第11話 心療内科医
「いや、正直驚いたよ。本当に君が玄関口に立ってるんだからね」
荻原医師はいつもの良く通る声で快活にそう言うと、リクの前に煎れたての温かいコーヒーを置いた。
そしてまだポロシャツとジャージというラフな格好で、自分もリクの正面のソファに腰かけた。
そこはいつもリクが通う診療所に併設された、荻原の自宅の小さな応接室だった。
「診察室を開けてもいいんだけど、ここの方が落ち着くだろ?」
そう言って荻原は唐突に訪ねて来たリクを、快く招き入れてくれたのだ。
荻原は一時期総合病院に努めていたが、この診療所の医師を父に持つ女性の婿養子になり、ここを引き継いだのだという。
けれど僅か8年の間にその医師も荻原の奥さんも同じ癌で亡くなり、30半ばで何の因果か、しがないやもめ暮らしとなった。
コーヒーを入れる短い間に、荻原はサラリとそんな辛い身の上話をリクに聞かせてくれた。
思い悩んだ様子のリクの緊張を、ほぐすためなのかもしれない。
リクは荻原の声を聞きながら、そう思った。
「すみません。こんな朝早くに来てしまって。今日も診療のある日なのに」
リクが力のない声でそう言うと、荻原は目尻に皺を寄せてニコリと笑った。
「私が言ったんだよ。いつでもおいでって。来てくれてうれしいよ。独り身の寂しい内科医は、仕事以外の時間はちょっと色っぽいDVDを見るか、白衣にアイロンを掛けるくらいしか、やることが無くてね」
そんな冗談を言う荻原にリクは何とか微笑み返したが、胸の動揺はまだ少しも治まっていなかった。
ともすれば不安から後頭部が冷えてゆく感覚に陥り、胃がムカムカと吐き気を誘う。
「ねぇ」
荻原は、そんなリクの青ざめた顔を覗き込みながら、真面目な声で続けた。
「朝、記憶にない場所で目覚めたって、本当かい?」
リクは頷いた。
ここへ通されたあと、不安のあまり、先ずそれを荻原に話したのだった。
「記憶が無くなるってこと、今までにもあった? 泥酔して・・・とかは別にして」
荻原はそう言うと、膝の上で手を組み、少し前屈みになってリクの目を見つめてきた。
「・・・いえ、初めてです」
「そんな気配もなかった? 一度も」
荻原の目線がチラリとリクの左手首に流れると、包帯が見られているわけでも無いのに、リクは意識的に手をひっこめた。
「見知らぬ場所で気が付いたのは初めてですが、寝てる間に、体が僕の知らない行動を取っていたことはあります。その形跡がありました」
「行動を? それはつまり君の意思ではないのに、何かに操られたようになったってこと? 夢遊病のように、体だけが覚醒して動いた・・・とかじゃなく?」
荻原は険しい顔でリクの目を覗き込んでくる。
リクはその時改めて、自分が無意味なことをしているのに気が付いた。
荻原は、心療内科医の顔つきに変わっていたのだ。
少しでも気分がおさまれば、と思って自分の不安の種を不用意に話してしまったが、自分の問題はこの医師に何とか出来る問題ではないのだ。
自分を翻弄しているモノは、とうてい説明出来ない世界の輩なのだから。
「ごめんなさい、先生。もう帰ります。診療前に時間を取らせてしまってすみませんでした」
コーヒーに手も付けず立ち上がったリクに、荻原は少し鋭い視線を投げた。
「その手に握っている物は何かな?」
「・・・」
リクはその声に改めて手元を見、ハッとした。
ポケットに突っ込まれた右手が無意識にナイフを握りしめ、その柄の部分が覗いている。
慌ててぐっと力任せにポケットに押し込む。
それと同時に襲ってきた目眩が、グラリと周りの世界を軟体動物のように歪ませ、リクは思わずテーブルに片手をついた。
すぐその横にあったコーヒーソーサーが、カシャリと甲高い音をたてた。
「岬くん、大丈夫!?」
「平気です。・・・大丈夫。ごめんなさい」
手を差し出してくる荻原を避けるようにリクは立ち上がり、目頭を押さえた。
動悸が再び激しくなり、貧血を起こしたように目の前が再び暗くなったが、「帰ります」と絞り出すように小さく言うとリクはドアを開け、玄関へ走った。
「岬くん!」
荻原が追いかけその肩を掴もうとしたが、リクはスルリと交わし外へ飛び出した。
「岬くん、必ずまたおいで。君はきっと医師の力が必要なんだ。今夜でもいい。明日の朝でもいい。必ずまた来なさい。私も電話するから。いいね!」
遙か後方で荻原の声が響いた。
診療所脇で出勤してきた若い看護師とぶつかりそうになり、驚いたように凝視されたが、構わずリクは走り抜けた。
“何かが居る。僕じゃない、何かが。”
渇いた喉が痛みを感じるほど激しく呼吸し、リクは来た路地を戻った。
フラリと大通りに足を進める。
お世辞にも繁華街とは言えない寂れた商店街であり、閉まったシャッターにはお粗末なグラフィティーアートが殴り描きされている。人通りは尚もまばらで、その時間になっても閑散としていた。
どこへ行こう。
人恋しさに胸の疼きが止まらない。そんな気持ちになったことは初めてだった。
けれど、どこへも行く当てなどないのだ。
そのすべてを、自分が潰してしまったのだから。




