絶体絶命
騒動後、まったく仕事のやる気が起きなかった。
あんな偽物がわざわざ私のところへやってきたのは、何故?
目的は何? 気になってそわそわしてしまう上に、不安が一気に押し寄せてきてくる。
やけに、サラシ屋のことを知りたがっていたということは、狙いは灰本さんということなのだろうか。だとしたら、灰本さんは、大丈夫だろうか。
そんなことばかり考えていたものだから、注文を違えたり、水をひっくり返す始末。
はぁっとため息をつくと、松井にイライラしながら睨まれた。
「おい、柴田。お前、マジで邪魔だから、帰れ」
いつもやる気のない松井に邪魔呼ばわりされる始末。店長にまで「今日は疲れてるんだろうから、もうあがりなさい」と、いわれてしまっていた。確かに、今日の私はとてもじゃないが、使い物になっていないだろう。みんなの指示通り、切り上げるしかなさそうだ。
「すみません。お言葉に甘えて今日は、お先に失礼します」
「疲れ様」
岩城店長は、心配を含んだ優しい笑顔を向けられ、松井は完全無視されながら、店を出て駅へと向かった。
やっぱり、気がかりだ。
歩いていると、どんどん胸騒ぎが大きなうねりとなっていく。このまま、知らぬふりをしてやり過ごすことなんかできない。つま先は、流されるように新宿へと向けられていた。
新宿駅の改札を出る。事務所へ今向かったところで、事務所はあの時のようにたたんでいるはずだ。私が行ったところで、無駄足かもしれない。でも、どうしてもこの目で、確認しておきたかった。行動せずに後悔することだけは、できない。
そのまま歩みを進め、片隅ビル前に立ち、見上げる。やはり、事務所の文字はない。一見、何も起きてなさそうだ。
念のため、四階まで上がって、ドアを確認するところまでしておくことにする。ドアにも損傷はなさそうだった。ふうっと息をついて、自分の気が済む。
後ろから手が伸び、口を塞がれ、ビルとビルの隙間へと、引きずり込まれた。
生ぬるい吐息が、耳元にかかって全身鳥肌がたつ。
「よくも恥をかかせてくれたな。サラシ屋の野郎の情報を素直に吐けば、お前には何の用もなかった。だが、気が変わった」
獣くさい。しかも、低能のにおいがする。
「俺に恥をかかせてくれた報いと、仲間を売った罪、そして、次は俺が楽しむはずだったのにそれを奪った分、お前に与えてもらおうか」
いくら抵抗しても、小柄な身体ではどうしようもない。太い腕は蛇のようだ。獲物である私の首に、ガッチリ巻き付いている。
「よく見れば、いい女じゃないか」
もう片方の手が、腹部へ伸びてくる。ゾワっと鳥肌が立つと同時に、頭に血が上った。
足元へ視線を落とす。男の右足が自分の右足のすぐ隣にある。
身体が自然と動いた。
自分の右足を上げ、振り落とす。踵が、男の爪先上に落ち、思い切り体重をかけ、ぐりぐり踏みつけた。
体躯のいい男とは思えない情けない悲鳴が飛び出した。
私の首に巻きついていた腕の力が緩む。その隙をみて、みぞおちに向かって思い切り肘鉄を入れると、男はうっとくぐもった声を上げて腹を押さえ、くの字に身体を屈めて痛みに耐えていた。しつこく首に巻き付いていた腕が消える。
その隙に、全力で走り出した。
裏道から抜け出せば、なんとかなる。
余裕だ。
そんなこと思ったのが、悪かったのかもしれない。
突然、真横にあった更に細い道から長い棒がぬっと、足元に出てきていることに気づけなかった。
全速力で走っていた足が、棒に引っかかった。スピードに乗ったままの体が地面から浮き、バランスが崩れた。
見事にコンクリートへ、顔から突っ込みそうになる。何とか手を出そうとしたが中途半端に終わる。腕で顔を守るのに精いっぱいだった。適当に舗装されたコンクリートはすりおろし器のようだ。勢い余った身体はずるずるっと、コンクリートの上をすべる。顔を守った腕が、もろにその餌食となっていた。
長袖のボーダーのシャツの腕の部分は、がびりびりに破れている。その皮膚も、酷いことになっているのかもしれない。かなり、痛い。しかし、確認は後だ。
後ろから見下ろすよう声がして、反射的に顔だけそちらへ向ける。
「楽しそうだな。俺も仲間に入れてくれよ」
棒を肩に担いだ男が、ぬっと現れた。どうみても、相沢の仲間だ。
ちっと舌打ちをする。
地面に手をついて、立ち上がろうとした。が、そこら中痛くて体がうまく動かない。
もたもたしている間に、相沢もやってきたようだ。怒りをまき散らしながら近づいてくる足音。
「こいつ、絶対に許さねえ!」
相沢の怒声が響く。
「手伝うぜ」
笑いを含めて答える男。
談笑し始める男たち。地面に手をついて立ち上ろうとしたが、痛みが強くて反射的にうっと呻くことしかできない。
「どうやって、遊んでやろうか」
徐々に近づいてくる気配。冷や汗がじっとりと首筋を、腕からは赤が流れた。
「そうだな、俺は」
言いかけた男の声が、不自然に途切れた。
「誰だ!」
間髪入れず、相沢の焦りが聞こえ、バタっと大木が倒れたように空気が大きく動く。私のところまで届いて、息をのんだ。
「一歩暗い道に入れば、クズばかりが潜んでいる。世も末だな」
ひどく鋭利な声なのに、鼓膜に届いた途端、冷え切った体に熱が戻った。暗がりで、顔はよく見えない。しかし、すらっとしたシルエット。落ち着いた声。身を起こし、立ち上がる。
酷い安堵に包まれる。が、それは一瞬で消え去った。




