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第15話 もう帰れない

土気色のその男の顔は、向こう側を向いていた。

けれど、覗き込まなくても、それが見知らぬ男だということは分かった。

エラの張った髭だらけの風貌にも、ずんぐりした寸詰まりの体躯にも見覚えがない。


窓の外はすっかり暗くなっていたが、いったい今が何時なのか分からない。

携帯を取りだし時間を確認する気力もなく、ただ少しばかり思考が戻ってきたリクに考えられたのは、この忌まわしい空間から出ていくことだけだった。

力の入らない足で、ふらつきながら玄関口へ走る。

けれど、それを鋭い声が止めた。


《ナイフを抜け!》


ビクリとして立ち止まり、振り返った。もちろんリク以外に部屋には誰も居ない。

叫んだのは自分自身だった。

それがどういう事なのか考える事も出来ぬまま、リクは素早く引き返すと死体の横に立ち、目を反らしながら胸に刺さっているナイフを握った。饐えた畳の匂いと血の匂いが混ざり、ムンと鼻を突く。

力を込めて引き抜こうとしたが、まるで肉に溶け込んだかのようにナイフはびくともしない。


リクは込み上げてくる吐き気を堪え、やはり目を背けたまま死体を跨ぎ、両手でナイフの柄を掴んだ。

そして力を込めて一気に引いた。

ヌチャリと身の毛もよだつ粘りけを含んだ音をさせ、ナイフは辛うじて抜けたが、リクの精神力は限界に来た。


慌てて流し台まで行き、何度も何度も嘔吐を繰り返したが、空っぽの胃からはわずかな胃液しか出てこず、ただ苦しくて涙ばかりが流れ落ちた。

手に握ったままのナイフには赤黒い血が糊のようにこびり付いている。

リクはそれを流し台にかざすと水道の蛇口を捻り、まがまがしいクリムゾンを洗い流した。震えの止まらない手で一振りして水を切り、それをポケットに突っ込んだ。


そんなことをする意味も分からず、機械的にそんな行動を取る自分が、本当に自分であるのかどうかも分からなかった。

細かく震える体をなんとか玄関まで運び、転がっていたスニーカーを履くと、すぐにリクは部屋を飛び出した。


自分が出てきた建物は、昭和の途中で忘れ去られたような、朽ちかけたアパートだった。

もちろん、見たこともない。

さっきまで居た部屋は1階の隅に位置しており、数歩歩けばもう、雑草だらけの前庭だった。


敷地内を飛び出しても、そこが何処なのか、まるで分からない。

街灯もまばらで、あたりの民家もひっそりと息をひそめ、部屋の明かりも門灯もついていなかった。

すべてがリクを嘲笑うかのように無機質で余所余所しく、心臓が冷却器にかけられたように冷えてゆく。

どこを見ても何も思い出せず、不安がヒタヒタ体を浸食し、心臓はもう、これ以上の負担に耐え切れそうになかった。


リクはまるで親にはぐれて迷子になった子供のように辺りを見回し、怯え、浅く早く呼吸を繰り返した。

大きな通りに出れば、なにか分かるかも知れない。

そう思う反面、そんなことは不可能にも思えた。


もう、戻る道などないのかも知れない。

どこかで足を踏み外し、抜けられない穴に落ちてしまった。

もう、帰れない。

どこへも、逃げられない。


ポケットに入れた携帯が震えだしたのはその時だった。

しばらく細かな振動を感じてボンヤリしていたが、リクはゆっくりとそれを取りだしてボタンを押した。


『リク?』


それは、突き抜けるように明朗で力強い長谷川の声だった。


「・・・長谷川さん」

『な、なによ。なんて声出してんのよ。ビックリするじゃない。ねえ、あんた大丈夫? 玉城と昼間電話して、ちょっと気になってさ。またあんた達、しょうもない喧嘩してんじゃない?』

「長谷川さん」

『だから! そんな声出すなって言ってんでしょ? あんまり電話するとあんた嫌がると思って我慢してんのにさ。そんな細い声出すなら、毎日電話するよ? いいの?』

「ごめんね」

『・・・何が』


電話の向こうの長谷川が一瞬、息を呑んだような間が開いた。

『リク? ねえ、どうした? 何かあった?』

ただならぬものを感じ取った長谷川の声に緊張が走る。

リクも一つ、ゆっくりと息を吸った。

喉の奥が震えた。


「ごめんね、長谷川さん。・・・もう、終わりにしていい?」

『何? 何言ってるか分かんないよ。リク!』

長谷川の声は次第に大きく、悲痛になった。

『リク? ちゃんと会話しようよ。ねえ、聞いてあげるから。何でも聞いてあげるから。ねえ!』


リクは必死に話しかけてくる長谷川の優しさに、ほんの少し微笑んだ。けれど、

「ごめんね、長谷川さん。ありがとう」

その言葉を告げて、電源をオフにした。


それがどんなに罪深い事なのか、どんなに自分を想う相手の心を苦渋の闇に落とし込む事になるのか。

そんな事も、もう今のリクには、分からなくなっていた。




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