正体
物理的な衝撃のせいなのか、はたまた精神的なものなのか、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
ただ見開くことしかできない視界の先にいる大久保は、いつも通りだ。何ら変わりがない。それが、より一層ミキサーにかけられたように、頭がめちゃくちゃになっていた。
ゆっくり体を起こす。やはり、幻なんかじゃなかった。
「まさか、本当に一人だったとはね」
大久保は、じっとりとした笑みを浮かべながら、階段をゆっくり降りてくる。櫻井は、踊り場に転がっていたバッグを漁っていた。中身を探り、私のスマホを操作している。それを、大久保に近寄り見せた。やっぱり録音しっぱなしだったか、呟くと、と録音アプリ画面を向けて、消去していた。
「柴田を釣れば、サラシ屋も一緒に釣れると思ったのに」
何度も目を瞬く。未だに、現実を受け入れることができない私の顔を見て、大久保はまじまじという。
「何? まだ、信じられないって顔? 我ながら、俺ってすごいなって思うよ。この笑顔。みんな騙されるんだぜ?」
クシャっとしたトレードマークの笑顔を見せる。そして、すっと消えていく。その瞳は、氷のように冷たい。
まるで、別人にしか見えなかった。もう一人の誰かが、確かにそこに存在しているかのようだ。そう。まったくの別人が。
そこで、私はハッと息を飲む。めちゃくちゃになっていた思考回路が、突如まっすぐな一本道を作り出していく。血の気が引き、全身に鳥肌が立ち、目を見開く。茫然と大久保を見つめる私へ、やっと気付いたかと呆れた顔を向けてくる。驚きで鼓膜が狭窄する細い道筋を、寸分の狂いない声で鮮明に言った。
「俺が、浅川美咲だよ。ネットって、すごいよね。性別、性格、何でもかんでも簡単に偽れるしさ」
そんな。まさか。どうして。
それだけがぐるぐると堂々巡りしていく。
「あれ? 混乱してる? あぁ、そういえば柴田にサラシ屋を紹介したのって、俺だもんなぁ」
いいよ、せっかくだから説明してやるよ。大久保は、ゆっくり私の前に立ち、見下ろした。
「亜由美って子の前にもさぁ、いろいろ仕事やってたんだよ。その時に、サラシ屋って奴に邪魔されたことがあったんだ。ネットに証拠写真やらどこからか集めてきて、載せてきやがった。俺はあくまでも、元締めだからなんとか被害は免れたんだけど、まぁ気分はよくないよね。仲間が捕まるってさ。ずっとサラシ屋ってやつ、どうにかしたいと思ってたんだ。でもさぁ、俺がいくら連絡とろうとしても、奴は無視さ。もうイライラして仕方なかったんだ。そんな時だよ。柴田が俺へ相談しに来たのは。相談内容を聞けば、俺絡みの案件じゃないか。これは、チャンスだと思った」
馬鹿にしたように広角をくいっと上げて、人差し指を眉間に向けられる。
説明を聞けば聞くほど、正常な思考回路に戻りつつあることを自覚していた。
「柴田がサラシ屋に依頼すれば、連絡がくるはずだ。そしたら、俺も一緒にくっついていって、サラシ屋を料理してやればいいって」
それなのにさぁ、ガックリ肩を落とす大久保は、自分に酔いしれているように見えた。
「お前、一人で行ってきたっていうし。柴田がイカレた奴だっていうのは、知ってたけど、一人でそこまで突っ込んでいくのは想定外だった。おまけに俺が一番嫌いな正義感ってやつの塊だし。もうこうなったら、力ずくで聞き出してやろうと思ったんだけど。お前って頑固じゃん? だから、もう一つの作戦を立てたんだよ。それが、春香さ。浅川の名前を使って春香へ接触すれば、お前は絶対食いついて来る。サラシ屋と一緒に。そうしたら、一石二鳥じゃん? お前は、顧客へ売ればいいし、サラシ屋は消せる」
そこまでいって、大久保から笑みが消える。仄暗い瞳を寄越し、見下ろし、突然ガンっと、壁を蹴った。
「それなのに、一番釣りたい奴は来ないって、一体どういうことだよ! ふざけんな! どこにいるんだよ!」
苛立ちを壁にぶつけ、今度は私の胸倉へ手が伸びる。
今更、そんな脅し、通用するわけがない。むしろ、怒りしか湧いてこなかった。
「サラシ屋なんか必要ない。あんたみたいな下衆野郎、私だけで十分よ」
「それで、このざまか」
ゲラゲラ見下す笑う大久保へ、反射的に睨み付ける。
「私は、絶対、許さない」
「許さないって、どうしてくれるのかなぁ? 警察へ俺を突き出してみる? 別にいいけどさぁ、お前みたいな頭が狂っている奴、相手にしてくれないと思うよ? 俺って血統いいし」
大久保は突然、何か思いついたように手をたたいく。そして、そういえばさ。亜由美って子いたじゃんと、言った。
心臓から煮えたぎるような血液が競りあがってくる。
「それ以上、喋るな」
熱さが込み上げ、声が出た。それを無視して、大久保はヘラヘラ笑う。
「仲良かったんだろ? お前と違って、おしとやかで清楚な」
パン! っと、衝撃で空気が揺れた。
思い切り振り上げ、大久保の頬を叩いた手のひらは、一切の痛みなど感じない。あるのは、ただこの身を焦がすような熱さだけだ。その汚い声で、名前を呼ぶな。お前のせいで。どれだけの苦しみを味わったのか。
「てめえ、ふざけんなよ!」
叩かれた衝撃を受けた大久保の顔は横を向いていたが、血走った目だけが、ぎょろりと剥く。
拳が私の方へ振り上げられる。私は、来る衝撃にそなえて、反射的にぎゅっと目を瞑る。
その時。
パトカーのサイレンの音が響いた。その場の時間が凍り付き、捕まれていた手が離れた。踊り場は構造上、音がよく反響する。まるで地上から、音が迫っているように聞こえる。気づかれない程度に、灰本がくれたネックレスを見やる。音は、そこから鳴っている。
「サツか?」
大久保は、振り上げられた拳が、ビタリ止まる。一切の動作を止めて上を見上げ、ポケットに手を入れた。トランシーバに向かって怒鳴る。
「上は、どうなってる?」
ザーッと雑音。遅れて男の声が聞こえた。
『警察です。警官二名がこちらに向かってきています』
ちっと舌打ちして、私を殺気立った瞳で睨まれる。
「お前の仕業か!」
私は黙って睨み返す。
『裏口に車を用意したので、そちらへ行ってください』
トランシーバから指示がでて、そこで切れた。
松井が、ぎろりと私を見下ろし、腰を低くして、目線を合わせた。
「俺はな、お前みたいな無駄に人のためにとか言っている正義感をかざすような人間が、この世で一番嫌いだ。ここを出たら、そんなこと微塵も思えなくなるほどの地獄をみせてやる」
汚い唾を飛ばしながら、そういうと、強引に腕を引き上げようとする。強制的に動かされた身体に忘れていた痛みが、全身を貫いた。痛みで、歩くことすらままならない。
そんな私にイラつきながら、櫻井と大久保に両脇を抱えられる。
「離せ!」
痛みを振り切り、思い切り暴れようとしたが、櫻井の手に鈍く光るものが見えた。ゴクリと唾をのみ込み、冷静になれと言い聞かせる。
もし、このまま騒ぎ続け刺され、命を落としたとしても、こんな場所では死に損だ。
やるならもっと、意味のある場所で。
ほとんど引きずられながら、裏口へとつながる暗い道を進んでいく。
相変わらず怒りは、胸の中心でうねり続けている。同時に、とても冷静な自分がいることを確認しながら、私は沈黙を守る。




