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灰の塔

作者: 有栖川 幽蘭

夏の午後は、それ自体がひとつの病であった。外では、油蝉が世界が溶けるのではないかと思うほどに、じいじいと鳴き続けている。部屋の空気は、熱と湿気を含んで、まるでぬるま湯のように肌に纏わりつく。私は、そんな中で、ただ茫然と、書けぬ原稿を前に座っていた。


思考は、夏の熱で腐った粘土のように、捏ねようとしても形にならない。時間だけが、蝉の声に溶けて、意味もなく流れ去ってゆく。


このままでは、私という存在も、この部屋の空気と共に腐敗してしまうだろう。その恐怖から逃れるために、私は机の引き出しから、一本の葉巻を取り出した。


それは、遥か異国の地からやってきた、死んだ植物の葉を、幾重にも固く巻き上げただけのものだ。しかし、私にとっては、無為な時間に杭を打つための、唯一の儀式の道具であった。


私は、その黒褐色の、油を含んだように鈍く光る肌を、指先でゆっくりと撫でた。乾燥したタバコの葉が発する、甘く、そして土臭い香りが、微かに鼻腔をくすぐる。専用の刃物でその端を切り落とし、蝋燭の炎で、ゆっくりと、丹念に火を点ける。焦げる葉の匂いが、部屋の空気に混じり合う。


一口、吸い込む。


濃厚で、少しばかり苦味のある煙が、口の中に広がり、そして肺腑には入れず、そのまま静かに吐き出す。紫がかった白い煙は、意思を持った生き物のように、ゆらり、と立ち上り、渦を巻き、そして、部屋の淀んだ光の中へと拡散してゆく。


私は、その煙が描く、束の間の、そして二度と同じ形を描くことのない模様を、ただ黙って見つめていた。それは、私の頭の中で生まれては消えてゆく、言葉にならなかった思考の残像のようであった。


蝉の声が、煙の幕の向こう側で、少しだけ遠のいたように感じられる。


私の意識は、やがて、葉巻の先端に灯る、その一点の火へと集中していった。そして、そこから生まれ、少しずつ、しかし確実に、その長さを増してゆく「灰」へと。


それは、驚くほどに、白い灰だった。燃え尽きた生命の残骸であるというのに、そこには何の悲壮感もなく、まるで陶器のような、静謐な白さだけがあった。その表面には、元の葉脈の名残である、繊細な模様が、奇跡のように残されている。


私は、その灰の塔を、どこまで長く伸ばせるか、という、自分だけの、密やかで無意味な遊戯に没頭し始めた。


葉巻を持つ手を、微動だにさせない。呼吸を、殺す。煙を吸い込む時も、吐き出す時も、その振動が、この脆い建築物に伝わらぬよう、細心の注意を払う。私の世界は、この長さ一寸にも満たない、白い灰の塔と、それを崩壊させようとする重力との、緊迫した対峙の中に、凝縮されていった。


それは、私の人生そのものの、滑稽なまでの縮図であった。意味もなく積み上げ、いつか必ず崩れると知りながら、それでも、その束の間の均衡の美しさに、心を奪われる。


灰は、もう、一寸を超えただろうか。白い塔は、自らの重みに耐えかねるように、僅かに、しかし確かに、傾ぎ始めていた。危うい。その危うさだけが、今の私を生かしていた。


その、瞬間だった。


私の意に反して、指先が、ほんの僅かに、震えた。


白い塔は、音もなく、根本から折れた。ゆっくりと落下し、灰皿の底で、ばらばらと、無残な塵の山に変わった。


ああ、と、声にならない声が、私の喉から漏れた。


後に残されたのは、あっけないほどの虚無感と、短くなった葉巻の、無骨な断面だけだった。あれほど私を緊張させた、あの白く美しい塔は、もうどこにもない。


私は、もう一度、短くなった葉巻を口にくわえ、煙を吸い込んだ。それは、先程までとは全く違う、ただ苦く、乾いた味がした。儀式は、終わったのだ。


蝉は、変わらず鳴き続けている。しかし、私の心には、あの灰の塔が崩れる時の、あの絶対的な静寂だけが、いつまでも響き渡っていた。

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