釈放
ぬるい温度の深海に沈んでいた意識が、徐々に水面へと浮かんでいく。視界は真っ暗だ。水中の中にいるように、身体はふわふわしている。男女の会話らしきものが聞こえてきたが、内容はあまりに不明瞭だ。水の中に潜っているとき聞こえてくる音のように、分厚い膜がかっている。何を話しているのか気になる。そのまま水面へと上がっていきたいという気持ちは強かったが、それとは裏腹に体は再びゆっくり水底へと沈んでいく。
しばらく、そこにとどまっているとぼわんぼわんという音がやんだ。
暗闇と無音の世界だけに包まれる。生ぬるい気温がいように居心地がよかった。このまま、ここにとどまってもいいと思えるほどに。
しかし、しばらくすると突如冷えた水が流れ込んできていた。その水のせいか、強制的に体が浮上していた。
あまりの不快さで、自然と視界が明けていた。額に何かのせられているようだ。先ほどの水はこの冷たさのせいだと、知る。一方で、目はまだこの世界に慣れておらず、白い天井とぼやぼやとした照明が見えるばかりだ。眩しさで、目が痛い。腕まで痛み出した。反射的に、うめき声が零れる。
この痛みから逃れたくて、もう一度ぬるま湯へと意識を沈みこませようとしたとき、額に乗せられたタオルらしきものがぽろりと落ちた。そして、「いい加減起きろ」と、願うような声で頬を軽く叩かれる。
その刺激で、目の痛みは解消されて、次第に焦点が合っていく。再度沈もうとした世界は、遠ざかり、見慣れない天井と照明がはっきりと目に入る。視界の端から、整った顔立ちが右側からひょっこり現れた。形のいい瞳が少し丸く、安堵の色が見えると思ったのは、未だにしっかりと焦点が合っていなかったせいだったのだろう。一度瞬きをすると、目元は、元通りで、口はへの字。仏頂面になっていた。何やら、ビリビリと電気まで蓄電されていっている。これは、 触れない方がいいのだろう。触れば、被害を被るのはこちらだ。
その場から逃げて、自然放電を待つのが得策なのだろうが、残念ながら自分の体はベッドの上らしい。しかも、地球の重力がおかしくなってしまったのではと思えるほど、体が重い。顔を動かすのも億劫だ。せめて、黒目だけ動かして灰本を視界から外していく。
そして、どうしてこの状況になっているのか思い返してみようとしたが、天海とかいう刑事が現れた後は、プツリと途絶えている。
「あの……私、どうしたんでしょうか?」
なるべく刺激しないように、下手に出たつもりだったが、無意味だったようだ。さらに視線が尖っている。
「あの後、すぐにお前は昏倒して、ずっと寝腐っていたんだぞ」
寝腐っていたというところに棘がある。今寝かされているベッドの左側を見やる。ちょうど窓があった。カーテンが引かれているが、日の光ままったく見えない。外はまだ暗いようだ。つまり、寝ていたのは、せいぜい数時間の話だろう。それなのに、いちいち厭味ったらしい。むすっと黙り込む私に、また灰本が冷ややかな瞳を寄こしていた。
「言っておくが、丸一日だからな」
「丸一日って……もしかして、二十四時間ですか?」
灰本に冷たい目で頷かれて、飛び起きた。起きた拍子に、痛みが吹っ飛んだが、代わりに腕の違和感を覚える。管が繋がっていた。その先を見ると、点滴が落ちている。目を丸々とさせていると、説明が入った。
「あまりに滾々と眠り続けるから、仕方なく医者を呼んだんだ。強力な催眠剤が、体内に残っているようだが、目が覚めれば問題ないという見解だった。しかし、そうじゃなければ、いつ意識が戻るかわからないと。目安は、二十四時間」
まったく……捨て台詞を吐いて、灰本は立ち上がる。そして、また冷たい視線。背筋がぞくっとした。もし目覚めなかったら、どうなっていたか。ちらっと、灰本を見やる。言いたいことは、山ほどあると書いてあった。
当然の反応だろう。多大な迷惑をかけたということだ。
「……その、ご迷惑おかけしたようで、すみませんでした」
素直に謝ると、灰本は再び口を開こうとしたが、無理やり閉じたようだ。くるっと背を向ける。
肩が一度だけ大きく上下させて、再び椅子へと腰を下ろしていた。目元に力が入り、相変わらず厳しい顔つきをしていたが、今度は視線を落ちていた。自分の手元を見てから、私の腕へと視線が掠める。
「正直、大久保はノーマークだった。完全に俺の落ち度だ」
じっと、私の腕へ視線を定めたまま、自分自身を責めるようなことをいう。いつも嫌味ばかり出る灰本の口から、飛び出してきた意外な言葉。まだ夢でも見ているのではないのだろうか。そう思ったが、いまだにずきずきする腕は、現実だと主張していた。反射的に、口が動いた。
「……灰本さんは、私を何度も止めてくれました。その制止を振り切ったのは私で、勝手に行動したのも私です。全責任は私にあります。灰本さんのせいではないですよ」
「それは、当然だ」
間髪入れずに否定されて、殊勝な慰めの言葉を見事台無しにしてくる。やっぱり、私の知っている通りの灰本だ。羞恥で顔が真っ赤になる。こんな時でも、やっぱり口は悪い。一瞬でも、私の怪我に対して責任を感じさせてしまっているなんて思った私は、馬鹿だった。むくむく上がってきそうな怒りと、面倒をかけている現実。善と悪がせめぎ合って、むくむく煙が湧き上がってくる。そうはいっても、灰本を責めるのは、お門違いだろう。仕方なく、言い返したい感情を抑え込んだ。
「そういえば、大久保と櫻井はあの後どうなったんです?」
「警察が、いったん回収した。一応、柴田への暴行罪という名目でな。だが、当然二人とも否認している。柴田は、自分で勝手に階段から落ちて、怪我をしたんだと」
「嘘よ」
鋭い声が出て、忘れていた怒りが、一気に湧き上がってくる。灰本は、それをさらりと受け流す。
「そうはいっても、あの場所に防犯カメラは設置されていなかった。このペンダントにも、証拠は残されていない」
「ペンダント?」
灰本は、ポケットを探り手の中のものを見せる。お守りだと託され、実際殴られそうになったとき、サイレンの音が流れて、助けてくれたペンダントだ。
「カメラが内蔵されていたんだが、残念ながら、背後までは映らない」
サイレンだけじゃなくて、そんな仕掛けまで、あったのか。さすがだなと思いつつも、悔しい。大久保は、間違いなく私の背中を押したというのに。あいつらは、いつもそうやって逃れていく。本当に薄汚い。ぎりっと奥歯を噛む。
灰本は、そのまま説明を続けようとしたところで、ピリリと灰本のスマホが鳴った。灰本は、その場で電話をとっていた。電話の奥の相手が一方的に話している声だけがうっすら聞こえてくる。それに対して、灰本は表情一つ変えず頷いている。
それを数分間続けて、電話を切る。
「釈放された」
淡々と告げてくる灰本へと、反射的に手が伸びていた。




