閑話 北の山と迎える準備
屋敷の裏手に広がる丘を越えると、北の方角にはなだらかな山並みが続いている。
朝の光を受けて、木々の葉は淡くきらめき、遠くでは水の落ちる音が絶え間なく響いている。
風が吹くたび葉擦れの音が柔らかく耳をくすぐり
空気は澄んでいて、深く息を吸い込むと、土と草の香りが胸いっぱいに広がった。
「……今日は、あっちまで行ってみるか」
静の視線の先には、岩肌を伝って落ちる小さな滝がある。
普段は屋敷の周囲で済ませることが多いが、今日は時間に余裕があった。
フレイヤが王都へ戻ってから、屋敷には再び静かな時間が流れている。
「いいですね。空気も澄んでいますし」
セリナがそう答えると、ツキが「にゃ」と短く鳴く。
その後ろでは、あかねがぱたぱたと小さな翼を揺らしながらついてきた。
まだ飛ぶことはできないが、翼を動かすこと自体が楽しいらしい。
支配エリア内
危険はなく、気負う理由もない、ただの散歩だ。
◆◆◆
山道に入ると、すぐにツキが動いた。
「にゃ、にゃにゃ!」
低木の根元を掘り返すようにして、誇らしげに顔を上げる。
そこには肉厚で艶のあるキノコがいくつも顔を出していた。
傘の色は淡い茶色で香りも良い。
「それ、食べられるやつだね」
静が屈み込むと、セリナが頷く
「森の滋養を吸った種類ですね。香りも良いです」
ツキは得意げに尻尾を揺らし、それを見たあかねが真似をするように
少し離れた場所をくんくんと嗅ぎ始めた。
鼻を鳴らしながら、一生懸命に何かを探している。
「……きゅぅ」
今度はあかねが木の根元に転がる赤い実を前足で転がす。
見つけたと言わんばかりの表情だ。
小さな尻尾が嬉しそうに揺れている。
「ふふ、上手ですね」
セリナがそう声をかけると、あかねは嬉しそうに胸を張った。
ツキも「にゃ」と鳴いて、あかねの頭を優しく舐める。
静とセリナは二匹の様子を微笑ましく見守りながら
籠に食材を集めていく。
キノコ、山菜、木の実。どれも新鮮で自然の恵みを感じさせるものばかりだ。
◆◆◆
滝の近くまで来ると、空気がひんやりと変わる。
水音に混じって、川面を跳ねる魚の影が見えた。
清流に棲む小さいが美味しい魚だ。
「これも食材になるな……」
静が呟くとセリナは一瞬だけ足を止めた。
「……はい」
答えながら彼女は少し遠くを見る。
ここに来てからの日々は、穏やかで、満ち足りている。
女神ルーナフィリスの聖女として祈りを捧げ
時折、言葉とも思念ともつかない、やわらかな返事を受け取る。
料理をして皆に「美味しい」と言ってもらえる。
ツキやあかねの成長を見守り
静と並んで、当たり前のように笑って過ごす毎日
――幸せだ
間違いなく、幸せだった
けれど
「……静様」
何気ない呼びかけに静が振り返る。
「ん?どうかした?」
セリナは少し迷ってから、ぽつりと口を開いた。
「ここに来てから、毎日とても充実しています。祈りも、料理も……皆さんと過ごす時間も」
静は何も言わず続きを待つ
穏やかな表情のまま、セリナの言葉に耳を傾けている。
「でも……時々、思うんです」
セリナは足元の草を見つめながら……
「フォルツにいた頃、お世話になった方たちのことを……」
聖女見習いとして、街で多くの人と関わってきた日々
病人の看護、炊き出しの手伝い、孤児たちの世話
どれもが誰かの役に立てる実感があった
「今は対外的には聖女ではなくて……治療師として、静様の付き添いという形で街に行くこともありますけど」
小さく息を吸う
「教会にいた頃みたいに、炊き出しをしたり……誰かの力になれることを……直接できていない気がして」
それは不満ではなく、焦りでもなく
ただ優しさから生まれた、静かな想いだった。
「私は……とても恵まれた場所にいます。だからこそ、そうじゃない人たちにも、何かしてあげたいなって」
セリナの声は少しだけ震えていた。
自分の気持ちを言葉にすることが、少し怖かったのかもしれない。
◆◆◆
しばらく滝の音だけが流れてくる中、静が穏やかに言った。
「……それならさ」
セリナが顔を上げる
「今度、炊き出しでもしてみようか」
一瞬、セリナは言葉を失った。
「え……?」
「街の人たちに、って意味でね。他国から来た療養中の商人って設定もあるし、うまく使えるかなって」
静は少しだけ笑う
「無理のない範囲で、できる形を考えればいい」
セリナの目が、ゆっくりと潤んだ
「……ありがとうございます」
「まだ先の話だけど、それでもやりたいって気持ちは大事にしようか」
その言葉にセリナは深く頷いた。
胸の奥がじんと温かくなる。
「にゃぁ」
いつの間にか話を聞いていたのか、ツキが短く鳴く。
あかねも何となく分かったように静の足元に寄ってきた。
「……フレイヤさんが戻ってきたら」
セリナがふと思い出したように言う。
「その時に少し相談してみるのもいいかもしれませんね」
静も頷いた
「そうだね。フレイアさんなら、何か良い案が出るかもしれない」
「もし戻ってきても、エリアに入ったら分かるし。その時は迎えに行くよ」
セリナは静の横顔を見つめた。
この人はいつもこうだ。誰かの想いを否定せず、できる形を一緒に考えてくれる。
(……本当に、優しい方)
そう思うと胸が温かくなった。
◆◆◆
籠はいつの間にか食材でいっぱいになっていた。
キノコ、山菜、果実、川魚
ツキは満足そうに歩き、あかねはその後ろを真似するようについてくる。
二匹とも今日の成果に満足しているようだ。
夕方の光が山の端を赤く染め始めていた
空の色が淡いオレンジから深い紫へと移り変わっていく
「さて……今日は何作るかな」
静の言葉にセリナは柔らかく笑う
「今日の収穫、全部使いましょうか」
「それもいいな」
その笑顔の奥に小さな決意が静かに芽生えていた。
いつか、この恵まれた場所で得たものを
誰かに分けられる日が来るように
その想いを胸にセリナは屋敷へと続く道を歩き始めた。




