第十話 小さな殻音、新しい息吹
卵を持ち帰ってから数日が過ぎた。
その朝も、屋敷はいつもと変わらない時間を迎えていた。
セリナは礼拝堂で朝の祈りを捧げ、静は朝食のための採取の準備を整える。
《ルミナ・ヴェール》の面々も、それぞれに軽い点検を済ませ
一日の始まりを静かに受け入れていた。
そして、皆の意識のどこかに――自然と置かれているものがあった。
籠の中で、柔らかな布に包まれた卵。
ツキは今朝も、そのそばを離れていない。
布の端を前足で直し、卵の位置を確かめるように鼻先を寄せ
満足すると静かに座り込む。
それはもう特別なことではなかった。この屋敷の日常の一部になっている。
――その時だった。
ピシッ
小さく、乾いた音がした。
最初は誰もそれが何の音か分からなかった。
木が鳴ったのか、布が擦れたのか。
けれど次の瞬間――
「にゃぁ、にゃぁ、にゃぁ~!」
ツキが、慌ただしく鳴いた。
いつもの甘える声でも、要求する声でもない。
明らかに"呼んでいる"鳴き方。
尻尾を立て、耳を前に向け、全身で何かを伝えようとしている。
「……ツキ?」
静が顔を上げる。
「どうしたの?」
ツキは答えず、籠の前を行ったり来たりしながら鳴き続ける。
「にゃぁ、にゃぁ!」
その様子に、セリナも表情を変えた。
「何か……あったんですか?」
アリアたちも、次々と集まってくる。
全員がツキの様子が"いつもと違う"ことを感じ取っていた。
ツキは籠の中――卵に向かって鳴いている。
「にゃぁ……にゃぁ……」
声は先ほどよりも少し落ち着いている。
それはまるで
――大丈夫
――出ておいで
――待ってるよ
そう語りかけているかのようだった。
そして――
ピッシ
続けてもう一度
小さく、けれど確かな音
卵の表面に細いひびが入った。
誰も声を出さなかった。
驚きも、歓声も、言葉にしない。音を立ててはいけない気がした。
ただ、皆が同じ思いで見守っていた。
(がんばれ)
(もう少しだよ)
殻がゆっくりと割れていく。
ピシ、ピシ……
ひびの隙間から、淡い色が覗いた。
それは、まるで夕暮れの空を溶かしたような――柔らかく、温かい色。
「……毛?」
誰かが、息だけで呟く。
殻の内側から、もこもこと動く影。やがて、ひとつ、大きく殻が割れ――
中から現れたのは、とても小さく、かわいらしい存在だった。
ふわふわとした毛並みは、淡い夕日の色。
小さな翼が、まだ頼りなさそうに背に折りたたまれている。
愛らしい顔に、ちょこんと二つ、小さな角。
犬のようで、猫のようで、けれど、どちらでもない。
見たことのない、生きもの。
殻を抜け出したその子は、少しだけ身体を震わせ、不安そうに周囲を見回した。
大きな瞳がきょろきょろと動く。
まだ何も分からない、生まれたばかりの命。
その瞬間――
「にゃぁ」
ツキが、優しく鳴いた。
音量は小さい。けれど、とてもはっきりした声
ツキはゆっくりと近づき、新しく生まれたその子の前に座る。
そして、そっと――毛づくろいを始めた。
舐める動きは慎重で力も入っていない。
安心させるためだけの動き。
生まれたばかりのその子は、最初こそ戸惑った様子だったが
やがて小さく身を委ねた。
ツキの温もりに包まれ、少しずつ落ち着いていく。
「……もう、お姉ちゃんですね」
セリナが思わず微笑む。
「完全に"私が面倒を見る"って顔だね」
フィアも小声で笑った。
静は何も言わず、その光景を見つめていた。
胸の奥がじんわりと温かい。
世界は何も告げていない。神も何も語らない。
それでも――
この小さな息吹が、確かにこの屋敷で生まれたことだけは
誰の目にも明らかだった。
ツキは、もう一度だけ鳴いた。
「にゃぁ」
まるで
――大丈夫。
――もう、一人じゃないよ
そう伝えるように
朝の光は変わらず差し込んでいる。
けれどこの日、屋敷の中には確かに
新しい命の気配が加わっていた。
静はそっとその子に手を伸ばす。
指先が柔らかな毛並みに触れる。温かい。
「……よろしくね」
その言葉に、生まれたばかりのその子は、小さく鳴いた。
「ぴぃ」
か細く頼りない声。それでも確かに応えてくれた。
ツキは満足そうに尻尾を揺らし、再び毛づくろいを続ける。
こうして、屋敷に新しい家族が加わった。
まだ名前もない、小さな命。
確かにここにいて、皆が見守っている。
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