シャトゥーン
「!!」
ギルを追うように野生動物が足跡を踏んでいる。
熊だ。
冬眠から目覚めるには早い、穴持たず、シャトゥーンだとすればかなり危険だ。
初冬の冬眠に失敗した熊は寒さの中活動するカロリーを餌のない環境で探さなければならない、飢餓状態の野生は相手が何であろうと襲う、人間なら襲い易い上等な獲物となる。
エミーは動きを止めてスンスンと鼻を鳴らす、風上にいれば匂いを捉えられる、シャトゥーン化する多くは経験の少ない若い個体だ、老獪な熊は冬眠を失敗しない。
狩りの経験も浅い熊は風も意識出来ない、耳を澄ませて気配を探る。
一般人なら恐怖が感覚を曇らせるがエミーは恐怖を感じることが出来ない、平常心が常に能力を最大に引き出す。
近くにはいない。
足跡は急傾斜の岩場に残雪が氷となって張り付く方向に向かっている、時折谷から突風が吹き上げてくる。
岩の裂け目からしぶとく枝を伸ばしているのがギュウリョウバイの木だ、この地方独特の黄色の花を五月頃から十一月にかけて咲かせる、今は落ちきれなかった実が茶色に枝から垂れている。
エミーは靴にイネ科の植物を乾燥させてロープ状にした縄を、隙間を開けて縛り付ける、滑り止めとしてはかなり優秀だ、さらに手袋を薄いが固い革の物に変える、鋭利は岩に手を付けばザックリ切ってしまうことがある、すべて師父東郷の教えだ。
高山のギョウリョウバイは風に煽られて背が低いが部分的に密生している、マウンテン・オオミツバチの活動環境には適している。
「よく探し当てたものだ」
ギルの足跡を辿ってきたためすんなり見つけられたが広大な森の中からこの好条件の崖を見つけるのは苦労したに違いない、執念めいたものを感じた。
階段状になった岩場を這うように登坂する、油断して足を滑らせれば滑落死だ。
熊の足跡は見えなくなったがギルの足跡は続いている、崖の頂が近い、カーニャの小屋を出てから四時間、帰り道を考えるとギリギリだ。
標高は高いが二千メートル程度では酸素濃度に影響はない、岩の隙間にオオミツバチの死骸が転がっている、昨年の戦士の亡骸、働き蜂の寿命は夏季であれば一か月、短い一生を全て巣の存続に捧げて生き抜く、一つの巣が女王蜂を中心にまるでひとつの命、ひとつの意識のように純粋に生きる様は尊いとエミーは思う、人間のように欲望や疑念、嫉妬がない。
生きることが愛情であると集約されている。
プロのハニーハンターは巣を丸ごと摂ってしまうことはしない、女王蜂と最低限の巣は残す、命を繋げる尊厳のために、やがてそれが自分にも還ってくるからだ。
いた!見つけた。
頂上のカラマツの幹に縛られたロープが崖の下に伸びている、その張りはその先に重い何かがぶら下がっていることを示唆していた。
慎重に足元の強度を確認しながら近づくと下を覗き込んだ。
人だ、命綱のロープを巻き付けた男が空中に揺れている、項垂れた首とダラリと伸びた手足からは生気を感じ取れない。
「あっ!」
オーバハングした直下にオオミツバチの巣があった、岩にへばりつく様に土と木、蜂が分泌する唾液を混ぜた円錐状の建築物が見えた、巨大な巣だ、最盛期には数万の命がひしめき合う基地だったのだろう、越冬期の今は静かに太陽の光を浴びてその身を温めている。
「おい!あんた、起きろ!しっかりしろギル!」声をかけたが返事は無い。
近くの積もった雪を丸めて握るとギルめがけてぶつける。
バシャアッ 命中した雪玉が弾けた。
「うう・・・」微かに呻き声、二の腕が僅かに上下した、生きている。
「しっかりしろ!今引き上げてやる!!」
ロープを調べると岩に擦れた部分がささくれている、無理は出来ない、腰を折るとささくれより先を握って立ち上がる、腕力で持ち上げようとしては上がらない、腰を垂直に立てて大腿の筋力で引き上げる、体重五十キロに満たないエミーが七十キロを引き上げる。
引き上げる距離は僅か五メートル、一メートル引き上げるのに三回の屈伸、十五回の屈伸なら余裕だ。
グウオオオオオッ ガサッガササッ 鼻を衝く獣臭、穴持たずの熊シャトゥーンだ!
「ちっ!!」エミーは素早くロープを離すと振り返る前に大きく横にジャンプ、着地した時には背中の愛刀ジグロを構えている。
ビイイッン ドスンッ 途中まで引き上げられた身体が落下してロープに再び荷重がかかる、ビシィ 嫌な音ともにほつれが大きくなった、辛うじて持ちこたえる。
熊は五メートル向こうで警戒して伺っている、ブフォッフォッグフウゥゥゥ 何かの匂いに惹き付けられている。
「マッドハニーか!」
ギルは採取に成功している、シャトゥーンは切り取られたマッドハニーの匂いを嗅ぎつけてきたのだ。
バアオオオオオッ シヤトゥーンが立ち上がった、その匂いは俺の物だと吠える。
やはり若い雄だ、手足が長く見えるのは痩せているからだ。
熊と正面から対峙してもエミーは焦らない、いや焦ることができない。
ジグロの切っ先を真っすぐに向けると緑の瞳で黒く小さな瞳を見据えながら縮地で間合いを詰めていく。
熊とやる気だ、殺気はない、何の気負いもなく熊と対峙する。
外見は少女だが心臓の硬度はダイヤモンドだ。
高まった圧力にシャトゥーンが折れた、バフォォォォッ 一直線にエミーに向かってダッシュしてくる、エミーの目が最大限に見開かれ、そのフレームに熊の動きの全てを映し出す。
既にエミーの間合い、正面には大木、影が横滑りする。
突進した熊が標的を見失った一瞬、シュバッ ジグロの一閃が熊の片腕を飛ばす。
ギャワワワワッ つんのめった熊はゴロゴロと崖に向かって転がりながら落ちて消えた。
突進を誘い、片腕を飛ばしてブレーキを奪う、そして自身の速度を殺せずに滑落、エミーの筋書きどおりだ。
ジグロについた血糊、痩せていたせいか脂肪が少なく切断することができた、脂肪が乗った盛期の熊なら切断は無理だったろう、布で丁寧に拭きとり背中の鞘にしまう所作は淀みなく美しい。
ギルは意識を取り戻していない、屈伸十五回で引き上げる。
その胸には切り取ったマッドハニーが布にくるまれて大事に抱かれていた。
日は高く上がり西側に傾いてきている、岩場の最短ルートはギルを背負ったままでは通れない。
登頂に四時間半、背負って下山には・・・六時間。
エミーの細い指が首筋の脈に当てられる、正常だ。
「やれやれ、熊より下山の方が大仕事だな」
自分より大きな人間をロープで背負う、足場の悪いガレ場をエミーは慎重に下り始めた。