閑話 支配エリアの小川と実り
屋敷から少し歩いた先に、細い小川が流れている。
支配エリアの奥、木々がほどよく間引かれ
光と影が穏やかに揺れる場所だ。
風が吹くたびに葉が揺れ、木漏れ日の模様が地面を移動していく。
鳥のさえずりも聞こえ、どこか懐かしい雰囲気がある。
「……こんなところ、前は気づかなかったな」
静は小川の縁に腰を下ろし、水面に指先を浸した。
ひんやりとしているが冷たすぎず、底の小石や水草まではっきりと見える。
水は澄み切っており、流れも穏やか。
こんな場所があったのか、と静は改めて周囲を見回した。
その隣でツキがじっと水の流れを覗き込んでいた。
「にゃ……?」
小さく声を漏らし、耳がぴくりと動く。
流れる影――魚の姿を目で追っているらしい。
尻尾が左右に揺れ、時折前足を伸ばしては引っ込める。
その仕草が、どこか愛らしい。
「魚がいるみたいだね」
静は倉庫から持ち出した簡易的な釣り道具を組み立てた。
元々は非常用の備品だが、こうして使う日が来るとは思っていなかった。
釣竿というよりは、糸と針を組み合わせただけの簡素なものだが
これで十分だろう。
糸を垂らしてしばらくすると水面がわずかに揺れる。何かが針にかかったようだ。
「……来た」
ゆっくりと引き上げる。
引き上げられたのは小ぶりながらも、銀色に光る魚だった。
手のひらに収まるほどの大きさで、鱗が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「にゃっ!?」
ツキが一歩下がり、次の瞬間には前に出る。
警戒と好奇心が忙しなく入れ替わる仕草が、なんとも可笑しい。
魚が跳ねるたびにツキの尻尾もぴくりと揺れた。
目を丸くして、じっと魚を見つめている。
初めて見るものに対する、純粋な興味。
「……食べてみたい?」
静がそう声をかけると、ツキは一瞬きょとんとした後――
「にゃ、にゃっ」
控えめに鳴き前足をそっと伸ばす。
欲しい気持ちは隠せないが、勝手に触れてはいけないと分かっているようだった。
その遠慮がちな態度が、また愛おしい。
「少しだけね」
火を通し、骨を丁寧に取り除いてから、小さく身を分ける。
熱々のまま出すわけにはいかないので
少し冷ましてから差し出すとツキは匂いを確かめ慎重に口にした。
「……」
一瞬の沈黙
それから――
「にゃ~」
明らかに機嫌のいい声。もう一口、と視線で訴えてくる。
目を細め、喉を鳴らし、幸せそうな表情を浮かべている。
「……気に入ったみたいだね」
静は思わず笑った。
日本にいた頃、猫にペットフード以外を与えたことはなかったが――
この世界では、どうやら事情が少し違うらしい。
ツキは魚を食べても問題なさそうだ。
もう少し分けてやると、ツキは夢中で食べる。
小さな口で一生懸命に食べている様子が、どこか微笑ましい。
食後、ツキは突然、静の袖をくいっと引いた。
「どうしたの?」
問いかけると、ツキは返事の代わりにくるりと踵を返す。
何度か振り返りながら、先へ先へと進んでいく。
まるで「ついてきて」と言っているかのように。
「……案内してくれるの?」
「にゃっ」
誇らしげな鳴き声だった。
尻尾を立てて、自信満々に歩いていく。
辿り着いた先には一本の木があった。
枝先には、淡く光を含んだ果実がいくつも実っている。
果実は柔らかな光を放っており、まるで宝石のように美しい。
「これ……」
静が見上げるとツキは胸を張るように座り込んだ。
「にゃ~」
――どう?
そんな声が聞こえた気がした。
まるで、自分が見つけた宝物を見せているかのような、誇らしげな態度。
「ありがとう。いいの、これ?」
問いかけると、ツキは当然のように頷く(ように見えた)。
一度だけ小さく鳴いて、果実を見上げる。
静は一つ果実をもぎ取り、口に含む。果実は瑞々しく
口に含むとやさしい甘さが広がる。
どこか白桃のような、ほのかに懐かしい香りがし
果汁が口の中に広がって、疲れが癒されていくような感覚がある。
「……おいしい」
静がそう呟くと、ツキは満足そうに目を細めた。
喉を鳴らし、尻尾を揺らし、機嫌がいい。
そのとき、ふと気づく
果実を分け合っている間、ツキの周囲の空気がわずかに澄んでいることに。
木漏れ日が集まるように、小さな体の周りに静かな調和が生まれている
――そんな錯覚を覚えた。
光が集まり、風が優しく吹き
まるでツキを中心に世界が穏やかになっているかのような。
気のせいだろう、と静は首を振る。
ツキはただ嬉しそうにしているだけだ。特別なことは何もない。
やがてツキはその場でくるりと回り――
「にゃ、にゃ、にゃ~」
即興のような、不思議な節を口ずさみ始めた。
歌というよりは鼻歌に近い。その音色は不思議と心地よい。
「……歌ってる?」
問いかけるとツキはさらに上機嫌になる。
声を大きくし、調子を変え、まるで自分の歌を披露しているかのように
小川のせせらぎと柔らかな声
支配エリアに穏やかな音が満ちていく。
世界の外では、誰かが異変に気づき
誰かが疑念を抱き
誰かがこの場所を探している。
けれど、このひとときだけは――
小さな川と、実りの香りと、寄り添う温もりがすべてだった。
静はツキの頭をそっと撫でる。
柔らかな毛並みが、手のひらに心地よい。
「……また来ようか」
「にゃ~」
それは確かな肯定だった。
目を細め、喉を鳴らし、満足そうな顔をしている。
支配エリアの片隅で
今日もまた、静かな幸福が育っていく。
一人と一匹。それだけの小さな世界
その小さな世界は、確かに温かかった。
静は果実をもう一つもぎ取り、ツキと半分ずつ分け合う。
世界は――
今日も、やさしかった。
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