第12話 お願い
朝の9時を少し回った頃。
社宅の自室で取材に出かける準備をしていた玉城に、シンガポールの長谷川から電話が入った。
薬缶を火に掛けながら玉城は電話に出た。
「はい。玉城です」
『おはよ。昨日は電話できなかったけど、そっちの様子はどう?』
「どう、・・・って。それは俺の事じゃないですよね。直で電話したらどうですか? 本人に」
インスタントコーヒーの粉をガサリとカップに入れながら、玉城は苦笑した。
『昨日はリクに直接電話したよ。元気だって言ってた。体の調子もいいって』
「そう・・・。じゃあ、元気なんじゃないですか? 万事OKです」
玉城はまだ蒸気を出さない薬缶を見つめながら、さり気なく言った。
『・・・何? 何かあった?』
長谷川の声のトーンが落ち、鋭くなった。
電話を通してでも、相手の感情を逐一読みとってしまう。彼女は刑事にでもなれば良かったのに。
玉城は正直、そう思った。
「別に。何もないですよ。あいつは万事OK。自分の事は、自分で解決出来る大人だったってことです。お節介はいらないそうです」
『玉城!』
「長谷川さん、リクは大丈夫ですよ。俺よりよっぽど霊の扱いを心得てるし、余計な事をしたって、あいつの機嫌を損ねるだけだし」
『何をスネてんだよ、玉城』
「拗ねてなんかいません。ガッカリしたんです」
『何があった?』
「何もないですよ。くだらないことです。心配してやったらウザイって言われたんです。親切の押し売りだって。自己満足だって。あいつにはガッカリですよ。馬鹿みたいです」
『・・・』
ほんの少しの沈黙のあと、長谷川が言った。
『ああ、馬鹿だよ。私こそあんたにガッカリだ』
「何でですか!」
今度こそ、長い沈黙が続いた。
電話が切れてしまったのかと思い、携帯を握り直した所に、長谷川の聞こえてきた。
驚くほど静かな声だ。
『リクが本気でそんなこと言うと、あんたは思ってるの?』
「なんで嘘を吐く必要があるんですか」
『リクはあんたに冷たい奴だって言われたのを、すごく気にしてたんだよ?』
「そうですか? でも今は気にしてないみたいですよ」
『本気でそう思ってんの?』
「だって」
『お前は小学生か』
「何でですか!」
『リクは自分が辛いとき、辛いんです、助けてくださいって言うヤツか? そうじゃないだろ? 今のあいつは極限状態なんだよ』
「でも・・・。長谷川さんには分からないかも知れませんけど、リクの周りに霊の匂いがしないんです。何にも感じられない。だから、何もしてやれないし、俺が出る幕はないかも知れないし」
『霊が関係してなかったら、自分には関係ないって? 勝手に苦しめばいいって?』
「そんなことは言ってないけど・・・。俺だって、あんなふうに言われると腹が立つんです。人間ですから」
『玉城。・・・あんたしか居ないんだ。頼むよ・・・』
いきなり聞こえてきた長谷川の懇願の声に、玉城は一瞬ドキリとした。
それは、いつも豪快でパーフェクトで揺るぎのない女編集長の声では無かった。
愛しい者を想う、女の声だった。
「・・・ええ。もちろん、これからも気にはかけますよ。・・・大丈夫です」
『本当に?』
「ええ」
玉城がそう言った直後、ドアホンが鳴った。
腕時計を見ると、グルメディアスタッフが玉城をバンで迎えに来ると言っていた時間だった。
「じゃあ、・・・迎えのスタッフ待たせてあるので。また連絡します。心配しないでください」
玉城は早口でそう言うと、電話を切った。無意識に小さくため息が出た。
彼女はリクのせいで、すっかり心配性になってしまった。
まるで日本に子供を残してきた母親のようだ。そんなことを思ううちに、ほんの少し玉城の中の、リクへの怒りが和らいだ。
思い返せば、少しばかり大人げなかったかもしれない。
リクはいつだって無愛想で素っ気なく、干渉されることを一番に嫌うのだ。
いつもの事じゃないか。
玉城がそんなことを思いながら玄関ドアを開けると、カメラマン兼、本日の運転手の大西がヌッと顔を出した。
「もう行ける? 玉城くん」
「あ、はい、すみません、迎えに来てもらって。すぐ行きますから」
玉城が荷物を取りに再び奥へ引っ込むと、大西はグイと無精髭だらけの顔だけドアの内側に入れ、ボソリと言った。
「ねえ、さっき一階の階段のところに、あの人がいたんだけど」
「え? あの人って?」
「ほら、画家のミサキ・リクって人。あの人目立つからすぐに分かった。本当に綺麗だもんね。思わず近くでジーッと見ちゃったもん」
「リクが?」
「玉城くんに会いに来たのかと思ったけど、違ったのかな」
玉城が慌てたように靴を履こうとしているのを見て、大西は言った。
「ああ、でももうとっくに帰っちゃった。俺が『画家のミサキさんですよね?』って声かけたら、避けるようにスーッとね。あの人、愛想ないよね。男も女も、美人ってやつはそうなのかね。才能もすごいんだろうけど、人間的にどうなんだろうねー。ちょっと付き合いたくないタイプだなぁ」
「・・・」
もう、追いかけても間に合わないな。
そう思う傍ら玉城は、普段は気のいいこのカメラマンに対して、腹立たしさが沸き上がってくるのを、しばらく止めることができなかった。




