第1話 受診
処置室の、程良い室温と湿度が心地よかった。
時折小さくカチャカチャと金属の触れあう音がする以外は、何も聞こえない。
重くなる瞼に抗って、目の前を動く男の顔をぼんやりと目で追うと、その視線に気付いたのか、男がリクに顔を近づけてきた。
「気持ちいい?」
内科医は優しく笑って、ベッドに横たわるリクにそう訊いた。
「君のはね、バカなダイエットし過ぎて倒れた女の子並の血液データだよ。オールレッド。見る?」
荻原という30歳半ばのその医師は、リクの左腕の点滴の針を確認しながら、軽い調子で付け加えた。
リクは笑って首を横に振る。
「でも、この診療所に来てくれて良かったよ。ひどい脱水症状まで起こしてるから、このままじゃ明日の朝は目覚めなかったかもしれないよ」
リクが返事に困っていると、薄いカーテンの向こうで聞いていたらしい看護士が、声だけで「先生!」と、たしなめた。
さすがに不謹慎だと感じたらしい荻原医師は、端正な顔を少し歪ませ、神妙な顔をして「ごめんね」と言った。
北欧の血が混ざっていそうな大きな凛々しい鼻と、がっしりした顎。
唇は薄いが独特の色気がある口元は、医師と言うよりも舞台役者という感じだった。
スポーツ選手のように太い首。体つきも、白衣の上からでも逞しさが感じられる。
「気にしないでください」
リクは薬のせいか、いつになくフワフワした体をベッドに横たえながら、透明な点滴のパックを見つめた。
確かに医師の言う通りかもしれない。
そろそろ体が限界に来ていることは、リクにも分かっていた。
「知ってる? 本当は点滴で充分な栄養なんて取れないんだよ。こんなのただの生理食塩水とブドウ糖だ。生きたいと思うなら、口から栄養を取らないとね。辛くても」
時折何かの端末に打ち込みをしながら独り言のようにそう言うと、荻原は再びリクを真上から覗き込んだ。
そして、開いたシャツから覗くリクの鎖骨の中程に、中指をトンと置いた。
「言うことを聞かないと、次はここの中心静脈から特太の針刺して高カロリー輸液することになるよ。いい?」
「・・・それは、ヤだな」
リクが困ったように小さく笑うと、荻原はやっと満足したらしく、カルテを書くために隣の診察室に戻っていった。
別の処置室では、老人に優しく話しかける看護士の声が聞こえる。
そんな声も、微かな消毒液の匂いも、すべて心地よかった。
瞼が重い。睡魔が泥のようにのし掛かってくる。リクは眠りを振り払うように激しく首を振った。
手にギュッと力を入れてみる。眠りたくない。
こんな場所で眠ると、自分がどうなってしまうのか不安で、堪らなく恐ろしかった。
その反面、このまま睡魔に任せて穏やかに眠れるのならば、もう目覚めなくてもいいとさえ思う。
「力を入れたらダメだよ。液が入って行かないから」
いつの間に戻って来ていたのか、荻原がドアの横に立ち、呆れ顔でこちらを見ていた。
「・・・すみません」
「君・・・岬くん」
「はい」
「君はね、多分、受診する科を間違えたよ」
リクは黙ってそのがっしりとした医師を見つめた。また何かの冗談を言ってるようには見えなかった。
「君の摂食障害は普通の内科では治せない。君を救えるとしたら心療内科なのかもしれない。何か人に言えない悩みを抱えてないかい?」
リクは、自分に静かに話しかけてくる医師を、無言で見つめた。
何を言うべきなのか、分からなかった。
ただ、自分を救えるのがそんな名前の内科でないことは分かる。
「いえ、・・・僕は何も」
「診察時間外に電話しておいで」
「え?」
リクがまだ少しトロンとした気だるそうな瞳を向けると、荻原は穏やかに言った。
「私は以前、総合病院の心療内科にいたんだ。話くらい聞いてあげられるかもしれない。君が望むなら、他の心療内科を紹介してあげてもいい」
「・・・」
「まあ、どちらにしても、またここに治療に来ること。まずは内科的治療をしよう。いいね。またぶっ倒れたくなかったら必ず来なさい」
穏やかだが、逆らえない威圧感のある口調だった。
リクは取りあえず、治療に通う事には「はい」と答えた。
とにかく、一人で居る時にまた倒れて意識を失うことだけは避けたかった。
自分の意識が途切れる時間。
それが今のリクには、一番怖かった。




