天海姉弟
二十四時間眠り続けていたとは思えないほど夜も早くから眠ってしまい、翌朝のドアを叩くノック音が目覚ましとなっていた。ぼーっとする頭の中、どうぞと声をかける。当然、この家の主である灰本が現れると思っていた。
「おはよう」
片手に、バッグを持って、にこやかに入室してきたのは、毛先をカールした美しい女性だった。その声は、目を覚ます前にうっすらと聞こえてきていた女性の声によく似ている気がした。
身を起そうとしたが、そのままでいいわよと言われて、力を抜く。近づいてくる彼女は、ジーンズにワイシャツという、決して着飾っているわけではないのに、目を引いた。しかも、自身が発光しているのではと思えるほど、きらきらしたオーラを放っている。大きな目も、星のように瞬いている。美人という言葉は、この人のためにあるのではないかと思えるほどだ。見とれてしまっている私の目の前にやってきた彼女の顔が至近距離になる。より一層、美人が際立っているようにみえた。
「うん、顔色もいいし、問題なさそうね」
じゃあ、腕も診せてと、彼女はテキパキという。いわれるがままに、腕を布団から出すと、まかれている包帯を手慣れた手つきで外していく。鮮やかとしかいいようがない。そして、左手の薬指が眩しいほど、光っていた。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私は、医師をしている天海琴音よ。よろしくね」
ニッコリ微笑まれる。私も、慌てて名前を名乗ると「誠一さんに聞いてるわ」と笑っていた。
誠一さん? 一瞬誰のことかと思ったが、灰本は確か誠一という名前だったはず。さきほどから、眩しくて仕方ない琴音の左手薬指にある一粒のダイヤ。つまりは、そういうことなのだろう。幸せオーラも全開だ。
それとは真逆の、顔を出し始めた自分の腕に刻まれた大きな傷。自分でも初めて見るが、なかなか惨いことになっているようだ。ともかく、皮膚がぞろっと剥けている。自分の傷なのに、ぞっとしてくる。見ていられず目を背けてしまうのに、さすが医師というだけあって、琴音は顔色一つ変えることなく、アルコールをしみこませたガーゼを傷口へ押し付けていた。
痛いと、情けなく叫びたくなるのを歯を食いしばって何とか耐える。ほかのことで、気を紛らわせよう。
真剣な表情で治療する琴音を観察することにする。
灰本と並んだら、どこからどう見ても美男美女でお似合いのカップルにしか見えない。私には関係のないことだと思いつつ、妙に気まずい気分になってくる。琴音が再び包帯を巻いていく。むりやりでもいいから、思考の方向を変えよう。そう思ったところで、うまくいくはずもなく。もう一度彼女の名前を反芻していた。そういえば、つい最近もどこかで聞いたことがある名前だ。それに、その大きな瞳も見覚えがある。
「天海さんって、もしかして、あの刑事さん?」
「あー……もしかして、慎吾に会った? あれ、私の弟」
なるほど。だから、どことなく似ていたのか。納得して頷いていると、琴音はすごく嫌そうに顔をしかめていた。
「あんな適当な奴が、刑事だなんて世も末よね。誠一さんが同期だったから、今も何とか刑事やっていられるものの、いなかったら、とっくに左遷されてるわよ」
ぶつぶつ愚痴をいいながらも、手を止めない。次は、腕につながっていた点滴へと手を伸ばしていく。外すわねと、一言言って、腕に張られたテープを外し、管を抜いていた。手にした道具は、下に置いてあった箱の中へしまわれていく。
その手際のよさを見れば、すぐにわかる。きっと優秀な医者なのだろう。灰本が惚れるのもよくわかる。
そして、灰本の大事な彼女にまで迷惑をかけてしまって、申し訳なく思う。私は、のっそりと上半身を起こして、頭を下げた。
「あの、お二人には色々ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」
琴音は、少し目を見開いて私のことをまじまじと見つめてくる。何か失礼なことを言っただろうか。不安が過りそうなところで、琴音はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
大きな瞳を半分にして、にーっと口の両端を上げる。そして、咳ばらいをするとぷくっと頬を膨らませていた。
「本当よ。誠一さんから着信があったときは、何のお誘いかと思ってワクワクしてたのよ? それなのに、電話に出てみれば『今すぐ来てくれ』っていうじゃない? 何かサプライズでも待っているのかしらって思って、急いで来てみれば、あなたがいて。早く看てくれって。本当びっくりしたわよ」
琴音の不満は、仕方ないと思う。突然呼び出されて駆け付けた先に、見知らぬ女がいたら、誰だって困惑する。これは、ちゃんと弁解しなければ。
「私は、ただの依頼者で、何も気に病むような関係では決してありませんので、ご安心を。変なあだ名ばっかりつけてくるし……」
これまで呼ばれたあだ名は、考えてみればどれも人間じゃない。思い出したら、妙に腹が立ってきた。
「灰本さん、私のこと人間だと思っていないんですよ」
琴音は、止まらぬ灰本への愚痴に眉を下げていた。
「それはないでしょう。一応、誠一さんの名誉のために言っておくけれど、私へ電話してきた時、珍しく焦ってた。心配でたまらないって感じで。誠一さんが動揺するのは本当に珍しくて、驚いたもの」
「灰本さんに限って、それはないです。面倒かけやがって、ふざけんなよくらいの面持ちですよ」
きっぱり言い放つ私へやれやれと琴音は、眉を下げていく。
「ともかく、灰本さんをうまく扱えるのは、琴音さん以外にいないと思います」
「柴田さんから、そんなお墨付きをもらえるなんて光栄だけど、残念ながら、私は見事フラれた身なの。ごめんね、意地悪して」
琴音は、そういってくすくす笑っているが、こんなに完璧な人を振るなんて、どういう了見だと思う。
琴音は、また花のように笑う。
「ずいぶん昔の話だから、もうとっくに忘れてるから、どうでもあいんだけどね。それに、私は誠一さんよりも、ずーっといい男と婚約してるし」
自慢げに指を見せる。先ほどから気になっていた、左手の薬指。ダイヤモンドが先ほどよりとずっと輝きを増しているように見えた。
琴音は、綺麗にウインクする。そして、また意味深に笑っていた。
医療道具を全部片づけ終えると、琴音は再び私の腕へと視線を移しながら、顎に手をやっていた。
「その怪我。どうしても痕が……ね」
「別にいいです。傷のことなんて」
「よくないわよ。女の子なんだし。私が誠一さんに、怒られちゃう」
どうして、そこで灰本の名前が出てくるのか。
いまいち琴音の思考もりかえできずにいると、琴音は鞄からファイルを取り出して、ペラペラめくっていた。名刺のファイルのようだ。ずらっと名刺がファイリングされている。
そこから一枚名刺を取り出して、差し出された。
「私の知り合いの皮膚科の先生。腕は確かよ。私が保証する。すごく綺麗に傷跡を治してくれるから、ぜひ行ってみて」
名刺をぐいっと押し付けられて、受け取る。質の良い紙質で、分厚い。しかも、住所は銀座とある。お金のにおいがプンプンした。
そっと頭の中で自分の財布を確認してみるが、すぐに閉じた。
「ご親切にありがとうございます。落ち着いたら、行ってみますね」
無難に曖昧な笑顔を浮かべると、すかさず琴音はいった。
「行く気、ないでしょ?」
図星だった。自然と、目が泳いでいく。
「柴田さんって、隠し事できないのね。顔から全部だだ洩れしてるわ」
うまく笑って胡麻化したつもりだったのに。私ってそんなに、隠し事をできない人間だっただろうか。自分の頬を押したり、撫でたりしてみる。当然のことながら、確認なんてできやしない。それに、もう本心を見抜かれてしまっているのならば、正直に話すよりほかに道はないのだろう。事件を隠れ蓑に、現実逃避していた自分も一緒に顔を出し始めて、より一層みじめな気分になってくる。
覚悟を決めて、重たい溜息をつくしかなかった。
「治していただけるのならば、勿論行きたいとは思っています。でも、その……お金の余裕がなくって」
バイトも今回のことで、たびたび休みをもらってしまっている。アパートの家賃を支払うくらいの余裕しかないだろう。まずい。現実に直面して頭を抱える。
「柴田さんって……今学生さん?」
「大学四年です」
「じゃあ、初任給で行くっていくのもありだと思うわよ?」
純粋無垢な瞳で、痛いところばかり突いてくる。ここまできたら嘘なんかついたところで、仕方のないことだ。
「今回、灰本さんに依頼した事件のことで頭がいっぱいになっているところに、就職最終面接と被ってしまって。面接どころじゃなくなっちゃって。それで……落とされました」
あの時の面接官の冷ややかな視線が突き刺さってくる。腕の傷なんかよりも、ずっと深いトラウマだ。
「なるほどねぇ。じゃあ、とりあえず傷の代金は誠一さんへ請求しましょう」
「え……嫌ですよ。お金借りたら、莫大な利子ふっかけられそうだし」
「大丈夫よ。誠一さん、ちょっと責任感じているみたいだし。むしろ、こういう時は、甘えたほうが誠一さんも気も楽になるってものよ」
琴音は、心からの善人な人なのだろう。そうやって提案してくれるだけでも、ありがたいと思う。
「私なんだかんだ言って、灰本さんにはたくさん迷惑をかけている身なので。これ以上は、本当に大丈夫です」
「もう……柴田さんって、甘えベタなのね」
誰かさんみたいと、琴音が独り言を言っているところに、ちょうど「入るぞ」と言う声とともに、灰本がタブレット片手に現れた。
「仕事の話だ。ちょっと席を外してくれ」
「はい、はい。本当に人使い荒いんだから」
むくっとむくれる琴音は、荷物を持って立ち上がる。
「じゃあ、とりあえず、お大事にね」
「はい。ありがとうございました」
灰本は、琴音とのすれ違い様に「すまんな」と一言添える。それだけで琴音は、微笑んで去っていく。
やはり彼女は、完璧な聖人のような人だと、しみじみ思う。
灰本は、ベット横へ椅子を持ってきて、長い足を組む。
「さっき全部まとめて、一気に音声と画像、あらゆる証拠を貼り付けて拡散した」
これがそのデータだと、タブレットを私の方へ向けて、説明し始める。私の知り得ない情報そこに載せられている。
「いつの間に、こんなに?」
目を剥く私へ灰本は、当然だという。
「俺はプロだ」
灰本がその一言を発するだけで、妙に納得と安心感があるから不思議だ。
「落とした波紋が、どの程度にまで膨れ上がるかどうかは、風向きと運次第というところもあるが、今回はメディアにも垂れ込んだから、それなりに大事になるはずだ」
性格はともかくとして、やっぱり灰本はすごいなと思う。それなのに、どうして灰本は同じく完璧な琴音の思いを受け取らなかったのだろうか。普通の男性だったら、絶対に、飛び上がって喜ぶだろうに。天才は、変人と紙一重だというような聞いたことがある。灰本もその類ということだろうか。考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んでいっていまいそうだ。
変わらずの端正な顔で、タブレットを操作している。その顔をじーっと凝視していると、パチっと目が合った。
「さっきっから、人の顔をジロジロと。何だ?」
灰本の眉間のシワに、不愉快な溝が深く掘られていく様をみていたら、とんでもない事実にたどり着いた気がした。
「もしかして……灰本さんって……そっち系の人?」
ふわっと、天海慎吾の方の顔まで浮かんでくる。慌てて口を噤む。
「ああ?」
灰本は、なんだコイツは……という顔をする。
「ちゃんと話し聞いてるのか?」
「聞いてます、聞いてます。続きをどうぞ」
灰本は舌打ちをして、ちゃんと聞いとけよと、一層厳しい顔をしてきていた。私の方は、仲良さそうな二人の残像を追い払うことに必死だった。




