怒り
がっしりと灰本の腕を掴む。
「釈放って……あの二人がですか?」
そんな馬鹿な話あるはずがない。嘘でしょう? 声にならない叫びを読み取った灰本は、ただ見返してくるだけだった。
「これが、現実だよ」
灰本は、微動だにしていなかった。
まるで意味が分からない。
「なんで……どうして、そんなことになるんですか!」
灰本は、何の感情も見せない瞳をそのまま私へ向けてくるだけだった。余計イライラして、心拍数も上がっていく。手が震えた。
「大久保の父親、誰か知っているか?」
突然投げかけられた質問は、この怒りの根本からはあまりに懸け離れていて、は? っと、鼻であしらおうとしたのだが、私の思考回路は律儀らしい。
勝手に大久保とのこれまでの会話の記憶を辿り始めていく。
大久保と、話をする機会は多くあった。プライベートな話は、ほぼ皆無。一度だけ、俺の親はお偉いさんだというのを忘年会だかの席で、口を滑らせてたことはあった気がするが、それと今の状況と何の関係があるのだろう。
私は、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。
その拍子に、腕に激痛が走った。手から力が抜けた。忘れていた痛みが何倍になって返ってきたようだった。激痛に息を詰めると、ぶわっと冷や汗が出てくる。頭がくらくらして、身体が揺れ始めた。視界もぐるぐる回る。不安定な背中を落ち着かせるように、添えられたを手がゆっくり、ベッドへ導かれていた。布団を被せられる。ぎゅっと目を閉じると、痛みが散っていく。回っていた世界が、ゆっくり着地していく。ほうっと息をつくと、灰本は、眉を潜めて大きくため息をついていた。
「その傷、骨には異常はないようだが、深いらしい。跡が残るだろうと」
「そんなこと、どうでもいいです……」
傷が残ろうが後遺症があろうが、本当にどうでもいい。大久保たちが捕まってくれさえすれば。横になったままでも怒りの炎がメラメラと灯っている私に灰本は、目をむく。やがて、やれやれと大きく息を吐いて、お前はそういう人間だったなと、思い出したようだった。あきらめの境地に達し、腕組みをする。
「私の件では、証拠をとれなかったとしても、大久保は、べらべら今までの悪事を喋っていた。灰本さんだって、その確たる証拠持っているんでしょ? それを提出すれば、警察は見て見ぬふりなんてできるはずが」
「警察は無能だ」
ないと言う前に灰本は、被せるようにハッキリという。灰本から私への呆れは消えている。私とは違う種類の違う静かな怒りが滲んでいた。
私は、中途半端なところで、口を噤むしかなかった。
「所詮、警察なんて、その辺の会社と変わらない。上様に逆らえば、処分を受ける。みんなそうなるのを恐れて、歯向かえない。そして、真実は上が主張するストーリーへと簡単に書き換えられる」
「そんなことを警察がしたら、正義なんかなくなっちゃうじゃないですか」
善を助け、悪を取り締まる。弱き者を守ることこそが、警察の役目であるはずだ。だからこそ、みんな警察へと助けを求める。それを根本から覆されたら何に助けを求めればいいのか分からなくなるではないか。
「だが、それが現実だよ。上にいる人物は、何があっても自分の経歴に傷をつけてはならない。自分が傷つくということは、警察の威信に傷がつき、信用を失うことになるからだ。だからのそ上の者は、身内を全力で守る。他人をいくら傷つこうが関係ない。被害者はいなかったことにするか、新たなストーリーを作りあげ、その中へ放り込んで覆い隠していく」
灰本の冷えた声が、すっと腹の奥へ入り込んでくる。
鉛を飲み込んだ時のような重たさと、不快感が、妹の陽菜が自殺した後の翌日の出来事を呼び起こしていた。
陽菜の死に対して、聞き取りをしたいと、家へ校長と担任がやってきた時の状況とよく似ている。
校長は、担任を引き連れてきて、リビングの椅子で母が出したお茶をすすりながら、早口にまくし立てていた。
「陽菜さんは学校で、いつも笑顔でした。学校でも明るく快活で、ずっとお友達と、楽しく過ごしていました。当然、トラブルなんてありませんでした。生徒にも聞き取りをしましたが、問題があるようには見えなかったと、口を揃えていました。ですから、我々教師もこんなことになって、本当に困惑し、衝撃を受けているのです。そんな中、我々が懸命に原因を探ってみたのです。そこで、担任が一度陽菜さんから悩みを打ち明けられたことがあたったようでして」
校長がそこまで一気に喋りきって、担任へとバトンを引き継ごうとした。しかし、担任は俯いたままその受けとろうとしなかった。ただ押し黙ったままの担任を虫けらのように睨んで、校長はまくしたてていた。
「……陽菜さんから、中学を卒業して、高校へ上がることへの不安を口にしていらっしゃったようです。今後、うまくいくかどうか、不安で仕方ないと。担任はもちろん、励ましましたし、また不安になったらいつでも相談に乗ると申し出ました。陽菜さんもその返答で安心したようで、笑顔だったそうです。その後、担任もなるべく声をかけていました。大丈夫か? 悩みはないか? と。陽菜さんは、もう大丈夫だと、笑顔を見せていました。その矢先の今回です。もう、担任もショックを受けていて、今もこんな風に、まともにしゃべれない状態なんですよ」
すべてが虚構。自分の地位を守るために一生懸命考えてきたストーリーであるのは明白で、何の茶番を見せられているのかと思った。凍りついた空気の中、重い沈黙だけが流れ、その空気に耐えかねた焦った校長は「な? そうだよな?」と、校長は隣で黙りこくる担任へ、脅しのように同意を強要していた。
お前、このままだったら、ただじゃすまないぞ。そんな威圧感を込めて。担任は、重い空気と重圧に負けて、頷いていた。
その後の担任は、身を固くして殻に閉じこもるようだった。早くこの時が流れていってほしい。早く、解放されたい。隙間だらけの殻から、そんな声が漏れてきていた。
人間というのは、こんなにも汚く醜いものだと、まざまざと見せつけられている気がした。
その時と、まるで同じだ。全く違う場所でも、同じようなことが繰り返されている。
そんなこと、私は許せない。都合よく作り上げられた夢物語に、またつきあわされるなんて、まっぴら御免だ。何が何でも、引きずり出さなければ、気がすまない。それをそのまま声に乗せようとした時。
「だから、俺みたいな人間がいるんだよ」
と、灰本の冷めきった声が、私の真っ黒だった霧を蹴散らしていた。
「俺がこのまま見逃すと思ったら、大間違いだ」
尖った瞳、上がった口角。首元にナイフを突きつけられているような鋭利さ。
灰本へ初めて依頼した日に見たときと同じだ。私にとって、冷めきった希望の光が、何よりも心強く感じた。




