幕間① 冬の終わりに秘める想い(セリナ&フォルティナ)
静寂が夜の屋敷を優しく包み込んでいた。
リビングの暖炉の薪は静かに燃え落ちて、今はただ、赤々とした熾火が室内を淡く、暖かく照らしている。
台所の片付けをすべて終えたセリナは、一人、淹れたての温かいハーブティーのカップを両手で包み込みながら、窓の外を見上げていた。ガラスの向こうには、冬の澄んだ夜空に浮かぶ、美しい満月が静かに輝いている。
(……温かい)
手のひらから伝わる温もりに、セリナはそっと目を細めた。この屋敷で過ごす冬はどこまでも穏やかで、優しかった。毎日、静の隣に立って台所で料理を並んで作り、美味しいねと笑い合う。それは、かつての彼女には想像すらできなかった、奇跡のような日常だった。
ふと、胸の奥から懐かしい記憶が呼び覚まされる。十六歳になった朝、決定的な神託を自分だけが聴くことができず、制度の枠組みから外され、聖女見習いの肩書きを失った日。周囲の優しさを振り切り「自分が何者なのかを……確かめたいんです」と、ただ静かな決意だけを胸に旅立ったあの日々。
その旅路の果て、この空白地帯の屋敷へと導かれ、主である静の前に立った瞬間、セリナの意識には、歪みのない真の神託がはっきりと響き渡った。居場所を失った自分を見つけ、最初から聖女としてではなく、一人のセリナという個人として対等に接し、名前を呼び捨てにしてくれた静。セリナが屋敷で祈る姿を見て、彼女のために屋敷内に専用の礼拝堂をそっと設えてくれたときの救いは、今も胸の奥に深く刻まれている。
(最初は……ただ、底知れない感謝の気持ちだと思っていました)
屋敷に来て最初に静が差し出してくれた、あの温かいスープの味。湯気の向こうにあった静の笑顔。居場所をくれた彼への感謝こそが、自分の祈りのすべてなのだと、ずっと信じていた。
けれどあの秋の日。胸の奥に正体不明の『もやっと』した感覚が小さく芽生えた。決定的だったのはフォルツの街へ買い出しに出かけたときのこと。静がのんびりとした調子で何気なく放った言葉が、今も耳の奥で鮮明に蘇る。
――「なんだかこうして歩いていると……ちょっと、デートみたいだね」
あの一言を聞いた瞬間、心臓を直接揺さぶられたような衝撃が走り、激しく動揺した。それからはもう駄目だった。静に名前を呼ばれるだけで、胸の奥がじんわりと甘く、切なく熱くなる。静が「似合うから」と、手作りの黒晶の髪飾りを自分の髪に優しく直接飾ってくれたあの瞬間、セリナは胸がいっぱいになった。自分を一人の女の子として見てくれたような気がして、その喜びにただ激しく胸を震わせたのだ。
静と親しく接する領主のフォルティナを見て、かつては独占欲のような戸惑いを覚えたこともあった。けれど、ミレイアから「あなたが感じていることは、大切にしていいのよ」と穏やかに語りかけられた言葉と、静の在り方に触れ続ける中で、セリナはその感情を「痛みさえも慈しみとして受け入れ、独占よりも共存を願う」段階へと、大切に育ててきた。
「……静様」
誰もいないリビングで、その名前をそっと呟いてみる。セリナはそっと自分の髪に触れ、そこに留まる黒晶の滑らかな感触を指先で確かめた。
(私はずっと……この方の隣にいたい。この方の健やかな日常を、お側で支え続けたい……)
それは聖女としてではなく、一人の女の子として胸の奥に灯した、まだ名前を呼ぶには少しだけ気恥ずかしい、けれどどこまでも純粋な、淡い恋心の在り方だった。
◆◆◆
同じ夜。フォルツの領主館・執務室
机の上に山積みにされた書類の脇で二つのカップから、静かに芳醇な湯気が立ち上っていた。
薄紫色の美しい髪を揺らし、椅子の背もたれにそっと体を預けたフォルティナは、小さく息を吐き出した。その向かい側では、王都での激務をサブマスターに委任し、自分を支えてくれている親友――フレイが、ふう、と肩を回していた。
「……お疲れ様、ティナ。これで今夜の急ぎの分は終わりね」
「ええ、ありがとうございます、フレイ。本当にあなたがいてくれて助かりました」
フォルティナが領主としての凛とした表情を緩め、親友の前だからこそ、少し砕けた柔らかい笑みを浮かべる。フレイは紅茶を一口すすると、少し悪戯っぽく目を細めた。
「それにしても、静さんのお屋敷での食事会……本当に凄かったわね。あの新作の醤を使った煮込み、思い出すだけでお腹が空いてきちゃう。……でもまさか、あの頑固親父がセレニア連邦最高鍛冶匠のバルドラン本人だったなんて、未だに信じられないけれど」
「ふふ、そうですね。フレイが直剣の灰炉印を見た瞬間の顔、今でも忘れられませんよ?」
「もう、笑わないでよ。心臓が止まるかと思ったんだから」
フレイが口元を尖らせるのを見て、フォルティナは微笑みながら、自らの髪に留まる黒晶の髪飾りへと、そっと無意識に指先を寄せた。窓からの夜光を受けて、深い黒の結晶が静かに美しい光を返している。
始まりはフレイがフォルツの冒険者ギルドでアリアたちと思わぬ再会を果たしたことだった。そこから様々な兆しが集まり、やがて王国側代表としての正式訪問が決定した。あの時、フレイが自分を推薦してくれたからこそ、フォルティナは境界を自ら転移して迎えに来てくれた静の気遣いと、その無自覚な優しさに触れ、誠意を携えて足を踏み入れることができたのだ。
若くして領主の座を継ぎ、常に孤独と重責の中にいたフォルティナにとって、国家級の至宝である結晶を「水不足に役立ててほしい」とスープのお裾分けのような感覚で差し出す静の圧倒的な無欲さは、何よりの衝撃だった。
(あの人は……私を領主としてではなく、ただの一人の人間として、あの安らぎの中に迎え入れてくれた……)
自覚したのは、あの緑の季節。静から届いた「瑠璃星草が咲いた」という連絡に対し、連絡板にその花言葉である『遠くを想う灯り』という文字を魔力で指先から紡ぎかけ、けれど、ハッとしてその文字を一度消して事務的な返信へと書き換えた、あの瞬間。
――それは……今はまだ、胸の奥にしまっておくべき言葉ですね。
そう内心で独白した瞬間に、自分の恋心は明確なものとなった。静が自分のために手作りしてくれたこの髪飾りを、直接髪に飾ってくれたとき――「胸の鼓動が、静さんに聞こえてしまいそう」なほどの高鳴りを感じながら、フォルティナは静の隣にいるセリナへの羨望を静かに受け入れ、彼女との、嫉妬ではない同じ人を大切に想う者同士の静かな連帯感を胸に確立させたのだ。
(セリナさんも……きっと同じ気持ちを、静かに抱えているのでしょうね。だから私は、彼女のことを羨ましいと思いながらも、どうしても嫌いになれない)
「ティナ?」
フレイが心配そうに覗き込んでくる。フォルティナは指先を髪飾りから離し、いつもの聡明な領主の微笑みを浮かべてカップを持ち上げた。
「なんでもありません。……さあ、冷めないうちにいただきましょう。明日もまた、素晴らしい春の準備が待っていますから」
領主として、あの絶対的な陽だまりを全力で守り抜くという強固な使命。けれどそれとは別に一人の女性として、胸の奥にしまって大切に育てている秘めたる言葉。
(いつか……すべての重責を忘れて、ただの一人の女性として、あの人の隣で笑い合えたなら――)
冬の終わりの冷たい夜風が、領主館の窓を小さく揺らしていた。けれど、二人の女性がそれぞれの場所で大切に育てている想いは、来る春の光よりも、ずっと温かく深く、その足元を照らし始めていた。




