼吸ができない。
何とか足を踏ん張り体勢を整えたが、肩をグイと掴まれたあと、今度は膝蹴りを同じみぞおちに食らった。
更に激しい痛みに玉城は今度こそ膝から崩れ落ち、無様に床に転がった。
喉まで胃液がせり上がり、痙攣し、苦痛の涙で視界がぼやけた。
息をしろ。
慌てるな。
慌てるな!
半分意識を失いながら石のように体を丸めた玉城の横に、青年は静かにしゃがみ込んだ。
玉城の意識が有るのか無いのか確かめるように、そのヒンヤリした細い指が、玉城の頬を撫で、そしてトントンと戯れるように軽く叩く。
玉城が動けないのを確認すると、僅かに赤ワインの香りの吐息をさせて、青年は呟いた。
「これから大事な用事があるんだ。あんたに邪魔されたくないんでね。さあ、ようやく始まるよ。
物語の最終ステージが」




