第一話 雪の職人と、もっていけ
セレニア自治連邦の職人通りは、冬の冷たい風が吹き抜ける中でも、どこか熱を帯びていた。あちこちの工房から聞こえる金属を叩く音や、木を削る小気味よい響き。石畳の継ぎ目には薄く雪が積もっていたが、行き交う職人たちの熱気で、通りの中心だけは黒い地面が覗いている。
「やっぱり、フォルツの市場とはまた並んでいるものが違って面白いね」
静はいくつかの乾物が入った籠を片手に、穏やかな足取りで歩いていた。その隣には白い息を吐きながらセリナがぴったりと寄り添っている。
「はい、静様。あちらの棚に並んでいる香辛料も、見たことのない色をしています。セレニアは世界中の交易品が集まる場所なのだと、改めて実感しますね」
「にゃ」
静の肩の上で、ツキが短く鳴いた。漆黒の毛並みは冬の澄んだ光を浴びて艶やかに輝き、その額の黒い結晶がちいさく瞬く。ツキは周囲の職人たちを警戒する様子もなく、ただ静の首筋に顔を寄せて温もりを楽しんでいるようだった。
少し後ろからは、アリアを先頭に《ルミナ・ヴェール》の面々が自然な間隔を保ってついてきている。アリアの腕の中では夕日の色をしたあかねが「きゅ」と小さく鳴いて、雪の残る石畳を興味深そうに見下ろしていた。フィアの肩ではハルが「ひゅん」と落ち着かない声を上げ、ミレイアの腕の中のルゥが「くぅ」と喉を鳴らしている。リーナの足元では、マルがぽてぽてと短い足を動かし、石畳の隙間の土を時折「ぽむ」と確かめながら歩いていた。
ふと、通りの一角にある古い工房の前を通りかかったときのことだ。
軒先に吊るされた鉄製の看板が風に揺れて重い音を立てる。その下で、がっしりとした体格のドワーフの老職人が、作業台に向かって熱心に手を動かしていた。木べらで深い色をした液体をかき混ぜるその手元からは、ツンとした独特の発酵臭と、大地の滋味を思わせる濃厚な香りが漂ってくる。
老職人は、静たちの気配に気づくとピタリと手を止めた。深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せ、静の黒い髪と、その肩にいるツキの額の結晶を一瞬だけ見つめる。それから、無骨な手で作業台の脇に置かれていた、手のひらに収まるほどの小さな陶器の壺を掴んだ。
「……ちょうど良かった。もっていけ」
差し出されたのは、火を入れて固められた、鈍い光沢を放つ茶褐色の壺だった。
「え? 俺に、ですか?」
静が足を止め、不思議そうに首を傾げる。老職人はふいっと視線を横へ外し、木べらを乱暴に台へ置きながら、ぶっきらぼうな口調を重ねた。
「味の分かる客には、時折こうして渡して感想を聞くことにしている。前回の仕込みから、少しばかり手を入れて作った冬の新作だ。……気に入らなければ、そこらの溝にでも捨てて構わん」
言葉こそ手厳しいが、手渡された壺の表面は埃一つなく磨かれており、蓋を固定する紐の結び目も極めて正確で丁寧だった。前回、自分の作った調味料を本当に美味しそうに味わってくれた青年への、職人なりの不器用な敬意と好意が、その小さな壺に滲んでいる。
静は、その温もりを受け取るように、両手でそっと壺を包み込んだ。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。……また、ちゃんとした感想を持ってきますね」
「……ふん」
老職人は短く鼻を鳴らし、今度こそ完全にそっぽを向いて作業台の木べらを再び握り直した。その耳の裏が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、後方から静かに見守っていたアリアが気づいた。アリアはそれを誰にも言わなかった。ただ、腕の中のあかねの頭をそっと撫でながら、小さく口元を緩めた。
静たちは老職人の背中に一度深く一礼し、再び穏やかな足取りで職人通りを歩き始めた。
◆◆◆
夜の帳が空白地帯を包み込む頃、屋敷の台所には、心地よい温かさと香ばしい湯気が満ちていた。竈の中で薪がパチパチと爆ぜる音が、屋敷の静寂に柔らかなリズムを与えている。
「静様、火加減はこちらでよろしいですか?」
髪を後ろで緩く結んだセリナが、小さな土鍋の様子を見ながら静に声をかける。
「うん、ありがとう。ちょうどいいよ」
静は作業台の上で、昼間に受け取った老職人の壺を丁寧に開けていた。中に入っていたのは、驚くほど深く澄んだ濃褐色の醤だった。スプーンの先でほんの少しだけ掬い、口に含む。
「……なるほど。前回のものより、少しだけ塩味が角張っていなくて、奥の方に甘みがある。これは冬の根菜にすごく合いそうだ」
「まあ、本当ですか? 私も少し、いただいても……?」
セリナがそっと顔を近づける。静がスプーンの先にちょんと醤を乗せて差し出すと、彼女は小さく口を開いてそれを受け止めた。ふわりと、セリナの表情が和らぐ。
「美味しいです……。濃いのに、後味がとてもすっきりしています」
「でしょ? じゃあ、まずはこの醤を使って、簡単な煮込みにしてみようか。あとご飯に少し混ぜて炊くのも試してみたい」
二人が並んで鍋を囲み、あれこれと試行錯誤を始める。言葉の数は多くない。けれど、静が野菜を切るトントンという規則正しい音と、セリナが小鉢を並べる陶器の触れ合う音が、二人の間の穏やかな空気をそのまま形にしているようだった。
台所の外では、リビングで各自がのんびりとした時間を過ごしていた。
リーナは暖炉脇の長椅子で手帳を開きながら、時折台所から漂ってくる香りに視線を向けていた。
「……また新しい味の記録が増えそうね」
「ぷぅ」
暖炉の前の毛布に陣取っていたマルが、台所から漂ってくる醤の香りを嗅ぎ取ったように顔を上げた。丸い鼻先をひくひくと動かし、「ぷぅ……」と小さく鳴いてから、短い足をぽてぽてと動かして台所の入り口へとやってくる。
「マル、ご飯はもうすぐできるよ」
静が声をかけると、マルは「ぷぷぅー」と一鳴きして、台所の隅にどすんと腰を下ろした。その表情は「分かってる、見てるだけだ」と言いたげだ。
少し遅れて、廊下からトコトコと小さな足音が連なって聞こえてきた。ツキ、あかね、それにルゥが、煮込みの香りに釣られて台所に顔を覗かせている。
「にゃ」
「きゅ」
「くぅ」
三者三様に短く鳴いて、それぞれ台所の入り口で行儀よく待ち始めた。ツキだけは静の足元まで進み、裾をちょいちょいと前足で引っ張る。
「ツキ、分かった分かった。もうすぐできるから」
静が苦笑しながら幼体たちの頭を順番に撫でていく。
「ふふ、みんなで待っていてくれているんですね」
セリナが微笑みながら土鍋の蓋を少し持ち上げると、深く香ばしい湯気が「すっ」と立ち上り、屋敷の天井へと優しく広がっていった。
新しい味の発見は、いつも静かにこうして始まる。
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