第13話 クリムゾンの挑戦状
意識が朦朧とするほどの疲労感を引きずり、リクは自宅へ戻ってきた。
玄関ドアに触れてみると、やはり鍵は掛っていなかった。
外よりもヒンヤリした室内に入った後、リクはリビングを見渡した。ここを出ていった時の記憶がない。
記憶が無いだけなのだろうか。
それとも、その時の自分は、自分以外の『何か』だったのだろうか。
考えるほどに怖くなり、何も食べていないだろう胃がキリキリと痛んだ。
やはり食欲は湧いてこない。その事がますますリクを不安にさせた。
頭がふらつき、思考がまとまらず、意識が飛びそうになる。
けれど眠ってしまったら最後、自分は自分でない『何か』になる。
もしかしたらそうするためにそいつは、この体を弱らそうとしているのだろうか。
だとしたら、もう既に浸食が始まっている。
この体は、自分じゃない意思に少しずつ取り込まれようとしている。
リクはそんな非現実的で馬鹿らしいことを考えながら、少しずつその状況に慣れようとしている自分にも気がついていた。
“自分?”
今までの自分に、どれほどの価値があっただろう。
今の自分が消えて、別の何かに成ったとして、それがどうしたというのだ。
誰が悲しむというのだろう。
そう思った瞬間、僅かな寂しさと、それを上回る開放感が体を満たした。
そうだ、きっとしがみつく価値など、元々ありはしなかった。
リクはボンヤリとした頭で再び部屋を見渡しながら、昨夜の記憶を拾い集めてみた。
リビング左手奥に、画材一式を置いておくための小部屋がある。
描きかけの状態のままイーゼルに立てかけたキャンバス等が置いてある、2畳ほどのウォークインクローゼットだ。
その扉が少しばかり開いている事が、なんとなく気になった。
この数日、出入りした記憶は無いのに。
近づいて何気なく中を見たリクは、ゾクリと鳥肌を立てた。
まるでリクに見せつけるかのように、イーゼルに立てかけたキャンバスの絵が、こちらを向いていた。
それはリクが描いた記憶のない絵だった。
いや、絵ですら無い。ただの、暴力的な落書きだった。
6Fの小さなキャンバスは一面の赤みを帯びた肌色。
絵の具を塗りたくってマダラになった海の中、左上から斜めに赤い亀裂が走っていた。
それはまだ乾ききっておらず、鮮やかなクリムゾンが血のように滴っている。
それと同じモノを、リクは知っている。
忘れることも逃れることもできないその醜い傷は、今、自分の背中にある。
リクはもう、考えることに疲れたように、ただボンヤリとそのキャンバスを見つめた。
自分が描いた記憶のない絵。
それは自分を取り込もうとしている『何か』からの挑戦状なのだろうか。
「くだらない。・・・もう、好きにすればいいさ」
そう小さく呟いた声が、たった一人のリビングに空虚に響いた。
不意にジーンズのポケットに入れっぱなしだった携帯のバイブが震えた。
長谷川だろうか。
ほんの一瞬、温かな安堵が胸の中によぎったが、画面に表示されたのは未登録の番号だ。
電話の相手は荻原医師だった。
『岬くん。朝、あんな形で君を帰してしまって、ずっと気になってたんだ。今日は午後診も無くて時間が空いてるから、これからまた家にに来ない?』
「これからですか?」
『君にはちゃんとした治療が必要だと思う。本当は私が力になってあげたいんだが・・・。腕のいい心療内科医がいるんだ。紹介状を書くよ。・・・ね?」
「いえ、もう・・・」
『他の医者がイヤなら私と話をするだけでもいい。このままでは良くないと思うんだ。きっと君だって苦しいだろ? あ、別に不安にさせようとしてる訳じゃないんだけど・・・どうにも、私の性分で』
少しばかり慌てて言い添える所にまで荻原の優しさが感じられ、リクはほんの少し微笑んだ。
「僕は、あなたの手には追えませんよ。それでも?」
リクの言葉に荻原も電話の向こうで微笑んだのか、少しばかり間を開けてから、落ち着いた低い声で返してきた。
『いいね。興味深いよ』




