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心を凍らせた女伯爵は年上艦長に深く愛される

作者: 橘 優月

短編扱いにしたかったので編集し直しました。

連載のものと同一内容です。

お間違えのないように。

それではずずいっとどうぞ。

第一話 月下の再会


スーザン・ステュアート伯爵ことセアラはただうつろな瞳でその場に立っていた。夜の闇の元での明るい夜会風景。いつ来ても不愉快な集まり。


 口を開けば誰かの噂か政治的陰謀を計る会話ばかり。表面上は害の無い会話でも隠喩と暗喩をこめた会話には腹黒い思惑がひしめいていた。


 虚飾に満ちた世界。


 ぺちゃくちゃと話すつもりはセアラには毛頭無かった。もう少しいれば、面目は立つだろう。それまでテラスで過ごそう。


 セアラはシンプルなイブニングドレスを翻してテラスへと出た。


 初夏のさわやかな風がブルーグレーの髪をくすぐる。


 だが、セアラの心はそんな風に出会っても動くことは無かった。


 いや、彼女の心はもう無くなっていたのかもしれない。


 セアラは月明かりの下で漫然と時を過ごす。


 逃げる様にして主星を出て、この惑星に来て一年以上も経つ。あれから自分は何をしてきたのかあまり思い出せない。


 昔のことすらおぼろげになってしまった。


 だだ、周りの者を悲しませないためにだけ生きる生。


 もし、自分が天涯孤独の身であったならば躊躇無く自殺していただろう、とセアラは思う。


 ひとえに生き長らえているのは異母妹と祖母の哀願ゆえだ。


 愛するものが死ぬこと、残されるものの悲しみは充分過ぎるほど知っているから。


 元々、この命は、自分は間違ったものなのだ。


 出来ることと言えば、彼女達の役に立つことだけ。それが自分の生かされている理由だ。


 生きながら心を失って屍となってしまった自分はさぞ醜い人間だろう、と思う。


 だが、また心を取り戻してあの苦痛を味わうつもりは無かった。


 鋭く心に突き刺さった血が噴出するような痛みはいつしか鈍い痛みへと変化していた。その鈍い痛みも今は時折、思い出した様に出てくるだけで自分の心はもう何も感じない。


 心、というものがあるとすればきっとどこかに置き忘れてしまったのだろう。


 感じる感情は脳が機械的に処理しているだけに過ぎないのだ。


 いつもの様に心理を分析していると、ふいに人の気配がした。


 セアラは振り向いて機械的に挨拶をしようとした口を閉じてしまった。


「久しぶりだな」


 純白の宇宙軍服に身を包んだ男が言った。


 突然の再会にセアラはどう対処してよいのかわからなくなってしまっていた。


「こんばんは。ミスター・・・」


「ただのヴァクスでいい」


 ヴァクスと名乗った男がそうさえぎる。


 黒い髪に黒い瞳。その癖、肌は健康的な白さを保っている。がっしりとした体にどこか横柄な雰囲気を漂わせているところもまったく変わっていない。


「ヴァクスも・・・来ているとは思いもしませんでした。いつ戻られたのですか?」


 無表情な顔でセアラはいつものように尋ねた。彼は今や宇宙艦の若き艦長を勤めている。地上にいる時のほうが短いのだ。だから会う時はいつもそう尋ねてしまっていた。


「先月に」


 男は短く答えると持っていたグラスを手渡す。そのオレンジジュースの入ったグラスにセアラはやや困った様に言う。


「私、もう二十歳を越えているのですが」


「では次回はカクテルを持参しよう」


 ヴァクスは微笑んで答える。いつもの有無を言わせない微笑。セアラはグラスに口をつける。オレンジの甘酸っぱい味が口の中に広がる。


 ジュースってこんな味がしたのかしら?


 ぼんやりとセアラは思う。


 心を無くしてからというもの何かを感じるということはなかった。


 別にセアラはその事に関しては何も思っていなかった。


 心などあってはただ痛むだけ。無いほうがましというもの。


 ふとセアラは思い出して言葉をつむぐ。


「今度はこの惑星の仕事なのですか?」


 彼の住まいは確か主星にあったはずだ。


「いや、たまたま休暇をここに選んだだけだ」


 そうですか、と無表情に答えてセアラは宝石をあしらった腕時計を見た。もうそろそろ帰ってもいい頃合だ。


 セアラは顔を上げて別れを告げる。


「私はこれで失礼します。それではご縁がありましたならまたの機会に」


 セアラは優雅に腰を引いてお辞儀をする。


 ヴァクスは貴婦人への挨拶としてセアラの手を取ると甲に唇をつける。だが、名残惜しそうにその手を持つ。


「もう帰るのか? 久しぶりに仲間に会ったというのに」


「明日は早くにおもちゃ屋さんによって家に帰るんです。だから早寝をしないと」


 どことなくうれしそうな表情を浮かべてセアラが答える。


 その表情を懐かしそうにヴァクスは見つめる。かつてセアラの顔をいろどったさまざまな表情を思い出すかのように。


「もう子供でもいるのか? まだ独身だと聞いたが?」


 ヴァクスはセアラの顔を見つめながら問う。セアラは小さく首を振る。


「甥っ子ですの。私の小さなプリンスにおもちゃを買って帰るんです」


 小さなプリンスと言ったところでまたセアラの無表情に近い顔に暖かな表情が浮かぶ。


「君は子供好きだからな。それではその幸運なプリンスによろしく言っておいてくれ」


 ヴァクスはそう言うとようやくセアラの手を離した。セアラは軽く会釈してテラスから部屋へ戻る。


 その優雅な後ろ姿をヴァクスはただ見つめていた。




彼とセアラの付き合いは深い。




十歳のセアラがはじめて航宙した折の宇宙艦に一番下っ端軍人として十七歳のヴァクスは乗っていた。そこで痛ましいあの大惨事にあった。地球人が外宇宙へ飛び出してから最大の宇宙艦事故。


 その折にセアラは目の前で実父をうしない、事故のショックから言語障害に陥った。


 ヴァクスはそんなセアラを気にかけて時折、回復センターに足を運んでいた。


 艦内をかけまわっていた幼いセアラとヴァクスは仲がよかったのだ。


 もっとも事故前後の彼女の記憶は無きに等しい。その後、ヴァクスが次の航宙中の間にセアラは退院していた。


 なんでも再婚した母親の元に戻ったと聞いてヴァクスは訪ねることはやめた。


 それから長い月日がたって二人は再び出会った。


 セアラが十八才、ヴァクスは二十五才の時だ。最年少で艦長就任した同僚のシーフォートの副官としてその宇宙艦に乗っていた。セアラは趣味のフィールドワークのために航宙中だった。


 彼女はもう大学にスキップしていて優秀な博物学研究者になろうとしていた。


 その時のセアラはまるで心を凍らせたような少女だった。感情を無くした人形のようだった。


 その冷たい言動にまわりのものはアイスレディと呼んでいたほどだ。そこでまた二人は事件に遭遇した。コロニーの反乱に伝染病の蔓延。


 大きな事件が二つも重なってしまった。


 だが、そのセアラの冷静な言動が事件の鎮圧に導いたのも確かだった。


 それからまた二人は何事も無かったかのように別れた。親しい仲ではあっても親密な感情のやり取りは二人の間には無かった。


 別れに少しの困惑も悲しみも覚えることは無かった。


 出会えば言葉を交わし、別れるときは何事も無かったかのように別れる。それが二人の後腐れの無い自由な関係だった。


 次に主星の学研都市で二人はまた会った。その時、セアラの変わりようにヴァクスは驚いた。


 あれほど凍てついた表情浮かべていたセアラはまるでつき物が落ちたかのように明るく振舞い、笑っていたのだった。まるで失っていた子供時代を取り戻すかのようにやんちゃなおてんば娘と変わっていた。


 それが元々のセアラの性格だと幼い頃を知っているヴァクスには理解できた。


 そしてその横にはいつも年下の恋人がいた。彼がセアラの心の扉を開いたのだ、とヴァクスは理解した。その時、心の中に何かがよぎったがヴァクスは無視した。


 久しぶりの地上勤務を勤めながら主星でヴァクスはセアラの元同僚として接して見守っていた。


 そのセアラの恋の雲行きが怪しくなってきた頃、再びヴァクスは宇宙へと戻った。


 戻ってきてみるとセアラは姿を消していた。家出をしてまで学研都市の大学院に入ったセアラが何故、出ていったのかヴァクスは不思議に思い、それとなく調べた。


 セアラの初恋といえる恋心はその年下の恋人の無残な行動によってずたずたにひきさかれたのだった。婚約までしておいて捨てる様に破棄した男をヴァクスは殴ってやりたい衝動に駆られた。


 だが、そんな事をしても彼女の心の傷は元に戻らない。


 セアラの事がただ気になった。


 一旦、傷ついた心は敏感になる。その脆さ故に心を閉ざしたのに心を開いた途端手のひらを返したような態度に出会ったのだ。彼女の心の傷はいかばかりかと慮られた。


 セアラの親友のシーフォートの妻に聞いてみるとセアラは父方の祖母の家を継いで伯爵となったようだった。そばに行ってやりたかったが、行って自分が何をしたらいいのかわからずヴァクスはただそれを聞いて納得するしかなかった。


 宇宙に戻った後も時折、伝え聞く若き女伯爵セアラの事を聞いては心を安心させた。


 彼女は何事も自分を責める癖がある。自分を責めて自分を傷つけなければいいとヴァクスは心配していたのだ。


 そして今回、たまたま最後の寄港地がセアラの今の住まいの第4惑星と聞いてヴァクスは考える事もなくその惑星に降り立っていた。


 そういういきさつを経て今夜、四度目のセアラと再会だった。


 彼女の表情は昔の様に冷たい氷のようでその姿は今にも崩れそうなひびの入ったガラス細工の様だった。冷たさの中にはかなげな雰囲気をたたえた姿にヴァクスは元恋人がセアラにどれほど傷を残したのか実感したのだった。セアラが一人になったのを見てすかさずヴァクスは声をかけたのだった。


 心配していたよりも案外大丈夫そうなセアラにいささか安堵したが、それでもどこかうつろなセアラを見てヴァクスは哀しい思いに駆られた。


 あれほど輝いて笑顔を浮かべていた女性がこれほどまでになってしまうとは。


 だが、小さな甥の事を話すときのセアラに明るかった時の面影が残っているのを見てヴァクスはある決心をした。


 今度こそ自分がセアラの隣にいよう、と。


 今度は自分がセアラの心の扉を開けるのだ、と。後で地上勤務に切り替えてもらう様に頼んでおこうとヴァクスは思いながらセアラを見送ったのだった。




夜会の翌日、セアラはショッピング街を歩いていた。


ムービングロードもついていることはいるがセアラは自分の足で歩くほうが好きだった。  両手には大きな紙袋がいくつもぶら下がっている。それでももう一軒と思ってセアラはお気に入りのおもちゃ屋へ入った。ここは素朴な木細工のおもちゃが数多くそろっているのだ。


シンプルなのにどこか暖かみがあってセアラはここのおもちゃが好きだった。


紙袋を床において物色する。


 ふいに後ろから聞きなれた声がかかった。


 ばっと振り向く。


「ヴァクス。一体、どうして?」


セアラの顔に小さな驚きが浮かぶ。


「俺もシーフォートの息子に何か買っていこうかと思ってな」


それを聞いてセアラは納得して頷く。ヴァクスと共に数年前に解決した事件にはもう一人心強い仲間がいた。宇宙軍始まって以来、最年少で艦長就任したシーフォートだ。その彼の息子はもう二才になるはずだ。やんちゃざかりの幼い男の子を想像してセアラがくすりと微笑みをもらす。


子供のことを考えているとき自分が驚くほど安らいだ顔をしていることを本人は知らない。自分には心と言うものもなく、安らぐと言うこともないのだと思いこんでいたからだ。


「私も何かプレゼントしますわ。一緒に贈ってくださいます?」


セアラが愛らしく小首を傾げて問う。


それなら、とヴァクスは言う。


「一緒に持って行ったらいいだろう?」


その言葉にセアラはあっけにとられる。


「私は家に戻らないと行けませんし、それに休暇中を邪魔するわけには・・・」


「休暇中だから、だ。まず君の家に一緒に戻り、その後シーフォートの息子に会いに出かければいい。ついでに美しいと評判の君の領地を見てみたいと思っていたしな」


最後は付け足すようにしてヴァクスが答える。相変わらずの強引な展開にセアラは苦笑いをする。


「相変わらず強引なんですね」


「これでも人望厚いんだがな」


ヴァクスが笑って答える。その笑みを見たセアラの中に暖かいものが広がった。鉛の様に重たかった気持がどことなく軽い気持になる。


セアラは頷いて微笑んだ。


「そういうことでしたら、私の領地へお招きしますわ。私のほうもこの荷物を持ってくださる方がいてくださると助かりますから」


床の紙袋を差してセアラが言う。


「二人で持ちきれるか謎だな」


ヴァクスが考え込みながら答える。


その答えにセアラは不思議に思う。


「俺も君の様に小さなプリンスには甘いのさ」


ヴァクスがウィンクして答えてセアラはとうとう噴出した。


「あの勇猛果敢なヴァクス大佐が、親馬鹿だとは存じ上げませんでしたわ」


「親馬鹿なのはお互い様だろう? さぁ、話しこんでいないでプレゼントを探すぞ」


ヴァクスが意味も無く腕まくりをしておもちゃを物色し出した。セアラはその姿を何か暖かい思いで見つめた。久しぶりに笑った気がする。自分に笑いというものが残っているとは思いもしなかった。ヴァクスといるとなんだか暖かいひだまりの元にいるような気がする。遠い昔に忘れてしまった何かを取り戻せるような気がしてセアラはならなかった。


しばらくぼうっとつったっていたセアラもやがてヴァクスに負けじとおもちゃを物色し出した。山のような紙袋を抱えてハイヤーに乗り込んだときはヴァクスもセアラも汗をかいていた。乗り込んでセアラはふぅ、と息を吐く。


「こんなにすごい買い物をしたのは初めてです」


 ハンカチをとって汗を拭きながらセアラが言う。


「俺もだ。一生分のおもちゃを買った気がするな」


 ヴァクスが手で額の汗をぬぐうのを見てセアラはハンカチをヴァクスの額にあてた。


「悪いな」


 ヴァクスが言ってセアラのハンカチを受け取る。汗を拭くヴァクスを見ながらセアラは現在の滞在地を尋ねる。ヴァクスは当然の様に官舎の場所を答える。ハイヤーは官舎によってヴァクスの荷物を積み込むと今度はセアラの領地へと向かった。街中を抜け、高速道路をひた走る。二人ともただ黙っていた。


 ふいにセアラが尋ねる。


「ミスター・シーフォートは今、どちらに?」


 ヴァクスは第二主星と答える。その答えを聞いてセアラは安堵する。やはり主星にはあまり行きたくない。行けばいい思いはしないだろうから・・・。


殺風景な景色はやがて牧歌的な風景に変わる。見なれた景色にセアラはもう少しで領地だと説明する。それから三時間きっかりとかかってやっとハイヤーは領地へと入っていく。


「やっと着くんだな」


ずっと座りっぱなしで腰が痛くなったヴァクスはやれやれと体を動かした。


「やっと、という表現が当てはまるかどうかはわからないのですけれど・・・。


あと一時間はかかります」


 その答えを聞いてヴァクスは小さくうめいた。


「君はとんでもない土地持ちらしいな」


「私個人の持ち物ではありませんわ。この中にも村がいくつかありますし、伯爵家のものは一族の共有ですから」


 優雅に答えるセアラをヴァクスはまじまじと見てしまう。


「あのアイスレディがここまでたおやかな女伯爵になるとはな。別の名を考えないといけないな」


「恐ろしいほどの礼儀作法のレッスンのたまものです」


 澄まして答えるセアラだったが、実際は大変だったのだろうとヴァクスは思う。


いくらセアラが飲みこみの早い、冷静な女性だとしても平民の暮らしをずっと続けてきたのだ。


急に貴族社会になじめるわけが無い。ヴァクス自身、昇進するにしたがって貴族社会と付き合わざるを得なくなって結構苦労をした。


 そんな苦労を微塵もみせないセアラをヴァクスは尊敬のまなざしで見てしまう。


 じっと自分を見つめるヴァクスに気付いたセアラが何か、と尋ねる。


 いや、とヴァクスがどこか照れたような表情をして否定する。


 それから二人はまた押し黙る。


 長い時間を経てようやく屋敷の前でハイヤーが止まった。待ちうけていたかのように使用人が出てきてドアを開ける。執事も迎えに出てくる。セアラはすらりと足を伸ばして車から降りる。


「トランクにお土産が入っているの。早く出してくれるかしら?」


 毎回同じ台詞を聞かされている執事が目で合図をすると控えていた数人の使用人が動いて荷物を運び出す。


「そのおもちゃの袋は私が持っていくわ」


 すかさずセアラが言って山のような紙袋を受け取る。


 それでも両手に余ってセアラは思案する。


 ヴァクスはようやく車から降りられてしばし開放感を味わっていたが、思案するセアラを見て残ったおもちゃの袋を手にする。


「また一労働だな」


「少なくともおもちゃをぶらさげててくてく歩くことにはならないと思いますけれど?」


 ヴァクスが面白そうに言ったのに応えてセアラも調子に乗って答える。


「だといいがな」


 ヴァクスは目の前にでんとそびえたっている大邸宅を見上げて呟く。


「ヴァクス?」


 先に歩いていたセアラに名を呼ばれてヴァクスは我に返ると後に続いた。




第二話 ひだまり




真っ先にセアラは祖母の元へ向かった。当主の座を降りたものの実際は一族の首長だからだ。礼儀は守らねばならない。


 もっともセアラにとっては優しい祖母に挨拶するのは義務ではなかった。


 紙袋を置いてドアをノックする。


「お祖母様。セアラです。ただいま帰りました」


 ドアの向こうから「お入り」と威厳のある声がかかってセアラが入る。銀髪の老婦人が大きな安楽椅子に座っていた。


「相変わらず早い帰りね。もっとゆっくり楽しんでくればいいのに」


 セアラの祖母、前伯爵エドウィナはセアラに向かって大きく手を広げた。セアラは黙って抱きしめてもらう。愛情に薄い環境に育ったセアラにとってこういった仕草はなかなかなれない。だが、むげに断って悲しませることはしたくなかった。せめて自分が生きている間は誰も悲しませたくは無かった。悲しい思いをするのは自分だけで十分だ。長い抱擁を終えて祖母がようやくセアラを離す。


それから祖母はセアラの後ろに控えていたヴァクスに目を移す。


「ミスター・ヴァクス艦長ですね。お目にかかれて光栄です。腰を痛めていまして、座ったままのご挨拶をお許しくださいませ」


 祖母がヴァクスに向かって挨拶の言葉を述べる。


 驚いているヴァクスに向かってエドウィナは言葉を継ぐ。


「あなたのような有名な方は誰でも知っていますよ。まさかセアラが連れてくるとは思いませんでしたが」


 エドウィナはセアラに目で問う。


「私の元、同僚です。その昔、パパ・・・いえ、父が最後に乗っていた宇宙艦に乗り込んでいらした宇宙軍人なんです。その頃からの知り合いなんです」


 言いにくそうにセアラが答える。


 父の最後の事はあまり祖母に聞かせたくは無かった。


 あまりにも衝撃的な最後だったから。息子のリチャードの事を聞いたエドウィナの目が大きく開く。


 セアラとよく似たディープブルーの瞳だ。


「リチャードの事を知っていらっしゃるの?」


 あの、とためらいがちにセアラが言う。


「ヴァクスはしばらく逗留なさると思いますので、その話は後にしませんか? 長いドライブで彼も疲れていますし」


 言ってセアラは願うような目でヴァクスを見る。それを理解したヴァクスが小さく頷く。


「よければ彼女のプリンスにプレゼントを渡したいのですが? よろしいですか?」


 セアラが甥っ子に山のようなプレゼントを贈るのを唯一の楽しみであることを知っているエドウィナは即座に頷いた。


「午後のお茶会にまたお会いしましょう」


 気品あふれる笑みでエドウィナが承諾すると二人は会釈をして部屋を退出した。


長い廊下を歩きながらセアラはヴァクスに礼を言う。


「父のこと、出来れば最後の時の事だけは話さないでくださいます?」


 セアラが頼りなげに頼むとヴァクスは力強く頷く。


「愛するものの最後を語るにはあまりにも衝撃的な最後かもしれないから・・・な」


 ヴァクスはその時のことを頭に浮かべながら答える。


 あの時、大惨事が起きたとき、艦内は混乱した。


 必死に乗客を誘導しながらヴァクスはセアラ親子を探していた。生き残ったものが食堂に集まっても彼らの姿は無かった。生き残った乗組員で行方不明者を探すことになった。割り当てられた区画はちょうどセアラ親子の部屋も含まれていた。あまりのことに麻痺した心を奮わせてヴァクスはその部屋に向かった。真空状態の部屋で宇宙服を着た幼いセアラは父親の横たわる遺体の側に座りこんでいた。宇宙服を身につける時間が無かった彼はすでに絶命していた。


 あの時からまさにセアラの心は壊れてしまったのだ。それからここまで来るのになんと時間のかかったことか。


 だが、折角戻った心も心無い扱いでまた昔に戻ってしまっていた。表向きはなんともない様子でもそれが普通でないことはヴァクスにはよく分かっていた。伊達に何年も付き合っていたわけではない。


 ある一室のドアを勢いよく開ける。セアラは思いっきり顔の表情を崩したかと思うと部屋に入ってベビーベッドに近づいた。


 控えていた使用人が下がる。


 幼い幼児が柵につかまって立ち上がる。


「セー」


 とたどたどしく声を発する。


「エセル。私の小さなプリンス。いい子にしてた? あなたにプレゼントを買ってきたのよ」


 セアラは荷物を置くと幼子を抱き上げた。


 そしてその柔らかいほっぺに頬をくっつける。


 幼子はだぁーと言いながらセアラの髪をもてあそぶ。


 昔、異様に長かった髪はいつのまにか短くなっていた。


 肩にとどくか届かないほどの髪を引っ張られるがセアラは一向に構わないらしかった。


 ひとしきり甥っ子と戯れるとセアラは床の絨毯の上のクッションの上にエセルを座らせる。


 それから紙袋からおもちゃの箱をとりだす作業に移る。


 くりくりとした大きく丸いグレーの瞳がセアラの後ろに立っているヴァクスを捉えた。興味深い瞳で見られてヴァクスも笑みを浮かべた。ヴァクスは身をかがめると幼子に近づいた。


「こんにちは。セアラの小さなプリンス君。私はヴァクスだ」


 おどけた様子で挨拶する。エセルがヴァクスに手を差し出す。ヴァクスはその小さな紅葉のような手を柔らかく握り締めながらセアラを見る。


「この子の名は?」


「エセルバート。エセルバート・ステュアートですわ。私達はエセルと呼んでいます」


 本来なら称号などやたら長い名前がついているのだが、貴族の名前のつけられ方を知っているヴァクスにいちいち教える必要も無いのでごく簡単に教える。


「エセル。いい名だ。そうか、君はエセルというのか。しばらく逗留させてもらってもいいかな?」


 まるで幼子がヴァクスの言葉を理解しているかのように彼は言葉をかける。エセルはそれに対して意味も無いような声を上げてきゃっきゃと喜ぶ。


 喜んでいたエセルがふいに体を浮かす。


 立ちあがって動き出そうとする。


 ヴァクスが手を離してやるとよちよちと部屋の中を歩き出す。


「あ、エセル。怪我しないでね」


 セアラが気遣わしげな声をかけるとエセルはよちよちとセアラの元へ向かう。セアラはその甥っ子を笑って抱きとめる。


「エセルはどんなおもちゃが好きかしらー?」


 ひざの上に座らせて並べておいたおもちゃの山を差す。エセルは身を乗り出すと宇宙艦のおもちゃを手にした。ほう、とヴァクスは感心した声を出す。


「この子はもう宇宙軍に入るつもりらしいな」


 さぁ?、とセアラが答える。


「少なくともこの子が大きくなって納得してくれたら私の養子になってくれるはずなんですけれど」


 養子?、とヴァクスは尋ねる。


 ええ、とセアラは答える。


「私には子供がいませんから」


 セアラは短くそれだけを答える。


 ヴァクスは喉まででかかった問いを飲みこんだ。


 君は結婚しないのか? という問いを。恋人と別れてまだ一年しか経たないうちにそれを聞くのは酷と言うものだろう。いずれその心を変えてみせようと思っていても。まずはセアラの心の鍵をはずすことからはじめなければならない。その前に愛だ、恋だといっても始まらない。ヴァクスはそう自分に言い聞かせると目の前のエセルと遊ぶことに没頭した。




お茶会の時間となって二人はエセルを使用人に預けた。エセルの母親は現在、首都で夫と共に社交シーズンを過ごしている。夫のアベルはセアラのいとこにあたる。どうせ離れなくてはならないのならば、曾祖母や叔母のいる所がいいだろう、とあえてこの屋敷にいるのだ。もっとも週末となれば、夫婦そろって一人息子に会いにすっとんでくる。


 名残惜しそうにエセルの柔らかいほっぺにチユっとキスをするとセアラはようやく部屋を後にした。


 一緒にお茶会の場所に向かいながらヴァクスは思った。


 心を凍らせてしまったセアラもエセルには心を開くようだ。


 エセルと遊んでいるときのセアラの表情は今までに見なかった程の幸せそうな表情が浮かんでいた。


 この小さな命がセアラの心を救っているのを見てヴァクスは神に感謝したくなった。


 それから確信した。


 彼女には暖かい家庭が必要なのだと。


 彼女がそれを持てればきっとセアラの顔は幸せな表情で一杯になるに違いない。


 先ほど浮かんでいた表情を守ってやりたい気持がこみ上げる。


 お茶会でヴァクスはセアラの父親の話をすることになった。


 出来るだけ、覚えているとおりにまた衝撃的な部分は伏せながらヴァクスは話した。


 その話を聞いていたエドウィナは目に涙を浮かべながら聞いていた。


 セアラはというと可も無く不可も無く、ただ、優雅に微笑を浮かべて聞いているだけだった。その心の中は誰にも分からなかった。




セアラは誰に対しても優しかった。


いたわりの心で持って接していた。だが、そこにセアラの本当の心は無いように見うけられた。


 演じている、そういう言葉がぴったりとくるような態度だった。


 それからディナーまでヴァクスは一人部屋でくつろいだ。


 エセルは昼寝の途中だったし、セアラは仕事に戻ったからだ。


 一日ほど滞在してシーフォートの元へ向かうはずだったが、エドウィナにひどく気に入られてヴァクスはもうしばらく滞在することになった。


 セアラはエセルと接するほか、顔を見せる必要のあるとき以外は書斎にこもって仕事に没頭していた。


 エドウィナに言わせればただサインをすればいいとの事だったが、その割には部屋にこもっている時間が長すぎた。ヴァクスがそれを彼女に指摘すると彼女は悲しそうな顔をして言ったのだった。


「あの子はまだひどく心が傷ついているのですよ。ここにきた当初から何も変わっていません。優しい子ですが、それも本当の気持から接してくれているのではないことも私達にはわかっています。けれど、今の私達にはどうしてやればいいのかわからないのです。ただあの子を見守ってやるしかないのです・・・」


 エドウィナはそこで言葉を切った。無念そうな表情を浮かべている。


「彼女には深い愛情が必要なのですよ。レディ・セアラはずっと愛情に不足した環境で育ってきていますから。それと強い忍耐力が必要なのでしょう」


 考え込みながらヴァクスが答えるとエドウィナはひどく驚いた様子で彼を見た。


「あの子をよく知っているのですね。あの子はどんな生活をしてきたのです? あの子は私達に何も話してくれないのですよ」


 ヴァクスは問われるままにセアラの事を話した。


 初めての出会いから四度にわたる出会いの出来事を。


「彼女は再び心を凍らせてしまった。心が決して無いわけではないのです。彼女は昔、自分には心が無いといっていましたがね。だが、エセルに接するときの彼女の顔を見れば彼女に心が存在していることは一目でわかります。なんの打算も無い幼い子の愛情に彼女は心を開いている。きっとそれが鍵なのです・・・」


 ヴァクスはそう言って話を締めくくった。


 エドウィナは感慨深げにヴァクスを見る。


「本当にあなたのような人がセアラの側にいてくれたらどんなにいいでしょう・・・。そうすればきっとあの子は立ち直れるはずなのです」


 残念そうにエドウィナは言う。宇宙艦艦長であるヴァクスは長く地上にいるわけには行かないのだとエドウィナはわかっていた。


 ヴァクスはそれを聞いて安心させる様に微笑む。


「しばらく休暇です。それに地上勤務に変えてもらうように申請をしてあります」


 エドウィナが再び驚いてヴァクスを見ると彼は黙ってただ頷く。


 エドウィナも理解したように頷いた。


「あの子をひっぱり出してやってくださいな。きっと仕事はもう終っているはずです。実際の仕事はアベルがしているわけですから」


 ヴァクスはそれを聞いて了承するとエドウィナの側を離れてセアラの書斎へと向かった。


コンコン、とノックする。


どうぞ、と柔らかい声が聞こえてヴァクスはドアを開けた。


ヴァクスが部屋に入るとセアラは電話をしていた。


いまどき珍しい映像を伴わないタイプだ。ヴァクスを認めるとちょっと待って、といた風にセアラが手で合図し、ヴァクスは興味深げにその様子を見ていた。


セアラはただ電話の相手に相槌をうつ。


ややしばらくしてセアラは丁寧に言葉を発した。


「おしゃっている事はわかりますが、私はここを離れるつもりはありませんし、何よりも仕事がありますから。お申し出は大変ありがたいのですが、お断りします。ええ、申し訳ありません。それでは」


 セアラはそう言ってようやく受話器を置く。


「お待たせしてすみません。何かご用ですか?」


 セアラが問う。


 ヴァクスが問いたげな視線を向けたのを見てセアラがしかたなさそうにセアラが答える。


「ドクター・ロレンスなのです。研究員として来てくれないかと何度か誘われていまして・・・。さっきの電話もそうなのです。お断り申し上げているのに納得していただけなくて」


 その名を聞いてヴァクスは自分の周りの人間がこれほど有名人で固まっていることにやや驚く。セアラの口からもれた名は宇宙的で一番有名な植物学者の名だった。


「すごいじゃないか。君は元々研究者になる予定だったのだろう? 博士号もすでにもっているのだからそれを無駄にすることは無いと俺は思うがね」


 それを聞いてセアラが電話口で話した同じ台詞を答える。


「今は伯爵なのです。ここを守ることが私の仕事なのです。それに研究はどこでだって出来ますわ。研究所はここからずっと遠い第二主星系第三惑星なのです。そんなところに行ってしまったらエセルと会えなくなりますもの」


 その口調がどこかすねたような口調でヴァクスは笑ってしまう。


「本当に君はあのプリンスにメロメロなのだな」


 もちろんです、とセアラは強く答える。


「あんなにかわいい天使はこの世に二人といませんわ」


「その天使君と一緒にピクニックでもどうかな? 俺はまだ君の領地を案内してもらっていないのだが?」


 その言葉にセアラは慌てて謝る。


「私としたらお客様を放っていたなんて。すぐにご案内します」


 セアラががたんと椅子から立ちあがる。


「慌てなくてもいい。まず、そうだな。君の言っているその野草の群生地でも案内してもらおうか。きっと自然の美しいところなんだろう?」


 ええ、とセアラの顔にまたうれしそうな表情が浮かぶ。


 君の心を捉えているのは純真無垢なエセルともの言わぬ植物なのだな・・・。


 ヴァクスは心の中で呟く。


 逃げている、とセアラを知らぬものならばそういうだろう。


 だが、セアラを知っているヴァクスにはそう思うことは出来なかった。元々、愛情薄い環境で育った人間が人に心を開けることがおかしいのだ。


 それでもセアラは懸命に周りの者を慈しみ、守ろうとする。


 それだけで充分彼女はがんばっているといえる。


「行ってもよいのですが、馬に乗れますか? そこはかなり遠いし、車で行くことは出来ませんからああ、でもエセルはどうしたらいいのかしら?」


 最後は独り言の様に言う。


「子供の一人ぐらい俺が連れていくよ」


 ヴァクスが助け舟を出すとセアラの顔がぱぁっと輝いた。


 ヴァクスはその表情に見とれてしまう。


「お願いできますか? それでは、私は準備をしてきますわ」


 セアラがうれしそうに部屋を出て行く。スキップでもしそうな勢いの後ろ姿をヴァクスは微笑ましく見守もっていた。




三人は馬に乗ってピクニックへ出かけた。


ある林にまで来るとセアラは馬を下りて手綱を木につなぐ。


「ここからは徒歩で行くんです。間違えて踏んでしまっては行けないから」


 セアラがヴァクスの手からエセルを受け取る。ヴァクスはすらりと馬から下りると手馴れた手つきで手綱をつなぐ。再び、エセルを受け取って片手に抱く。セアラを先頭にして林の中を突き進む。


いくらか歩いたところでふいに視界が開けた。


「ここです。あの辺りとあの辺りが群生地です」


 セアラが指差して教えるがヴァクスにはただののっぱらにしか見えない。


 その光景を見てヴァクスがうーん、とうなる。


 どうかしました?、とセアラが尋ねる。


「君には宝の山に見えるだろうが、こう草ばかりでは何が何だかわからないな」


 せめて花でも咲いていれば、とヴァクスは呟く。


「野草ですからね。そう派手な花は咲きませんよ。でも・・・」


 セアラが手招きしてヴァクスがついていく。


 セアラは群生地に注意深く入ると一つの草を指し示す。


「この草はもうじき花が咲きますね。蕾がついているでしょう? 淡いピンク色の小さな花が咲くはずです」


 セアラは次々に野草の説明をする。


 セアラの熱心な植物学講座を受けてヴァクスもやや興味が出てきた。


 一見同じような草に見えても細かく見れば違いがあるのだ。


「セー」


 唐突にエセルが言葉を発した。


 え?、と二人でエセルを見る。


「どうかしたの? エセル? ここは面白くない?」


 セアラが残念そうに問う。


 エセルは同じ言葉を発して手を伸ばす。


「ブルーローズ・・・か?」


 目ざとくエセルが指し示したものをヴァクスが見つける。驚いてセアラが視線を動かす。


「まさか・・・? あの花は暗闇の中でしか育たないのに」


 言いながらエセルが指し示した花を見る。


 近づいてそっと調べる。


「似ているけれど・・・。違うわ。あの花はこんな光の中では育たないし、こんなに小さなものではないもの。でも、亜種かもしれない。こんな花が咲いているだなんて知らなかったわ・・・」


 ほとんど独り言に近い状態でセアラが話す。


「セー」


 とまたエセルが言う。


 エセルの元に戻ると違うのよ、とセアラが訂正する。


「これはきっと新しいお花よ。そうね、今度はエセルの名前をつけてもらおうかしら?」


 ヴァクスが指摘したブルーローズ。それはセアラがかつての事件の際に発見した幻の花と言われる植物だった。その植物の成分が伝染病の特効薬として必要だったのだ。彼女の博識な知識と行動によってそれは発見され、人々の命が救われた。そこで発見者の名前を取ってセアラの名が学名に取りこまれたのだ。その花はまるで青い薔薇のようであったから俗称としてブルーローズが当てはめられた。その花は今、大量生産できるように品種改良を加えられてどこの花屋でも見られるようになった。もっとも、その花の一番の魅力である発光する性質は失われてしまったが、それでも人々に愛されている花の一つだった。セアラは時々、エセルに植物の話を聞かせていたらしい。


きっとその時のセアラの顔はうれしそうに輝いていたに違いない。


 セアラの顔をヴァクスはまじまじと見つめる。


 ヴァクスの視線が自分の顔にとどまっているのに気付いてセアラが不思議そうな顔をする。


 ヴァクスは照れ隠しに花に近づくと手に触れてもてあそぶ。


「お気に入りのようですね」


 セアラも隣に来てしゃがみこむ。


 ふっとヴァクスは顔を横に向ける。


「君の髪にかざってやりたいところだが、貴重な資料を摘み取るわけにはいかないな・・・」


 知っていました?、とセアラがユーモアたっぷりの瞳をして言う。


「調査には採集調査もあるということを。標本も立派な資料ですのよ?」


 ディープブルーの瞳にヴァクスは吸いこまれそうになる。


 ヴァクスの腕の中からエセルが身を乗り出す。


 意識をエセルに向けることを忘れていたヴァクスの手からエセルが落ちる。


 大して地面と離れていなかったし、野草がクッションになっていて大事には至らなかったが、セアラとヴァクスは大いに慌てた。落ちたエセルのほうは一時、泣きもせずに新種の花に手を伸ばそうとする。ヴァクスが慌てて引き離して抱き上げると今度は大きな声で泣き出す。ヴァクスが困った様にセアラを見る。


「彼はこの標本が欲しいらしい。主任研究員の君としてはどうするかい?」


「摘むしかないですね。それにほら、良く見たらいくつか蕾がありますから一輪摘んでも支障は無いでしょう」


 甥にはめっぽう甘いセアラが判断を下すと、ヴァクスが大きな手で一輪摘み取る。


 セアラは泣いているエセルに花を見せる。


「ほら、エセルのお花よ。だから、もう泣かないでね」


 優しく言い聞かすセアラの声は滑らかで心地よい。エセルは調子よく泣き止むと花に手を伸ばす。


「君は将来優秀な研究者にもなるな。天は二物を与えたもうた」


 そんなエセルの様子を見ていたヴァクスが言う。


「ほんとですわね。将来が楽しみですわ」


 まるで我が子を見るかのように目を細めてセアラが答える。


「そろそろ、食事にでもしようか。ここにつったっていては優秀な研究者に全部の標本を作らされることになるぞ」


 ヴァクスが可笑しそうに言ってセアラは頷いた。


 三人は群生地を離れて差し障りの無い場所にレジャーシートを広げてくつろぐ。


 屋敷のお抱えシェフが作ったサンドイッチにヴァクスが遠慮無くかぶりつく。エセルはセアラに離乳食を食べさせてもらう。


 二人が満腹になった頃にセアラもお情け程度にサンドイッチを口に運ぶ。


 静かな時間が流れる。


 不思議とセアラの心は安らいでいた。恋人と一緒のときでさえ、感じなかった安らぎをセアラは感じていた。


 ここ数日の自分は摩訶不思議だ。笑ってみたり、ユーモアを発揮したり・・・。何よりもこれほど他人と言葉を交わしたことはここ最近ではない。ヴァクスの側にいると何もかもがいいほうに変わっていく様だった。


 エセルがいつのまにかヴァクスの腕の中で眠っていた。


 ふふ、とセアラは微笑む。微笑んで思わず、口に手をやる。


「どうした?」


 ヴァクスに尋ねられてセアラは考え込みながら答える。


「こうして笑っているのがとても不思議で・・・。自分に笑いがあるなんて信じられなくて・・・」


「だが、実際に笑っている。エセルと一緒の時の君は昔のやんちゃな君とまったく変わらない表情をしているよ。君にもちゃんとハートがあるってことだ」


 空いた片手の人差し指でセアラの胸を指し示す。


「心・・・なんてとうの昔に置き忘れてしまったと思っていました・・・。でも、こんな風に暖かい気持になれるならまた心を取り戻してもいいかな、って思います」


 セアラが微笑む。


 ヴァクスも微笑む。


 セアラの心を暖かいものが満たしていく。


 枯れていた泉に水が溢れ出すかのように感情が戻ってくる。


 ふふ、とまたセアラは微笑う。


「なんだか家族みたい。ここにいるのは赤の他人なのに」


 まったく生まれも環境も違う三人がこうして穏やかな時間を過ごしている。まるで本当の家族の様でセアラはうれしくなる。セアラはエセルの柔らかい頬を軽くつつく。幸せそうなセアラの顔に見とれながらヴァクスは思わず、言っていた。


「家族を・・・。家族を作ってみないか?」


 言ってからヴァクスははっと口を閉ざした。


 セアラがきょとんとした顔つきになる。


「だから、その・・・。俺なら君に家族を作ってあげられる、と思ったのだが・・・」


 慌てて言いつくろってさらに墓穴を掘ったことに気付いたヴァクスは小さく自分に悪態をつく。


「その、勘違いしないで欲しい。いわゆる性的欲求を満たすために言ったのではなくて、純粋に君に本当の家族を作ってあげたいと思ったのだ」


 聞いていたセアラの顔が赤くなったり困ったような顔つきになる。だが、最後には思いっきり微笑まれてヴァクスは戸惑った。


「それはプロポーズ、と言うことかしら?」


 微笑んで言ってからセアラは慌てて口に手を当てる。


「いやだ、私ったら。冗談ですよね? 今の」


「あいにく、冗談ではないんだ」


 真剣な顔で言われてセアラは息を呑む。


「今の君に人を愛することは出来ないかもしれない。けれど、家族を愛することはできるだろう? 今の君にはそれが必要で俺はそれを提供できる。別に特別な女もいないし、十分経済能力もある。何よりも、君の事を誰よりも知っている赤の他人の男だ。別に俺を愛して欲しいといっているわけじゃない。ただ、君に早く立ち直って欲しいと思っているだけなんだ。もっともこんなに早くこの申し出をするつもりはなかったんだがな・・・。もっと慎重に事を運ぶつもりだったんだ」


 ヴァクスが顔をしかめて言ってセアラは思わずぷっと吹き出した。


「無理ですよ。ヴァクスに計画性と言うものを求めては。強引で横柄なのがヴァクスなのですから」


「これでもずいぶん洗練されたはずなんだが」


 さらにヴァクスが顔をしかめてセアラは声を立てて笑い出した。


 その可笑しそうな笑い声はヴァクスの心を充分にとろけさせた。ひとしきり笑い終えるとセアラはヴァクスの顔を見て頬をほんのりと染める。ひどく言いにくそうに口を開く。


「その、本当に・・・冗談でなければ、そのお申し出をお受けしたいと思いますが・・・。って、私もどうしてこんなに簡単に承諾しているのかわからないので、理由を聞かないでくださいね。ただ、ヴァクスの隣にいるとまるで日だまりの下にいるような気がするんです。ヴァクスと私と私の子供がいてこんな気持にいつでもなれるのなら、それもいいかな、と思うのです」


 言っているうちにひどく恥ずかしくなって首筋まで真っ赤にさせるとセアラはうつむいてしまう。ヴァクスがうつむいたセアラのこめかみにそっと唇をつける。


 それから耳元で優しくささやく。


「ありがとう」


 いつものぞんざいな男っぽいヴァクスで接してもらえればともかく、こんなに魅力的な男性として接せられてはセアラもどうしようもない。


 いよいよセアラはゆでタコのようになる。


「君は自分がかわいいと思ったことは無いんだろうね」


 ふう、とため息が聞こえてセアラは顔を上げた。


 自分がかわいい、などと元恋人を除けば言われたためしがない。


「今の君はとても愛らしい少女のようだ。こんな妻を持てる俺はきっと果報ものだよ」


妻、という言葉を聞いてふっとセアラの瞳がかげる。結婚すると言って捨てられてしまったことがふっと頭をよぎる。


 それを見たヴァクスが強く言う。


「俺は決して君を見捨てたりはしない。君に家族を作ってあげたい。それまでは嫌だと言っても離れない。君は今、申し出を受けたのだから」


 有無を言わさぬ声で言われてセアラは安心したように微笑む。


「いつものヴァクスらしい言葉を聞いて安心しました。これからよろしくお願いします」


 律儀にセアラはぺこりと頭を下げる。


 ヴァクスは頭をのけぞらせると大声を上げて笑い出す。


 眠っていたエセルがびっくりして目を覚ましてしまう。


「相変わらず、律儀で俺のほうこそ安心したよ。律儀でやんちゃなじゃじゃ馬お嬢さんで本当に安心したよ」


 肩を震わせながらヴァクスが言う。


 失礼ですね、とセアラが憤慨した様子で言う。


「私のほうもずいぶん洗練されたのですけれど?」


 だが、とヴァクスはセアラの瞳をとらえる。セアラはその魅力的な黒い瞳に魔法がかかったかのように吸いこまれて見つめてしまう。


「お互い、中身はまったく変化なし、ってところじゃないか?」


 セアラの顔にまた笑いが浮かぶ。


「まったく。同感ですわ」


 ヴー、とエセルが声を出す。


 まぁ、とセアラはうれしそうにエセルを覗き込む。


「ヴァクスを呼んだのね。エセルは本当にいい子ね。大好きよ」


 セアラはそう言って頬にチユっとキスをする。


 ヴァクスの顔になんともいえない表情が浮かぶ。


「君にキスされる彼はとても幸せものだと言えるな」


 やや不機嫌そうな声で呟いてしまってヴァクスははっと口を閉じる。ヴァクスはこのおしゃべりな口をどうにかしたかった。顔を上げたセアラの瞳が面白そうにきらめく。


「その、今ので妬いたわけでは・・・あるんだが」


 言いにくそうに言ってヴァクスが頬を染める。セアラは身を乗り出すとヴァクスの頬にチユっとキスをする。


「これで、ご満足?」


「せめて口にしてくれるとうれしかったんだが」


 言ってヴァクスが顔を寄せる。


 ヴァクスの唇がセアラのそれにそっと触れる。あまりにも柔らかい感触にセアラは意外な気持を持つ。 体の奥からずっと沈めてしまった感情がこみ上げてきた。懐かしい何かが戻ってきた。


推し量ったのようにヴァクスがセアラの頬を両手ではさんで引き寄せる。同時に鈍い音がしてヴァクスがはっと動きを止めた。


 二人が慌てて身を引く。


 またもエセルがヴァクスの腕から落っこちていた。


 今度は大きな泣き声が辺りに響く。


「エセル。悪かった。泣かないでくれ」


「エセルー。ごめんなさい。泣かないでー」


 二人同時に情けない声を上げて抱き上げようとして顔を見合わせる。


「私達、結構いいチームが組めそうですわね」


 うれしそうな表情をしてセアラが言う。


 ああ、とうれしい予感を胸の中にしまってヴァクスも頷いた。


 セアラの凍った心は日だまりの中で再び、ゆるゆると溶け始めていた。




第三話 おとぎ話




ふいにまた恐怖がこみ上げてセアラは動きを止めてしまった。


ヴァクスの申し出を受けて数日が経っていた。


それからというものセアラの心は恐怖に縮みあがっていた。


申し出を受けたその夜、自分の家庭事情を思い出したセアラはヴァクスに申し出を断りに行った。


愛のない家庭を作ることの愚かさを自分はよく知っている。それに人殺しの自分は子供を持つ資格などない。


そう言いに行った。


だが、反対にヴァクスに言いくるめられてしまった。


愛しているとまでいわれてしまえば、逆らうことなど出来なかった。


なぜなら自分も愛をほしがっていたからだ。


それからセアラはもうひとつの恐怖を抱えることとなった。


ヴァクスは信じられないほどいい恋人振りを発揮していた。


いつだって優しい瞳で愛を語り、抱きしめ、キスをプレゼントしてくれる。


夢のような恋人ぶりにセアラの心は舞い上がることはしばしばだった。


だが、その後で言い様に知れない恐怖に襲われた。


人の心は移ろいやすい。


まして永遠の愛などないのだ。


かつての恋人にそれを痛いほど思い知らされた。


優しく自分を包んでいた腕はいつしかよそよそしくなり、最後には飛び込んでいっても冷たく突き放されるのだ。


セアラはいつヴァクスから拒絶されるかと思うと胃がおかしくなるほどの恐怖を覚えていた。


これ以上、人に拒絶されるのは耐えられない。


以前のように心を凍らせていればそれもなんとも無かったに違いない。


だが、ヴァクスと過ごす数日のうちに頑なな心はあっというまに溶けてしまっていた。


今や、セアラは時限爆弾を抱えているようなものだった。


傷つきやすい脆い心を抱えて途方にくれていた。


だからこそ、ヴァクスを愛することに躊躇していたのかもしれない。


自分が愛し始めてしまったら次に拒絶されたときにもう対処の仕様が無いからだ。


「セアラ?」


目の前で食事をしていたヴァクスが気遣わしげな声をかけた。


「食事が進んでいない様だが、食欲が無いのか?」


ヴァクスの声にセアラははっと心の底から意識を戻した。


「少し・・・。久しぶりに宇宙艦に乗ったので酔ってしまったのかもしれない」


そうか、とヴァクスは納得する。


「後でメディカルルームへ寄っていこう。食べられなければ、そのままにしておくといい」


ええ、とセアラは弱々しく微笑んでナイフとフォークを置いた。


今、二人は宇宙艦に乗っている。


ヴァクスの申し出を受けた翌日からセアラとヴァクスは結婚することで生じる問題を解決すべく話し合った。


伯爵の仕事をこなさなければならないセアラと宇宙に戻らなければならないヴァクス。


どうやって結婚できるのか、などということを話し合った。


いくつかの問題についてはヴァクスの機転でクリアできたが、一番の問題が立ちふさがっていた。


仮にセアラが仕事を代理人に任せたとしてもヴァクスはセアラを仕事場の宇宙へは連れていかないと言っていた。


一方、セアラは夫婦が離れ離れに暮らすなどと言うことは考えられなかった。


艦長夫人ともなれば、宇宙艦の中で艦長と共にこなさなければならない役目もある。


それを放棄するつもりはセアラにはさらさらなかった。


だから、なんとしてでも着いていくと言い張った。


二人はそこで意見が真っ二つに分かれてしまい、話がストップしてしまった。


膠着状態が続いてヴァクスはシーフォートに相談しようとセアラに持ちかけた。


ヴァクスの同僚のシーフォートはすでに二度も結婚をしている。


ここはひとつ先輩に聞いてみるのが一番だとセアラも思って現在に至る。


この宇宙艦はシーフォートの住まいの第二主星に向かっていた。


途中何度かワープ航行をしてたどり着くはずだ。


その途中にも考えたくないことも待っていることがまたセアラには心重かった。


心を取り戻した途端、一気に嫌なことばかりがセアラの前に立ちふさがっていた。


艦長や士官達との食事をようやく終えてセアラは立ちあがった。


宇宙艦の乗客と艦長達は一種の共同体になる。


故に、規律を守り、共に生活することが命の保証となるのだ。


そして乗客と艦長達は食事を共にすることが決まりとなっていた。


ヴァクスが慣れた手つきでセアラをエスコートする。


「大丈夫か? 顔色がかなり悪いが?」


ヴァクスの心配そうな声にセアラは大丈夫、と答える。


「きっと一日か二日すれば慣れるわ。一応、メディカルルームへ連れていってくださる?」


ヴァクスに連れられてセアラはメディカルルームへと向かった。


一週間が過ぎた頃、宇宙艦はあるポイントで運転を停止させた。


部屋にアナウンスが流れる。


いよいよ、三つ目の恐怖を目の前にしなくてはならなくなった。


一つ目は愛のない家庭を築くかも知れない恐怖。二つ目は愛して裏切られる恐怖。


そして今三つ目の恐怖が目の前で待ちかまえていた。


セアラはひたすら自分の心を落ち着けさせることに終始した。


アナウンスを聞いたヴァクスがやってくる。


「俺はノーフォーク号に行くが、君はどうする?」


「未来の艦長夫人としては行くべきでしょうね・・・」


硬い声でセアラは答えた。


「無理はしないほうがいい。宇宙艦に乗ってからずっと調子が悪いようだから」


セアラは無理やり微笑むとヴァクスの腕に手をかける。


「エスコートしてくださるでしょう?」


ヴァクスはかけられた手を軽く叩いて一緒に部屋を出る。


これから宇宙暦始まって以来の大惨事となったノーフォーク号での黙祷が始まるのだ。


今から14年前、ノーフォーク号は原因不明の事故で半分以上が大破した。


乗客乗員のほとんどが死んだ。


セアラの父親もその一人だ。


その事故のすさまじさは宇宙暦始まって以来といわれ、宇宙に残されたノーフォーク号は宇宙の安全を守る戒めとなった。


途中このポントを通過する宇宙艦は必ず、停止して残存するノーフォーク号にて黙祷をささげることとなっていた。


二人は宇宙スーツを身につけて希望する乗客と士官達と共にノーフォーク号に向かった。


セアラにとって耐えがたい儀式が始まる。


デッキで長々としたノーフォーク号の説明を聞いてようやく死者への黙祷が始まる。


それが終るとしばらく見学時間が与えられる。


その間に見て回れるところを見て回る人間もいれば、デッキの壁に鎮魂のメッセージを書き込む人間もいる。


壁は至るところに鎮魂のメッセージで埋められており、空間にはカードの類がふわふわと浮いている。


ヴァクスは初航宙での思い出に思いをはせながらメッセージを書き込む。


セアラはただそれをじっと石でも見るかのようにただ見つめる。


何も感じないようにすべての感覚を閉じようとする。


セアラにとって長い耐えがたい時間がようやく終る。


次の希望者と入れ替わりにセアラ達は宇宙艦へ戻る。


戻って宇宙スーツを脱いでセアラはようやく詰めていた息をゆっくり吐いた。


ふらつく足で部屋に必死で戻る。


ヴァクスがしっかりとセアラを抱きかかえていた。


部屋に戻ってセアラは力なくソファに座りこむ。


目の前の窓を模したウィンドウに宇宙空間が広がっている。


セアラはじっとその画面を見つめる。


立ちあがってふらふらと画面に近づく。


あの宇宙のどこかにパパは永遠にさまよっている。


若いあの時の姿のままで。


私があの時、はしゃがなければ、パパは死なずにすんだのに。


いいえ、それよりもそこに私がいなければよかったのだ。


自分さえ存在しなければ、パパはきっと高名な植物学者として大成していたに違いない。


まざまざとあの事故の様子が思い出される。


突然鳴り響く警報。


アナウンスが流れてパパは宇宙スーツを取り出す。


それを見てはしゃく自分。


何が起こっているか一向に分かっていなかった。


ただもの珍しい事に遭遇して興奮すらしていた。


はしゃぐ私に必死でパパは宇宙スーツを着せてくれた。


ようやく着終わったところに衝撃が部屋を突きぬけた。


一瞬の出来事だった。


パパの目が見開いたかと思うとそのまま倒れてしまった。


部屋の明かりが消えて、私はパパにすがりついた。


けれど、パパはもう動かなかった。


何度呼んでももう動いてくれなかった。


それからずっと暗闇の中に動かないパパと一緒にいた。


気がついたときはもうメディカルルームで寝かされていた。


それからの記憶は飛び飛びにしかない。


宇宙葬が行われて誰かがパパにさよならを言ってあげなさいと言っていた。


だけど、私は言えなかった。


さよならできなかった。


私は声を忘れてしまっていたから何も言えなかった。


ただ黙ってじっと見送るしかなかった。


冷たい、凍てつく宇宙空間の中でパパは今もさまよっている。


突然立ち切られた時間を止めたまま。


それなのに私はのうのうとこうして生きている。


どうしてあんなに正しい人が死んで、この汚れた自分が生きているのか。


不思議でならない。


あの時、死すべきは自分だったのに。


セアラは心のずっと奥深くに潜っていた。


目の前の宇宙空間を眺めたまま心は14年前に戻っていた。


ふいに力強く抱きしめられてセアラの意識は現実に戻った。


ヴァクスが名前を呼んでいる。


「ヴァクス・・・?」


ぼんやりとした頭で彼の名を呼ぶ。


「しっかりするんだ。意識をしっかり持て」


「意識・・・?」


ヴァクスのオーデコロンの匂いが鼻を刺激して次第に意識がクリアになっていく。


ごめんなさい、とセアラは小さく呟く。


「心配をかけてしまって。もう、大丈夫だから。ここに来ると一度は必ず、意識が飛んでしまうの。もう、大丈夫」


あとはずっとつきまとっている悪夢に耐えるだけのこと


しばらく見ていなかった夢だが、今日は何をしてでも見てしまうだろう。


「疲れたから、もう眠るわ。悪いけれど、食事は一人で行ってくださる?」


ヴァクスから離れるとセアラは棚から薬瓶を取り出す。


ヴァクスの視線を感じてセアラは解説する。


「睡眠薬なの。悪い夢を見る前に熟睡してしまえば、見る確率が少なくなるから。でも軽いものだから、いくら飲んでも自殺は出来ないの。安心して」


セアラは瓶から錠剤を取り出すと水と一緒に飲もうとする。


いつから?、とヴァクスが尋ねる。


さぁ?、とセアラは答える。


「自分のお小遣いで買えるようになってから愛用していると思うわ。


悪夢はそれ以前から見ているけれど。体に悪いことは知ってるの。


でも、そうでもなければ眠れないんですもの」


明るい声のトーンでセアラが言う。


ヴァクスが近づいてきたかと思うとセアラの手から錠剤を取り上げてしまう。


「今日は俺がついているから、薬など飲まなくていい。


薬を飲むと癖になる。水は気分が落ち着くのなら飲めばいい」


ヴァクスは薬瓶も取り上げてしまう。


「ヴァクス。あなたにそんなことする権利など無いはずよ。これは私の問題で私が解決すべきことよ」


「それがわかっているなら話は早い。落ち着いたら解決する糸口を探そう」


だから、とセアラがいらだたしげに口を開く。


ヴァクスはひょいっと抱き上げるとセアラをベッドの上に寝かす。


自分はその脇に座ってセアラの頭を撫でる。


「君の問題は俺の問題で、俺の問題は君の問題でもある。俺達は家族になる約束をしたんだ。


一人で抱える事は無い」


ヴァクスは優しく安心させる様にセアラの額を撫でながら言い聞かせる。


ヴァクスの低い声と大きな手がセアラの心に久しぶりに安らぎをもたらす。


セアラの目から涙が一筋流れる。


ヴァクスはそっとその涙を指ですくいあげる。


「あまり優しくされたら癖になってしまう・・・」


セアラが弱々しく言って微笑む。


「薬中毒になるよりはましだ。大いに癖になってくれたまえ」


ヴァクスがおどけて答える。


セアラはくすり、と笑みを漏らす。


「しばらくそこにいてね」


セアラが願うとヴァクスは力強く頷く。


「当分、君の悪夢が退治できるまで側にいるよ」


ヴァクスの目が一段と優しい光を放ち、セアラは安心してまぶたを閉じる。


こんな生活がいつまでも続けばいいのに・・・。


夢の中に落ちていきながらセアラはそう思った。




時が止まったかのような部屋。


無機質な部屋。


無機質な物体となってしまったパパと無機質な心の私。


冷たい暗闇だけが辺りを制する。


セアラは呼びかける。


声無き声で呼びかける。


パパ・・・、お話の続き読んでよ・・・。


パパ・・・動いてよ・・・。




「セアラッ。セアラッ」


激しく体を揺さぶられてセアラは目を開けた。


これで何度目だろう?


こうしてヴァクスに起こされるのは。


あれから何度も悪夢にうなされてしまったセアラを見かねてヴァクスはセアラの部屋に居座ってしまった。


彼自身はソファで眠る日々を送っていた。


悪夢にうなされるたびにヴァクスがセアラを救い出す。


セアラは体を起こすとヴァクスに身を預ける。


大きな腕がセアラを受け止める。


たった数週間のうちにヴァクスはセアラの心の中にまで居座ってしまった。


慣れてしまった抱きしめられる感覚。


抱きしめられるたびに伝わってくる体温がセアラの冷たい心を暖めてくれる。


いっそ、すべてを告白して全部を預けてしまいたくなる。


だが、どうしてもセアラには出来なかった。


心まで預けてしまえばまた裏切られたときに傷ついてしまう。


信頼したいのに怖くて出来ない。


いつ突き放されるかという恐怖を抱いてしまう毎日。


日々、悩み続けるセアラをヴァクスは静かに見守っていた。


セアラのせめぎあう心は彼女の瞳にも仕草にもどこにでも現れていた。


そして彼女はそれと向き合おうとしていた。


だからヴァクスは精一杯セアラを抱きしめ、声をかけた。


いつでも側にいると言うメッセージを送りつづけていた。


愛している、という言葉はともすれば安っぽくなってしまう。


それよりも態度で気持を伝えることが一番大切だとヴァクスには思えたのだ。


ヴァクスは怯えるセアラを抱きしめては髪に唇を当てる。


「怖い・・・」


ふいにセアラが言葉を漏らした。


「大丈夫だ・・・」


ヴァクスが安心させるような声で言葉をかける。


「大丈夫だ。俺がここにいる以上は、君は安全だ」


ヴァクスの声がセアラの心を安堵に導く。


「いいのかしら?」


セアラがぽつりと言う。


何が?、とヴァクスが尋ねる。


「私だけ安全で。私だけ生きていて。私だけが守られて。そんな資格あるのかしら?」


セアラはずっと心に秘めていた疑問をついに口にした。


自分ではどう考えても答えはノーだった。


自分はもっと危険な目にあわないといけない。


守られてはいけない。


生きていてはいけない。


自分で自分の存在を否定する思考から逃げられなかった。


いいのだ、とヴァクスは答える。


「生きていてはいけない命などない。少なくとも君の場合はそうなる。一度、君のパパの側に立って考えてみたことがあるかい?」


「わからないわ。考えてみているとは思うけれど、私はパパじゃないもの」


セアラが考え込むように言ってヴァクスは言葉を継ぐ。


「では、エセルが君の立場で君がパパの立場だとしよう。あの事故と同じ事態が起こったと考えてごらん。


君はどう行動する?」


言われてセアラは即答していた。


「エセルを守るわ」


「それはどうして?」


「エセルを愛しているからよ。すくなくとも大事に思っているわ。だから、エセルを死なせたくはない。私がパパの様に死んでもエセルさえ助かれば・・・」


「それが君のパパの想い、だ。俺が君のパパだとしても同じ事をするだろう」


でも、とセアラは言いよどむ。


「パパは怒っていないかしら? お前のせいで死んでしまった、と。したいことが山ほどあったのに、って」


「多少は思うかもしれない。だが、少なくとも俺は愛する子供を守れてよかったと思うよ。


君もエセルを守れれば満足だろう?」


ええ、とセアラは答える。


「パパと話せればいいのに・・・。そうしたらちゃんと話をして分かり合えるのに」


ヴァクスに問われて父親の心境が少し垣間見えた気がしたが、まだ心には虚無が残っていた。


生きていていい、と思える実感が沸かない。


「何を話したい?」


ヴァクスがまた尋ねる。


「怒っていないかって。パパは私を助けて悔いは無いの?って。私は生きていていいのって。私は人殺しじゃないの?って」


「俺がパパならこう答える。折角助けた命を粗末にするような人生を送っていることに怒っている、と。


もっと自分の幸せを考えなさい、と。もちろん、生きていていい。助けた命に生きていていいのかと聞かれるほどむなしいものはない。


それに人殺しではない。あれは事故だった。もし、非があるとすれば迅速に行動できなかった自分の非だと」


「違うわっ。パパの性じゃないっ。はしゃいでいた私が悪いのよっ。私がはしゃがなければ、大人しく聞き分けのよい子だったら、


パパは間に合ったはず」


セアラが声を荒げて答える。


「小さな子にはしゃぐな、というほうが無理だと思わないか? あの時、君は10歳の女の子だった。


10歳の子供に宇宙の怖さをどこまで知っていると言うんだ? もしエセルが君の様に言えば、君はどう考える?」


セアラは答えに詰まってしまう。


ヴァクスの答えが正しいからだ。


小さな子に判断などできるはずも無い。


「それが答えだ。君は自分を戒めているつもりで回りのものを悲しませていただけなんだ。


自分を大事にすることこそが君のパパの気持に添う事だと思わないか?」


セアラはこくんと頷く。


頷いたひょうしに涙がこぼれる。


肩が震える。


「私、ずいぶん自分をいじめてきた。でもそれは罪悪感から逃れるためのいいわけだったのかもしれない。


自分をいじめることで罰することでなんとかなると思っていたのね・・・」


本当は違うのだ。


自分らしく人生に立ち向かう事こそが何よりも父親のはなむけになるのだ。


「ヴァクス・・・。そこの引出しから本を出して。一番大きな本」


頼まれたヴァクスはセアラを離すと引出しを開けて本を取り出す。


「ずいぶんと古い本だな」


手渡しながら言う。


それはふるびた布表紙で飾られた大判の本だった。


「あの時、もっていた本と同じ本なの。こちらの方がいくぶんか新しいけれど・・・」


セアラはそう言って本のページをめくる。


「この本はね・・・。パパが最後に買ってくれた本なの。あの宇宙艦でずっと読んで聞かせてくれていた。


でも、途中で終ってしまって・・・。何年か前に見つけてどうしてもといって譲ってもらったの。


それでもページはめくれなかった。


この本はパパが読んでくれる本だったから・・・」


セアラはしばらくページをめくっては内容を確認する。


そしてあるページの所で動きとめてじっと見つめる。


「ここまでしか読んでないの。途中でぷちっと切れたまま14年も経ってしまった。


私、パパが死んだことは理解しているけれど、どこかでまだ生きている気がしていた。


だってお話まだ途中なんですもの。ちゃんと最後まで読んでくれなかったんですもの。


それにまだこの宇宙のどこかでパパの体はさまよっている。


そう思うとどこかで生きている気がしていた。


死ぬ、ということがどういうことか、私は理解できていないのね。


だから、ここからはじめるわ。


続きを読むの。終らないままで止まってしまった時を動かしてみる。


それを読み終わったら・・・」


セアラは一旦言葉を切る。


読むことで本当にそんな気持になれるかはまだわからない。


だが、やってみる必要がある。


心を決めてセアラは言った。


「読み終わったら、もう一度、ノーフォーク号に行って、今度こそ、パパにさよならを言うわ。ありがとう、さようなら、って。安らかに眠ってね、って・・・」


そうか・・・、とセアラの話をだまって聞いていたヴァクスが答える。


「一緒に・・・。一緒に読んでもいいか?」


ヴァクスのささやくような声にセアラは顔を上げるとうれしそうに微笑んだ。


「そうしてくれるとうれしいわ。この本、とっても面白いのよ。


この宇宙のいろんな地域の神話がたくさん載っているの」


一緒に何かをする、ということがひどくうれしかった。


抱えていた重荷を下ろし始めてセアラの心は少しづつ軽くなりつつあった。


セアラが次のページをめくる。


「読むわね・・・」


セアラが声を出しながら読み出す。


ヴァクスは一緒にセアラと共に物語を追い始めた。




第四話 ブルーローズ




シーフォート夫妻は同僚達を迎えるなりあんぐりと口を開けるしかなかった。


手提げ袋いっぱいにおもちゃを持ってきたかと思うとシーフォート夫妻との挨拶はそこそこに息子のマシューと遊ぶことに集中してしまったのだ。


マシューは多くのおもちゃに埋もれて喜んでいたが、夫妻はただもう何事か?と思うばかりであった。同僚のヴァクスはともかく引きこもり状態だったセアラまでもがのこのことおもちゃを手にしてこの第二主星までやって来たのだ。もう天地がひっくり返った気がしてならなかった。


さすがにマシューが昼寝の時間になると二人の訪問者はようやく正気に戻ったのだった。


「一体どうしたのだ?」


同僚のシーフォートがヴァクスに尋ねる。


彼はこんな人物ではなかったはずだという想いがシーフォートにあった。


ヴァクスは照れたようにしばらく黙り込むとゆっくりと口を開いた。


「結婚しようと思っている」


はぁ?と思わず調子を崩しそうになったシーフォートはまたあんぐりと口を開ける羽目になった。


「結婚は一人では出来ないのだぞ?」


念を押すように尋ねるとヴァクスは台所のキッチンで妻マリーと楽しそうに話しているセアラに視線を送った。


「一体、いつ、どこで、どうなったのだ?」


あまりの驚きにシーフォ-トは目を疑った。


あの心を凍らせてしまったセアラと結婚?


「もちろん愛し合っているのだろうな?」


やめてくれ、とヴァクスは面倒くさそうに手のひらをひらひらさせた。


「俺が財産目当てで結婚しようとでも? それなら大いなる誤解だ。


俺は彼女を愛しているし、彼女に家族を作ってやりたい。それだけだ」


ヴァクスがうそを言っていないことは明白だった。彼はうそをつくこと自体が苦手なのだ。


「彼女は?」


「同意を得ているよ。愛の告白はまだ聞いていないがね」


 そんなことで大丈夫だろうか?とシーフォートは困惑を覚えた。


 今回の訪問はマシューにおもちゃの王国を築きに来たのではない。


 結婚に際してどうしても膠着状態になった問題を解決すべく先輩夫妻を訪れたのだ。その旨を知らされて今度は夫妻も頭を抱えることになった。


 つまりセアラは代理人を置いて宇宙鑑に乗り込むと言い、ヴァクスは反対しているのだ。宇宙にはどんな危険が迫っているか分からない。そんな世界に女性を、愛する女性をつれていくことなどできないとヴァクスは力説する。


 それにシーフォートも加勢すると今度はマリーが普段の不満を爆発させたのかセアラの援護に回った。


 マリーはシーフォートとの再婚である。むかし同じ軍人だったのに宇宙鑑に載せてもらえないことに日頃から不満があったのだ。


 時間を忘れて何度も話し合った。結局勝ったのは女性軍だった。


 妻には恋人にはめっぽう甘い男性軍の弱みにつけこまれてしかたなく承諾することになったのだった。一度宇宙で妻子を亡くして以来、マリーを連れていくことをしなかったシーフォートも次の航宙ではつれていくことになり、この話題を持ち込んでくれたヴァクス達はマリーに大感謝されたのだった。


夜、セアラのゲストルームにこんこんとノックの音が聞こえた。


「開いているわ」


 とセアラはヴァクスだと思って気軽に声をかけた。


 入ってきたのはシーフォートだった。


 あわてて居住まいを正す。


「いや、いいんだ。そのままで。ただ、君が失恋をしてまた今度はヴァクスと結婚すると聞いて本当かと信じられなくてね」


 ヴァクスと同僚で同じ年としては異例の速さで出世しているシーフォートはいくぶんか老けて見える。 そういえば、とセアラは思い出したのだ。


 彼は以前妻と息子を一度になくしているのだ。


 愛するものを失ってもう一度人を愛するようになった彼の気持ちの変化はどこにあったのだろう?


 セアラは宇宙鑑で思っていた疑問を思い出した。


 セアラは正直にヴァクスとのいきさつを話した。彼相手にうそを言うつもりはなかった。彼もまたかつて一緒に戦った同僚であり、先輩なのだ。


 それで、とシーフォートは苦い顔をして言った。


「君は愛していないのに結婚するのかい? それがどういうことかわかっていて?」


 何度も自問自答した言葉を繰り返されてセアラは一旦口を閉じた。


「愛しているかどうかは・・・わからないんです。でも・・・ヴァクスの隣にいると幸せな気持ちになれます。そして彼の子供と一緒ならきっともっと幸せになれると・・・・」


 口ごもりながらそれでも幸せそうに答えるセアラを黙ってシーフォートは見つめる。


 唐突にシーフォートは茶目っ気たっぷりにウィンクした。


「君の中にもう答えは出ている、ようだな。だが、セアラ。ひとつ良いことを教えて上げよう。人はまた愛することができるのだ。何度愛するものを失おうと、思い出が心に覆い被さっていようとまた愛することはできるのだ。私は今の生活をありがたくおもうよ。以前、妻が死んだ息子の後を追って自殺したときはもう何もかも終わりかと思っていた。だが、マリーに再び出会って彼女に引かれている自分を知った。その思いは次第に強くなって今に至る。最愛の妻と息子を得た。私は幸せだよ。昔も今も。君もそうなってくれることを祈る」


 セアラは呆然とシーフォートを見送った。先に質問しようと思っていた言葉を先に言われたからだ。彼の洞察力には脱帽する。だからこそ異例の最年少で艦長就任が実現したのだろう。その冒険話はともかく、彼の苦しみ、そして今へと至った心の移り変わりはセアラに何となく分かったような気がした。


 ヴァクスを愛しているか・・・その問いに答えたくない自分がいる。


 答えてしまえば爆弾を抱えてしまうからだ。いつ愛されなくなるかという爆弾。


 でももうわかっていた。自分は彼を愛している。だた、もうそれを口に出すのが怖いのだ。口に出してしまえばシャボン玉のようにぱちんと壊れそうな感じがして怖かったのだ。


 相変わらずヴァクスは心優しい恋人ぶりを発揮しているが、彼の心移りが怖くてしょうがなかった。それだけの体験を彼女は初恋にして体験したのだ。怖くて当たり前だろう。


 だが、いつか言おうとセアラは決めていた。


 いつ言うべきかはまだ決めていなかったが。




 セアラの読み始めた神話はまだ続いていた。帰りの宇宙鑑の中でようやく終わるだろうと言う感じであった。


 それほど長く、またセアラは最後を読むのを先延ばしにしていたからだ。ヴァクスと本を開いている時間はとても幸せで暖かな時間だったからこの時間が終わるのがとっても怖かったのだ。怖がってばかりいるのは気に入らなかったが、実際怖いのだから仕方がない。


 シーフォート夫妻宅への滞在はわずかであった。すぐに次の鑑に乗らなければ結婚にまたややこしい手続きをとることになる。行く前に結婚の事を教会に告知して置いたのだ。最短の一ヶ月を得てヴァクスとセアラは結婚式を挙げることとなっていた。同時にそれを聞いたシーフォート達はもう驚くのをやめて一緒に航宙することとなった。


 ヴァクスの家に挨拶しに行こうとセアラは主張したが面倒くさいと却下され、セアラの結婚式はちゃくちゃくと進んでいた。


 宇宙ホログラムでしっかりとウェディングドレスまで作らされたのだから。


 セアラは怖いという想いともしかしてという小さな希望を胸に抱いていて祖母のいる惑星へと戻っていく。


 ある時、ヴァクスと一緒に本を読んでいたとき画像電話が急に作動した。


 速達である。


 しかたなくセアラが受話器を取るときーんと耳をふさぎたくなるような声が聞こえてきた。


「おねぇちゃま! 結婚するって本当なの? 相手は誰? あのすっとこどっこいの馬鹿皇子じゃないわね? 誰なのっっっ」


 あまりの勢いにセアラは耳をふさぐしかない。


 義理の妹のエミリアが早速聞きつけて電話をかけてきたのだ。


 以前、恋人を作った際にもあれやこれやと邪魔してくれた妹のこと今回のことを良く思っていないのは当然だった。


「あ、あのね。エミリー。よく聞いてね。私は結婚するの。そう決めたの。エミリーが心配してくれる気持ちは分かるけれど私は結婚したいの」


 セアラがわめきそうなエミリアを説得にかかる。


 それでもぎゃぁぎやぁとエミリアは騒ぐ。


 見かねたヴァクスが受話器を取り上げた。


 困ったような顔でセアラがヴァクスを見上げると彼は茶目っ気たっぷりにウィンクする。


「やぁ。君にお会いするのははじめだったね。ニコラス・ヴァクスだ。君のお姉さんの幸運なる花婿となるのは私なんだ。彼女の以前のいきさつも君の妨害も知っている。私はこれでも一介の艦長だ。どんな挑戦でも受けるつもりだ。君の挑戦を待っているよ。それでは、そろそろ君もおねむの時間のはずだ。宇宙電話をしたと知ったら君の父親は怒るだろうね。おしおきがないことを祈るよ」


ヴァクスが流ちょうに話をする。エミリアは悔しそうに顔をゆがめる。ヴァクスが受話器をおろそうとしたときにエミリアは待ってと叫んだ。


「おねぇちゃまを愛しているの?!」


 セアラのひどい失恋を知っているエミリアにはもう二度とあんな苦しみを姉にあわせたくなかったのだ。それが一番の気がかりだった。姉はあれから氷の心となってしまった。それが何よりもエミリアの気がかりだった。


「もちろんだ。愛しているよ。宇宙で一番、彼女を愛している。かならず君のお姉さんに笑顔を取り戻させてみせる」


 静かな声でヴァクスは答えた。愛情がにじみでる。以前のヴァクスにはなかった仕草だ。セアラを本当の意味で愛することになったヴァクスには以前の横柄さは姿を消していた。代わりに威厳のようなオーラがでていた。


 エミリアはじっと画像の向こうからヴァクスを眺める。まるで試すかのように。


 彼はその試験に受かるのは当然と思っているかのごとく悠然としている。


「わかった」


 ひとことエミリアが真剣な声でうなずいた。セアラはほっと胸をなでおろしたかと思うときーんとした声にまた心臓が跳ね上がった。


「おねえちゃま! 私が行くまで結婚証明書に署名しちゃダメだからね!!」


 わかったのかわからないエミリアの答えを聞いてセアラは苦笑いをするしかない。


「エミリーが来るまでに結婚式は終わってしまうわ。あきらめてもらうしか・・・」


「いいえ! おねえちゃまの結婚式を見ないでいるわけには行かないもの。今からすぐに行くからねっ。それじゃっ。ヴァクス艦長。待っているのよ。おもいっきり挑戦してやるからねっっ」


 画像電話は急にかかってきたと同時にまた急に終わった。


 部屋の中が急に静かになる。


「君の妹は相当シスターコンプレックスのようだ。いい妹だ」


 ヴァクスがセアラの頼りなげな肩を抱く。


「あの子、やるといったら必ずするのよ。あの子が来る前に式を早めた方がいいわ」


「折角姉が幸せになろうとしているんだ。待ってやってもいいだろう? それでなくても教会を脅して一ヶ月だけ待つのだからな」


 結婚式はセアラの領地の宇宙軍教会で行われる。告知は通常三ヶ月の所をセアラの伯爵の権威を借りて一ヶ月に変えしまったのだ。いまごろセアラの邸宅では準備に大わらわであろう。


「だって。間にいろいろ祝日が混じっているのだもの。待っているわけには行かないわ」


 この期間を逃すと次は祝日などが混じってなかなか結婚式を挙げることが出来ないのだ。スムーズに事を運ぶにはそうしかなかったのだった。すねたようにセアラが答えてヴァクスは笑う。


 セアラは夜会であったときよりもぐんと表情に豊かさが戻り性格も明るく戻ってきていた。時折恐怖にうなされることもあってもそれも回数も減っていた。


「君の妹の挑戦が楽しみだ。 さぁ、君も眠る時間だよ」


 ヴァクスが促し、セアラもぶつぶつ言いながらもベッドに向かう。


 ヴァクスは隣のソファに眠る。


 これがいつものパターンだ。セアラが時々文句を言うがヴァクスはうなされるセアラをほうっておく気にはとうていなれなかった。


宇宙鑑ではシーフォート夫妻とマシューと毎日顔を合わせては食事をしていた。


二大有名人が女性を連れているともあって彼らはひっぱりだこになった。


が、ヴァクスはしっかりとセアラを守っていた。繊細なセアラの心を守るようにつねに側にいてエスコートし、マリーに思いっきり嫌みをシーフォートは言われる羽目になったのだった。


再びあのノーフォーク号に近づいた。


セアラの緊張が高まる。


物語はまるで父親が計ったかのように前日に読み終わっていた。


これから儀式を行うのだ。


通常の行程通りにノーフォーク号に乗る。


特別な計らいでセアラは花束を持って、今はもう使われていないハッチへと行くことを許された。ひとえにヴァクスやシーフォートがいるのにも関係していたが、彼女自身が被害者であると言うことを考慮されての事だった。


セアラはハッチの近くに来て少しハッチを開ける。そこからは冷たい宇宙が見える。まっくらな宇宙。永遠にさまよっている父親が眠る場所。そこが宇宙だ。セアラは遠くにさまよっている父親に想いをはせながらそこから花束を投げた。


花束は慣性の法則に従ってずっと遠くに消えていってしまう。あの日、父親が宇宙へと送り出されたかのように。


セアラは語る。


「パパ。お話をヴァクスが最後まで読んでくれたわ。パパの代わりに。私はようやく時を進めることが出きるような気がするわ。今までなかった心を取り戻した気がするの。ありがとう。パパ。助けてくれて。そして愛してくれてありがとう。おやすみなさい。ゆっくりおやすみなさい」


 セアラは小さな声で語りかけていたがマイクの周波数を合わせていたヴァクス達にも聞こえた。


そしてセアラは涙を流していた。冷たい今までの涙でなく愛されていたと感じて流す喜びの涙であった。


 ずっとここで父親と語り合っていたかったが、時間もすくない。セアラはこみあげる嗚咽を堪えて心を静めると一言言った。


「さよなら。ダディ」


 力強い、これから生きていくものの声だった。セアラは今、ようやく父親の死を認めることができたのだ。初めてこころを取り戻したのだった。ヴァクスがセアラの肩に手を回して抱き寄せる。セアラはにっこりとヴァクスを見上げる。


 儀式は終わったのだ。死は再生への道。セアラは再生への道をようやく歩きだしたのだった。




花嫁控え室にいきなり鉄砲玉のようにエミリアが突撃してきた。手にはあらゆる妨害道具がもたれている。セアラは苦笑するしかなかった。言ったとおりにエミリアはさっさとセアラの領地にやってくるかと思うとあの手この手でヴァクスをいじめだしたのだ。いたずらと言った方がいいかもしれない。


でもヴァクスはたくみにエミリアのいたずらをかわし楽しんでいた。それがまたエミリアには悔しくてならなかったのだ。


「エミリア。結婚式にそれは似合わないと思うわよ」


エミリアの手に持たれている道具達を見てセアラは苦笑いして答える。


エミリアはじっとセアラの瞳を見つめる。なんでも見透かすような瞳にセアラはどきっとした


「愛している?」


黙っていたエミリアは唐突にその質問を出した。


真剣な瞳で問われてセアラは困った。答えてしまえば壊れそうな気がするからだ。ただうん、とうなずくしかなかった。


「だったらなんで悲しそうな顔をしているの?」


鋭い質問にセアラは答えを詰まらせた。


悲しそう顔というよりも不安でしかたない表情だったのだがそれがエミリアには悲しんでいるように見えたらしい。


怖いの、とセアラは小さな告白をするようにささやいた。


「はじめは愛していなかったわ。でも段々好きになっていったの。以前のように燃え上がるような愛情ではなくて暖かい包まれているような愛情を感じて私もそれにお返しをしたいの。本当の愛ってこういうのかもしれないわね」


「だったらなんで何も言わないの? おねぇちゃま、告白してないのでしょう? 見れば分かるもの。また怖い想いをするから黙っているんだ。でもおねぇちゃまは本当はとっても勇気のある人なのよ」


エミリアが強く語る。


「臆病風に吹かれて何も言わないつもりなの? 今からでも遅くないわ。ちゃんとヴァクスに言うべきよ。 残念だけどあきらめるわ。結婚式の妨害は。だから早く、おねぇちゃまの気持ちを伝えてきて」


  エミリアはつかつかと窓際に歩み寄ると窓を開け放した。


 セアラはなんのことかしっかりわかってにっこりする。


 セアラはロングトレークのドレスを引きずりながらも窓から出ていく。


「ありがとう。エミリア。愛しているわ。マリーをなだめておいてねっ!!」


 振り返って出かけにセアラがいうとエミリアが突っ込む。


「言う相手が違うわよ。しっかりね! おねぇちゃま」


 セアラには見えなかったがエミリアのつぶらな瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


唐突にヴァクスの目の前にセアラが現れた。


ヴァクスは目を丸くする。


「花嫁と花婿は教会堂で再会する予定のはずだが?」


「そうよ。だから時間が無いの。手短に言うわ」


 結婚無効宣言を言われるのかと思って口を開こうとするより早く、セアラがすばやく口を開く。


「愛してるわ」


 は?、ヴァクスは一瞬耳を疑った。


「今、何と?」


「だから、愛してるの。ヴァクスだけ告白して私が言わないで式を挙げるのはフェアじゃないでしょう? ともかく、そういうことだから。急いで戻らないと怒られちゃうわ」


 セアラは神経質そうにドアの向こうの物音を確認してまたドレスの裾を翻して戻っていく。


 ヴァクスはしばらくぽかんと口をあけてセアラの消えた窓を見つめていた。


 その一部始終を見ていたシーフォートが笑い出す。


 その声を聞いてようやくヴァクスの顔にも笑みが広がっていく。


「あれじゃ、普通の男だと結婚できないはずだ。我らがレディは我々の中で一番大胆不敵な人物だな」


 シーフォートが腹を抱えて笑う。


 つられてヴァクスも顔をのけぞらせると大声で笑い出す。




ブルーローズ。




青い薔薇。幻の花。天上の花。




だが、それは同時に存在しないものの事を指す。


今、セアラに存在しなかった愛が存在している。


セアラの心に確実に愛が芽生えている。


それはあたかもブルーローズのように幻で、またようやく手に出来た確かなものでもあった。


セアラもヴァクスもブルーローズを手に入れたのだ。


これからどんな困難があっても乗り越えられるだろう。


「時間だな。それでは花嫁を迎えに行くとするか」


笑いをこらえてシーフォートが肩を震わせながらヴァクスに声をかける。


ヴァクスも肩を震わせて笑いをこらえながら頷く。


「式の間中、笑い転げないかが心配だよ」


シーフォートと共に教会堂に向かう途中ヴァクスは言う。


「きっと花嫁に見とれて笑う所じゃなくなるさ」


経験者、シーフォートがアドバイスし、ヴァクスは頷いて教会堂に足を踏み入れた。


FIN



結構昔にあった事件を元にあるときに書いた話です。これを機に立ち直った私。今ならあの人々に言えるのですがね。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

この話は終わりますが、もう一つの宇宙軍予備科に入ったセアラの話も楽しんでください。


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