第一話 月の導き、静かな夜
夜は静かに満ちていた。
月明かりに照らされた西洋風の屋敷は
辺境には不釣り合いなほど整った佇まいを見せている。
石造りの外壁と装飾的な窓枠は
まるで古い貴族の館のようだった。
周囲の森や草地とは明らかに異質な存在。
それでいて不自然さは感じられない。
まるで最初からそこにあったかのように、風景に溶け込んでいる。
その内部は――
静が暮らすには、あまりにも馴染み深い。
過不足のない広さの居間
柔らかな照明
外気を遮る窓と、床に座っても違和感のない落ち着いた空間
必要なものは揃い、余計なものはない。
静が「生活する」ために整えられた住処だった。
静はソファに腰を下ろし、ツキを膝の上に乗せていた。
ツキは丸くなり、前脚を静の太ももに預けている。
完全に安心しきった様子で身を委ねていた。
時折、小さく呼吸が聞こえる。
規則正しく、穏やかな呼吸。
「……今日も、特に何もなかったな」
独り言のように呟きながら、静はツキの背を撫でる。
柔らかな毛並みに指を滑らせると、ツキは気持ちよさそうに身を伸ばした。
小さな体が、わずかに弛緩する。
「にゃぁ……」
喉を鳴らす音が夜の静寂に溶け込む。
ゴロゴロという、満足の音
それはこの空間が安全であることを示している。
静は自然と力を抜き、毛繕いを続けた。
首元、耳の後ろ、背中――
触れられて心地よい場所をもうすっかり覚えている。
ツキがどこを撫でられると喜ぶのか
どこを触ると嫌がるのか
それは、一緒に暮らす中で自然と学んだことだ。
そのときだった。
ツキの耳が、ぴくりと動いた。
静の手が止まる。
何かを感じ取ったのだろうか。
屋敷の中には他に何もない。
外からも、特に音は聞こえない。
「……?」
ツキはゆっくりと顔を上げ、窓の向こう――
夜空の方向を見つめる。
カーテンの隙間から月の光が淡く差し込んでいた。
満月に近い、明るい月
「にゃ?」
短く、不思議そうな声
まるで何かを確認しているかのような。
「どうした、ツキ」
静が尋ねると
ツキは一度だけこちらを見て、また窓の方を向いた。
「にゃぁ〜……」
分かっているような、分からないような、曖昧な返事。
その一瞬、ツキの中に"像"のようなものが流れ込む。
月
静かな場所
遠くで誰かが歩いている気配
意味を持つ前に曖昧なままほどけて消える。
それは映像ではなく、感覚
言葉にできない、何か
ツキは小さく首を振り、再び静の膝に額を擦りつけた。
まるで、今のは気のせいだったとでも言うように
「……気のせい、か」
静は苦笑しまた撫で始める。
ツキは満足そうに「にゃ……」と鳴き、再び喉を鳴らした。
何事もなかったかのように、夜は元の静けさを取り戻す。
◆
同じ夜
屋敷から離れた森の外れで
セリナは小さな焚き火を前に腰を下ろしていた。
旅に出て、最初の夜
一人で森の中で夜を過ごすのは初めてだった。
不安がないわけではない。だが、引き返すつもりもない。
焚き火の周囲には淡い光の膜が張られている。
聖女見習いとして学んだ、簡易的な結界魔法だ。
完全な防御ではないが
獣や魔物が不用意に近づかない程度の抑止力はある。
光の膜は薄く、透明で、だが確かに存在している。
さらに、焚き火のそばには小さな香袋が吊るされていた。
教会で分け与えられた獣避けの香。
森に入る前に必ず使うよう教えられていたものだ。
微かに、薬草の匂いがする。
一人旅であることをセリナは忘れていない。
膝を抱え、焚き火越しに月を見上げた。
その瞬間――
胸の奥に、静かな響きが落ちてきた。
『……近い』
以前より、ほんの少しだけ澄んでいる。
夢で聞いた声よりも明瞭に聞こえる。
「……」
セリナは息を止め、心を澄ませる。
けれど、それ以上の言葉は続かない。
理由も、説明も与えられなかった。
それでも――
向かうべき"方向"だけは、確かに感じられた。
「……この、先……」
焚き火の向こう、闇の奥
森を越えた先に静かな場所がある。
そんな気がした。
根拠はない、それでも確信がある。
不安は消えない
間違っているかもしれないという思いも、胸に残っている。
もしかしたら、これは錯覚かもしれない。
疲れが見せている幻かもしれない。
それでも
「……確かめたい」
誰かに命じられたわけではない。
ただ、自分がそう思った。
自分の意志で、ここまで来た。
自分の意志で、先へ進む。
セリナは立ち上がり、結界を維持したまま焚き火を整える。
薪を追加し、火が消えないようにする。
夜は深く、月は変わらずそこにあった。
◆
月は、同じ空に浮かんでいる。
異質な屋敷の中で甘える獣と
旅の始まりに立つ少女
まだ線は交わらない
距離は遠く、互いの存在すら知らない。
だが確かに――
静かな導きだけが、同時刻に触れていた。
月の光は、両者を等しく照らしている。
世界は――
また少しだけ、動き始めている。
静かにだが確実に
出会いはまだ先
その兆しはすでに始まっている。
カクコムでも先行掲載しています。
もし続きが気になって読んでいただける方が居たら下記のページでお願いします。
https://kakuyomu.jp/works/822139842423376578




