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第10話 途切れた記憶

「約束が違うんじゃないか? 金は先月で終わりだと言ったはずだ。これ以上関わり合うと、お互いの首を絞めることになるぞ!」

汗ばむ手で受話器を握りしめ、男は喉の奥から声を絞り出した。

誰に聞かれているわけでもないのに、自然とそのトーンは卑屈に低くなる。

『おいおい、冗談だろ? お互いってなんだよ。俺がどんなに惨めな生活してるのかわかってんのか? 仕事も出来ず、顔をさらして歩くことも出来ず。このまま日陰で腐って野垂れ死ねってぇのか? お前だけのうのうとしやがって。俺がサツに駆け込んだらどうなるか想像してみるんだな。食う物も食えなくなったら、何するか分かんねえぞ。お前はこの先もずっと俺の金づるだ。よく覚えとけ』

電話の相手は、とりあえず30万だと金額を指定して自分の方から回線を切った。

男の怒りは頂点に来ていた。

沸々と腹の底から沸き上がるドロリとした塊は、今や噴火寸前のマグマのように煮えたぎり膨張していた。


決壊が崩れる。

だが、一緒に地獄に堕ちるなど真っ平だ。

行くならヤツだけだ。馬鹿で薄汚い能なしのあの男だけだ。

けれど、ヤツに何かあったとき、洗い出されて自分が浮かび上がらないとも限らない。

そんなヘマは出来ない。

きっと何かいい方法がある。探せ。

そうでないと俺はそのうち、あいつに骨になるまで吸い尽くされてしまう。

男は震える手を握りしめ、力任せに机へ叩きつけた。


           ◇


泥の中に、ずっぽりと埋め込まれたような感覚だった。

息苦しい。

けれど不思議と手首には痛みが無かった。

毎朝拘束された手首の痛みで目覚めるのが当たり前だったのに、眠りの底から目覚めたはずの今、どこにも痛みは感じない。

リクはゆっくり目を開け、そして、ボンヤリした頭で辺りを見回した。


湿ったコンクリートの壁にもたれて、リクは薄暗い路地のアスファルトに座り込んでいた。

微かな車の走行音と排気ガスのにおい。乾いた街の無機質な匂い。

始めはまだ夢でも見ているのだろうかと思った。

だがそうではないことを悟ると、リクは急に体に冷水を浴びたような寒気と恐怖を感じ、力の入らぬ足でフラフラと立ち上がった。

信じられなかった。

ここがどこなのか、今がいつなのか、まるで分からないのだ。

急速に動悸が速まり、込み上げてくる不安を押さえようとするほどに呼吸が苦しくなった。

混乱する頭で何とか自分自身を確認してみると、服装は昨夜と同じだった。

ジーンズにTシャツにダークグレーの薄手のジャケット。

ようやく少しずつ昨夜までの記憶の回路が繋がってきた。


昨夜まだシャワーを浴びる前、体が異常に気だるくなり、テーブルに突っ伏してそのままじっとしていた。

また、いつもの貧血なのだと思っていた。

けれどそのあとどうしたのか覚えていない。眠ってしまったのか記憶が途切れている。


動悸は治まるどころかますます激しくなり、自分自身が恐ろしくて忌まわしくて嫌悪感が止まらない。

震える指先で持ち物を確かめてみた。

衣服をさぐると、ジーンズの後ろポケットから財布と携帯が出てきた。携帯の時刻を確認すると、朝の7時過ぎだった。

辺りはひんやりしていて人通りも少ない。

リクは自分がどこに居るのかを確かめるために、路地から光の射す通りへ出てみた。

幸い見覚えのある商店街で、いつも内科医へ通う時に乗るのと同じ路線バスの停留所が近くにあった。


いったいいつここに来たのだろう。リクの家からは、その路線バスで15分くらいの所だ。

始発のバスが動き出してからだろうか。

なぜこんな所に来たのか。


考えれば考えるほど頭が混乱し、胃が締め付けられる。

リクは少し荒く呼吸しながら、無意識にジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

「・・・」

手にカチリと何かが当たった。硬質でツルンとした手触り。

慌てて取りだして見たが、確認するまでもなく、それは折り畳み式のナイフだった。

スケッチに行く時、鉛筆や木炭を削るのにちょうどいいので画材道具と一緒にケースに入れて置いたナイフだ。

確か画廊のオーナー佐伯が、何かの記念だと言ってリクにくれた物だ。柄の部分にリクのイニシャルが刻んである。

どうしてそれがポケットに? 最近それに触った記憶は無かった。

リクは再びナイフをポケットに戻すと、昼間に比べるとまだ人影もまばらな通りを、力なく眺めた。


どこを見ても、何の答えも無かった。

早めの出勤のために駅に向かう中年のサラリーマンや学生、アルミ缶を自転車いっぱいに乗せて回収してまわっている老人。こんな早朝からから手動シャッターを開けている、小さな文房具店の店主。

自分とは関係のない人々の動きをボンヤリ眺めてみたが、足元から這い上がってくる恐怖を止めることは出来なかった。

ブルーのラインの入った路線バスがリクの前をゆっくり走り、10メートルほど先のバス停で止まった。

2人ほど乗客を降ろしたあと、そのバスはまるでリクを待っているかのように乗車ドアを開けたまま、停止している。


答えが欲しい。誰でもいい、教えて欲しい。


リクはふらりと吸い込まれるように、そのバスに乗り込んだ。



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