三 犬?
次の日の登校は最悪な気分だった。
「朝も食欲がないの?」と親から引き続き心配されたが、昨日のことを思い出してしまって、喉に食べ物が通らなかった。
教室に入ると、ケンタは既に着席していて、普段通りに本を読んでいた。
「おはよう」
僕が一声かける。
「おはよう」
本を読みながら、ケンタは返事をした。
こっちを向け!と言いたかったが、気持ちをぐっと押し殺して、僕も着席した。ぶっちゃけ、だんだん気分が悪くなっていてそれどころじゃなかった。
当然、授業中の内容は頭に入ってこないし、昼食も食べるのをやめた。周りから心配されたけど、適当な理由を言ってごまかした。
そして五時限目の算数になり、授業参観が始まった。
ぞろぞろとクラスメイトの親が教室に入ってくる。
ケンタのお母さんはどんな姿で入ってくるのだろう。昨日のことを振り返ると、想像ができなかった。
「おーい、授業を始めるぞー。前を向け―。お母さんお父さんのことを気になるかもしれないけど、授業に集中しろー」
もしケンタのお母さんが来たなら、本当は生きていたのかもしれない。いや……でも、包丁が突き刺さっていたわけだし、確実に死んでいたと思う。僕は、なんだかよくわからない怖さから、背中に汗を大量に流していた。
少し経って、先生が黒板に問題を書き始めたときに、背後から「くすくす」と小さな笑い声が聞こえ始めた。
気になって振り返る。僕はごくりと唾を飲み込んだ。
いる! ケンタのお母さんが立っている!
ただ、その様子がとてもおかしかった。髪は寝ぐせのようなぼさぼさ。顔色は遠くから見てもわかるぐらいの紫色。服装は黒いフォーマルな服なんだけど、目も当てられないぐらいよれよれ。そして、足元のパンプスは片足しか履いていなくて、もう片方は素足だった。
そのおかしさにみんなも気がついたらしく、教室内がガヤガヤし始めた。だけどその逆に、ケンタは振り返りもしていなかった。
「おい! お前ら! 授業に集中だ、黒板を向け!」
先生が怒ってくれたおかげで、騒々しさがいったん止む。
「この問題は難しいぞ。わかる人は手をあげてくれ」
そう先生が言うと、真っ先にケンタが手をあげて、あっさり答えてしまった。
「正解! みんなで拍手」
パチパチと教室内にいるみんなが手を叩く。
そのときだった。
えっ?
遠吠えのような声が背後からした。
振り返ると、ケンタのお母さんが、両腕を下げ、ギュッと力強く拳を作り、あごを少しあげて、目を大きく見開いて吠えていた。
「ワォ――――ン。ワンワン!」
その異様さに、周りは目を丸くして、教室の隅の方に離れていく。
そして何度か吠えると、ケンタのお母さんは腰をおろして、両手、両足を交互に使い、四足歩行の犬のように黒板に向かって走り出した。
「うぉー」
先生は驚いて教壇から転げ落ちてしまう。
ケンタのお母さんは教壇にあがると、ぐるぐると教卓の周りを走り、ぴょーんとその上に飛び乗った。
さらに、「ワオ――――ン、ワンワン!」と気持ちよさそうに吠えると、すぐ近くの教室ドアまで走っていき、廊下へ飛び出して行ってしまった。
「ちょっとケンタ君のお母さん!」
先生がその後を追いかける。
「俺も行かなくちゃ」
ケンタも教室から出て行ってしまった。
授業参観は当然中止になり、教室で待機することになってしまった。
あれは何?という会話が飛び交っている。
原因は昨日のことだと思う。ただ、ケンタの焦る様子から、何か失敗したのかもしれない。
ところであれはなんだ?
犬?
どうして吠えたんだ?
わけのわからないことを考えれば考えるほど、頭がくらくらしてきた。
地獄のような前日をクラスメイトは知らなくて、なんだかうらやましく感じた。
「先生どうしたんですか!? やめてください」
なんだか廊下が騒がしい。
「その手を放せー。担任として教室に戻って何が悪いワン!」
教室のドアから入ろうとする先生を、他の先生達が押さえつけている。
「放せー! ワンワン! ワォ―――ン!」
先生は吠えながら、必死にその手を振り払おうとしている。
「ここは危険だから早く帰りなさい!」
隣のクラスの先生がそう怒鳴ると、急に「キャー」と女子から悲鳴があがり、クラスメイトみんなが、後方の教室ドアにどぉーっと押し寄せて向かっていった。
僕も教室から出ようとするが、その間も先生の吠える声が何度も聞こえた。だけど、廊下に出たときには、先生の声は犬の鳴き声と、人間の嗚咽が混じっていた。
家に帰ってからは、両親との話題は今日の出来事ばかりだった。
すると電話が鳴った。出るとケンタからだ。
「明日、あいてる?」
「うん、あいてるけど」
「15時ごろ、俺の家に来てくれない?」
「また片付けとかじゃないよね?」
「ははは、もちろん違うよ。ダイスケには、お母さんがなぜあんなふうになってしまったのかを話しておきたいんだ」
「……わかった、行くよ」
あまり気が進まなかったが、僕もあの場所にいたからこそ、その理由を知りたくて重い返事をした。