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第二話 世界は思ったよりやさしかった

ステータスの光が静かに消えたあと、部屋には再び穏やかな空気が戻ってきた。


相川静はしばらくその場に立ったまま、何も考えずに呼吸を整える。

異世界、屋敷、女神の手紙。

どれも現実味がないはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。


パニックになってもおかしくない状況のはずなのに

胸の内には静かな安堵だけが広がっている。

もしかしたら、これまでの人生で十分すぎるほど

不安や恐怖を味わってきたからかもしれない。


病室で過ごした日々、痛みに耐えた夜々

それらに比べれば、この不思議な状況でさえ

どこか穏やかに感じられた。


「……まずは、家の中、だな」


誰に言うでもなく呟いて、静は部屋を出た。


廊下は広すぎず、狭すぎず

足音が柔らかく吸い込まれるような床材で、歩いていても緊張しない。

壁には控えめな装飾が施されており、窓からは柔らかな光が差し込んでいる。

病院の無機質な廊下とは違う、温かみのある空間だった。


いくつかの扉を順に開けていく。

居間は簡素だが居心地がよく、窓からは外の緑がよく見える。

革張りの椅子が二脚、木製のテーブルが一つ。

派手さはないが、どれも丁寧に作られたものだとわかる。

壁には小さな暖炉があり、冬になればここで火を焚くのだろうと想像できた。


キッチンには見慣れた形の調理台と流しがあり、包丁や鍋も過不足なく揃っている。棚を開けてみると、塩や香辛料

保存された穀物や豆類が整然と並んでいた。


冷たい水も、温かい湯も問題なく出る。

蛇口をひねると、透明な水が勢いよく流れ出した。

水質も良く、飲んでも問題なさそうだ。


風呂場とトイレを確認したとき、静は思わず小さく息を吐いた。


「……ちゃんと、生活できるな」


異世界という言葉から想像していた不便さは、どこにもない。

むしろ日本で暮らしていた頃よりも、無駄が削ぎ落とされているように感じた。

必要なものだけが、必要な場所に、必要なだけ存在している。


浴槽は木製で、深さも十分。

湯を張る仕組みも、魔法なのか技術なのか判別はつかないが

ちゃんと機能している。


トイレも清潔で、水洗式だった。

この世界の技術水準がどの程度なのかはわからないが

少なくともこの屋敷は、快適に暮らせるように設計されている。


寝室も同様だった。

柔らかすぎない寝台、清潔なシーツ、必要最低限の家具。

窓際には小さな机と椅子があり

本を読んだり、何かを書いたりするのに適していた。


クローゼットを開けてみると、何着かの衣服が掛けられている。

サイズを確認すると、どれも自分にぴったりだった。


――生きるために、必要なものだけが、揃っている。


それは贅沢ではないが、決して粗末でもない。

丁寧に、誰かが準備してくれたものだ。


廊下の突き当たり、静は自然と足を止めた。

そこには、他の部屋とは少し雰囲気の違う空間があった。


扉はなく、開けた空間になっている。

部屋というよりは、小さな祠のような印象だった。


部屋の中央に、小さな台座。

その上に、淡く光る結晶のようなものが浮かんでいる。

手のひらに収まるほどの大きさで、内側から柔らかな光を放っていた。

触れることはできるのだろうか、と思ったが、今はやめておいた。


「……屋敷コア、か」


言葉にすると、確信に変わる。


近づくと、視界の端に簡素な情報が浮かんだ。

さっきのステータスと同じように、空中に文字が展開される。


――屋敷コア:稼働中

――安全領域:維持

――管理権限:相川 静


それだけだった。


詳しい説明も、警告もない。

だが、それで十分だった。

このコアが、屋敷全体を管理しているのだろう。

そして、その権限を持っているのは自分だ。


「……後で、ちゃんと見るか」


今はここが安全だとわかればいい。

静はそう判断し、部屋を後にした。

必要になったときに、また向き合えばいい。焦る理由はどこにもない。


次に向かったのは、屋敷の外だった。


玄関の扉は重厚だが、軽く押すだけで開く

扉を開けた瞬間、澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。


土と草と、微かな花の匂い。

病室の消毒液の匂いとは、まるで違う。


屋敷の周囲には、緩やかな起伏のある土地が広がっていた。

果実をつけた樹木、自然に区画された畑、柔らかな草地。


どこか、人の手が入っているようでいて、押しつけがましくない。

自然と人工の境界が曖昧で、調和している。


畑に近づき、静は一つ実った野菜を手に取った。

葉物の野菜で、見た目は小松菜に似ている。

試しに少し力を入れて引き抜く。

抵抗はなく、すっと抜けた。


だが、隣を見れば、同じ場所にまだ若い芽が残っている。

一つ収穫しても、次がすぐに育つ仕組みになっているのだろうか。


「……循環、してるのか」


刈り取れば終わりではない。

使われることを、前提にしている土地。

まるで、誰かがここで生活することを想定して、最初から設計したかのようだ。


さらに歩いてみると、ある地点で、ふと足が止まった。

視界に変化はない。

だが、確かに"何か"が変わった。


「……ここから先は……違うな」


境界線が見えるわけではない。

だが、空気の密度がわずかに変わる。

肌に触れる風の質感が、微妙に異なる。


無意識に、ここが「支配エリア」の内側なのだと理解した。

ステータスに表示されていた、あの言葉の意味が、今になってわかる。


外へ出ようと思えば、出られるだろう。

だが今はその必要を感じなかった。

この内側にいる限り、自分は守られている。


――守られている。


その感覚が何よりも強かった。

誰かに、あるいは何かに、見守られているような安心感。

それは、病室で一人きりで過ごしていたときには、決して得られなかったものだ。


屋敷へ戻る頃には、空がわずかに色を変え始めている。

夕暮れにはまだ早いが、陽の傾きが変わり、光の色が少しだけ柔らかくなっていた。


キッチンで取ってきた野菜を洗い、簡単な料理を作る。

切る音、火の音、立ちのぼる湯気。


それらが、心を現実に引き戻してくれる。

自分の手で何かを作る、という行為が、どこか懐かしかった。


包丁を握る手つきは、以前よりもずっと軽い。

疲れもなければ、震えもない。

若返った身体は、思った以上に自由だった。


出来上がったのは、質素な一皿。

野菜を炒めただけの、本当にシンプルな料理。

だが、口に運んだ瞬間、静は目を細めた。


「……うまい」


派手さはない。だが、身体にすっと染み込むような、やさしい味がする。

素材の味がしっかりと感じられて、噛むたびに甘みが広がる。


病院食とは違う。

自分で作った、自分のための食事。

それだけで、こんなにも満足できるのだと

静は改めて気づいた。


食事を終え、後片付けをしてから寝室へ向かう。

外はすっかり暗くなり、窓の外には星が見え始めている。

こんなに星がよく見える場所で暮らすのは、何年ぶりだろう。


ベッドに腰を下ろし仰向けになると

天井は相変わらず穏やかな色をしていた。

柔らかな布団が、身体を優しく包み込む。


不安がないわけではない。

だが、恐怖も、焦りも、今は感じなかった。

むしろ、心の奥底で、何かが静かに溶けていくような感覚があった。


「……今日はここまでで、いい」


そう呟いて目を閉じる。


遠くで風が木々を揺らす音がする。

まるでこの場所が、静を受け入れているかのようだった。


世界は――

思ったよりも、やさしかった。


明日、また何か新しいことがわかるかもしれない。

だが、今はそれでいい。

焦る必要はない。

ただ、ゆっくりと、この世界に馴染んでいけばいい。


静の意識はそのまま、穏やかな眠りへと沈んでいく。

カクコムでも先行掲載しています。


もし続きが気になって読んでいただける方が居たら下記のページでお願いします。


https://kakuyomu.jp/works/822139842423376578

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