第三話 名もなき応えの前で
朝の鐘が鳴る少し前、セリナはすでに起きていた。
石造りの教会の一角、聖女見習いに与えられた小さな部屋。
寝台を整え、窓を開け、朝の空気を入れ替える。
それは十年以上変わらない彼女の習慣だった。
窓の外からは、街が目覚め始める音が聞こえてくる
商人の声、荷車の音、遠くで鳴く鳥の声。
「……今日も、いい天気ですね」
独り言のように呟いてセリナは静かに身支度を整える。
白を基調とした質素な衣
派手さはないがいつも清潔で、丁寧に扱われている。
髪を結い、顔を洗い、鏡の前で身なりを確認する。
――それが彼女らしさだった。
祈祷室へ向かう廊下で早番の司祭とすれ違う。
年配の男性で、長年この教会に仕えている。
「おはよう、セリナ。今日も早いね」
「おはようございます。司祭様」
穏やかなやり取り
司祭は彼女の様子を一瞬だけ観察し、柔らかく微笑んだ。
「無理はしていないかい?」
「はい。大丈夫です」
その返答に嘘はない。同時に――すべてを言っているわけでもなかった。
彼女の心の奥底には、誰にも言えない想いがある。
それを表に出すことはない。
祈祷室
静かで、荘厳で、神聖な空気が満ちている場所
祭壇の前に膝をつき、いつものように祈りを捧げる。
作法は正しく言葉も間違っていない。
何度も何度も繰り返してきた祈り。それは、もう体に染み付いている。
それでも、祈りの最後に訪れるはずの"応え"は――
今日もない。
(……今日も、ですね)
胸の奥に残るわずかな空白
それを悟られないよう、セリナは静かに息を整えた。
誰にも気づかれないように、表情を変えずに立ち上がる。
祈祷を終え教会の務めへ向かう。
怪我をした旅人には回復魔法を
疲れ切った信徒には、温かい食事と労りの言葉を
孤児院の子どもたちには、膝を折って目線を合わせる。
「セリナお姉ちゃん、また来てくれる?」
小さな女の子が、不安そうに尋ねる。
「ええ。もちろんです」
その声はいつも優しい。
嘘ではない。本心から、そう思っている。
見守る側の人間は気づいている。
「……本当によくやってくれている」
別室で年配の司祭がぽつりと漏らした。
彼の声には、感謝と、そして少しの心配が混じっている。
「ええ。神託さえ降りれば、誰もが認める聖女なのに」
若い助祭が残念そうに言う。
そこに別の聖女見習いが首を振った。
「神託がなくても……
セリナはもう"聖女"だと思います」
誰も否定しなかった。誰も彼女を蔑んではいない。
むしろ、尊敬している。彼女の働きぶりを見れば、誰もがそう思う。
だからこそ――問題は別のところにあった。
「……ただ」
司祭は言葉を選びながら続ける。
「このまま聖女見習いのまま、年を重ねさせるのは……」
その先は誰も口にしなかった。全員が同じことを考えている。
聖女見習いは、いつまでも見習いではいられない。
いずれ、決断を迫られる時が来る。
夕刻。
セリナは一日の務めを終え、再び祈祷室を訪れていた。
朝よりも疲れている。それを表に出すことはない。
今日は少しだけ――疲れている。
(……大丈夫。まだ、頑張れます)
そう言い聞かせて祭壇の前に立った
その瞬間
空気がわずかに揺れた。
「……?」
耳鳴りのような音
遠くで水が流れるような不確かな感覚
それは、今まで感じたことのないものだった。
セリナは息を呑んだ。
(これが……神託……?)
――いいえ、違う
話に聞いていた"神託"とは明らかに違っていた。
神託はもっと明確で、はっきりとした言葉で伝わると聞いている。
今感じているのは、そうではない。
言葉にならない断片
途切れ、歪み、混じる雑音
『――……み……つ……』
けれど、確かに
"呼ばれている"と感じた。
誰かが、自分を呼んでいる。
「……っ」
膝をつく。頭の奥がじん、と熱を帯びる。
痛いわけではない。しかし確かに何かが伝わってきている。
『――……まだ……早……』
意味は分からない。
けれど、その声に――拒絶はなかった。
むしろ慎重で、壊れ物を扱うような、優しさ。
まるで、傷つけないように、そっと触れているかのような感覚。
次の瞬間、音は消えた。
静まり返った祈祷室
いつもの教会の空気
まるで、今のが幻だったかのように
「……今のは……」
神託だったのか
それとも疲労が生んだ幻だったのか
分からない。
ただ、胸の奥に残る余韻だけが確かだった。
温かく、優しく、そして少しだけ切ない感覚。
(……それでも)
セリナはゆっくりと立ち上がる。
限界が近づいているのは分かっている。
聖女見習いでいられる時間が永遠ではないことも。
教会はいつまでも待ってはくれない。
決断を迫られる日が
いずれ来る。
それでも――
「……明日も、できることを」
そう呟いて彼女は祭壇に一礼した。
誰かのために祈り
誰かに寄り添う
それができる限り、投げ出さない。
今日と同じように、明日も、明後日も。
その姿こそが――
民衆が"本物の聖女"と呼ぶ理由だと
彼女自身はまだ知らない。
そして名も知らぬ観測者は
その健気な魂を、静かに見つめ続けていた。
遠くから、ただ静かに在ることで
世界は――
また少しだけ、動き始めている。
セリナの祈りがやがて誰かと繋がる日を
まだ誰も知らない。
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