人魚姫は、もう一度泡になる
「……何かしら」
肩まですっぽり海水に浸かり、たぷたぷと波に揺られる女の前に、奇妙なものが浮かんでいる。ピンと張った膜の中で、黒い靄が渦巻く一粒の珠。
それは、『泡』と呼ぶべきものかもしれない。だが、どんなに波に揺られても、流されることも消えることもなく、そこに留まり続けている。
まるで女の行く手を阻むかのように────
◇◇◇
「……大丈夫か? おい、おい!」
愛しい声にくすぐられ、少女はハッと目を覚ます。
(ここは…………)
張り付いた海草と砂以外には、何一つ持たない裸の身体。何かを奪われ、ひりひりする喉。
顔を上げれば、陽の光にキラキラと輝くエメラルドが、自分を覗いていた。海のように深く、優しいエメラルド色の瞳。
(王子様……)
パクパクと口を開けるも、少女の喉からは掠れた息が漏れるだけ。一言も発せぬまま、砂を含んだ風を吸ってしまい、ゲホゲホと咳込んだ。
「無理しないで」
エメラルド色の美しい青年は、自分の上着を少女に掛けると、その背を優しく擦る。
(私……本当に戻って来たのね。
海の泡になってしまったけれど、もう一度戻って来ることが出来たのね)
ぼんやりした記憶の中、少女の頬には哀しい涙が伝っていた。
◇
親切な王子は、今回も少女を城に連れて帰り、手厚く保護した。
喋ることも文字を書くことも出来ない。帰るべき家も頼るべき家族も分からぬと首を振る少女に、好きなだけ此処に居ていいと。
自分でドレスを着て、『足』には靴だって履ける。海にはない色々な道具も、教わらなくても難なく使えた。
身体が覚えている記憶を、心の記憶がゆっくりと辿っていく。少女は、自分がやるべきことを必死に思い出そうとしていた。
────かつて人魚だった少女は、船縁に立つ美しい王子に恋をした。潮風になびく金の髪と、エメラルド色の瞳。揺れる波間からこっそり覗いたその姿は、大好きな真珠よりも、珊瑚礁よりも、少女の胸を甘くときめかせた。
ある夕暮れ、少女は気付く。王子が船縁へ出て来るのは、自分が歌を歌っている時だと。嬉しくて嬉しくて、それからは自分の為ではなく、彼の為に歌った。疲れている時は優しい歌を。寂しそうな時は明るい歌を。想いを込めて、彼の為だけに歌った。
波間に耳を傾け、微笑ってくれるなら。少女はそれで充分幸せだった。
嵐の夜、少女は、海に投げ出された王子を助けた。
胸に抱いた温かい肌、空気を送った柔らかな唇。遠い太陽に触れてしまった少女は、強烈な残像に苦しむ。
もっと王子の傍へ行きたい、その為には尾ひれではなく足が欲しいと、海の魔女を訪ねた。
『その美しい声と引き換えに足をやろう。但し王子に愛されなければ、お前は海の泡になって消えてしまうよ』
危険なその条件を、少女は呑み込んでしまう。
王子と繋がっていた大切な声を手放してでも、少女はもう一度、あの太陽に触れたかったのだ。
砂浜で目が覚めた少女は、王子に救われ、城で保護される。
一歩……また一歩。傍に居れば、いつかは自然に太陽に近付けると思っていた。けれど、ある日突然、何の心の準備もなく、『婚約者』を紹介されてしまった。
『彼女は嵐の夜、僕を救ってくれた命の恩人なんだよ』……と。
肩を抱き、見つめ合う二人。彼女を映す王子の瞳には、少女には決して向けられない、甘酸っぱい熱が灯っていた。
貴方を助けたのは本当は私だと、叫びたくても声が出ない。どうして声を捨ててしまったのだろうと、後悔したがもう遅かった。
愛されないなら、王子の胸をこの剣で貫け。そうすれば貴女は泡にならずに済むと姉達は言うが、とてもそんなことは出来ない。
結局少女は海に身を投げ、自ら泡になることを選んだのだ。
泡になり波に漂っていた少女の前に、あの魔女が再び現れこう言った。
『…………と引き換えに、時を戻してやろう』
もう二度とこんな苦しい思いはしたくない、泡のままで構わないと断ったが……少女は結局、魔女ともう一度取引をし、足をもらったあの日にこうして戻って来てしまった。
引き換えたものが何なのか、何故もう一度取引をしたのか。どうしてもそれだけを思い出せぬ少女に、王子は今回もまた、あの婚約者オルベルを紹介した。
「彼女は嵐の夜、僕を救ってくれた命の恩人なんだよ」
前回と全く同じ、熱い眼差しと共に。
……もしかしたら、王子様と結ばれる為に戻ってきたのではないか。本当は自分が命の恩人なのだと伝えられれば、王子様に愛され、結婚して、人間のまま幸せに暮らせるのではないか。少女は少しだけ、そんな生温い夢を見た。
だが、こうして同じ日々を繰り返したことにより、あることに気付いてしまった。
王子がオルベルを妃にと望んだのは、命の恩人だからではない。ただ、オルベルを愛しているからだということに。もし自分が命の恩人だと伝えたところで、王子は決して、自分を愛することはないと。
本当は、前回も気付いていたのかもしれない。気付いていたのに傷付きたくなくて、喋れない、文字も書けないからと逃げていたのだ。本当に伝えたいのなら、どんな手段だってあったはずなのに。
愛を深め結婚へと向かう二人を、少女は今回も傍で見ているだけしか出来なかった。
結婚式を挙げた二人は、隣国へ新婚旅行に向かう為、船に乗り込む。
「殿下にも私にとっても、貴女は可愛い妹のような女性よ。是非一緒に来てね」
目も眩む程美しい花嫁。手を握られ、少女はまたしても頷いてしまった。
何故もう一度戻ってきたのか。それを思い出せぬまま、少女は今回も船に乗り込み、儚い泡になろうとしている。
月が照らす仄暗い海面。ぷくぷくと細かい泡を立てながら、鮮やかな色がそこかしこに浮かぶ。それは少女の姉達の頭だったが、腰まであったはずの美しい長い髪は、耳の下でバッサリと切られてしまっている。一番上の姉の手には、月明かりにギラリと光る何かが握られていた。
「この短剣で王子の心臓を貫くのよ! そうすれば貴女は、海の泡にならずに人魚に戻れるわ!」
(そう……お姉様達は美しい髪と引き換えに、魔女からあの短剣を手に入れてくださったのだったわ。愚かな取引をした私を助ける為に……
だけど私は、愛する人を殺めることなど出来なくて、結局海に身を投げてしまった)
「さあ! 早く受け取って!」
姉に急かされるも、どのみち今回も出来るはずがない。ならばさっさと海に飛び込んでしまおうと思った時、少女の中心を、泡になったあの夜の記憶が鋭く突き抜けた。
◇◇◇
『……哀れな人魚のお姫様。あんなに素晴らしい声を捨てて平凡な足を手に入れたのに、王子様には愛してもらえなかったようだね』
『…………』
『どうだい? アタシともう一度取引をしないかい?』
『いいえ……もう二度と、こんな苦しい思いはしたくないの。泡のままで構わないわ』
『……時を戻してやると言ったら?』
『…………』
『魔女の魂と引き換えに、時を戻してやろう』
『魔女……?』
『ああ。王子を殺せなかったこの剣で、今度は魔女の心臓を刺すのさ。地の魔女の魂は、海の魔女の大好物だからね』
『……どういうこと? 地の魔女って?』
『オルベル……あの女は、人間の身体を借りた地の魔女さ。王子を殺して、腹の子を玉座に就けようとしている。魔女の血を引くその子は、いつか暴君となり、平和なマリナージュ国は血に染まる。地の魔女が大好きな、人間の生き血にね』
『まさか……そんな……!』
『信じられぬなら見せてやろう。お前が海に飛び込んだ後、王子の部屋で何が起こったかを』
魔女が人差し指をくいと折り曲げるだけで、泡になった少女はすいっと海面に浮上する。そのまま宙を飛び、船縁を越えて、あっという間に王子の部屋へやって来た。扉をすり抜け、目にした光景に、少女は思わず目を背ける。
船室の狭い寝台の上、一糸纏わぬ姿で絡み合う男女。獣みたいに熱い息を吐き、狂った声を上げるのは、あの美しい王子とオルベルだった。
(見たくない……見たくない……)
少女の意思に反し、泡となった無力な身体は、淫らな二人へと近付いていく。
(見たくない……見たくない!!!)
声なき叫びと同時に、オルベルの指から鋭い爪が伸びる。それは王子の、少し汗ばんだ、滑らかな背中に突き刺さった。
(オルベル……様?)
残酷な笑みを浮かべながら、長い爪を引き抜くオルベル。倒れ込む王子を胸に抱き、恍惚と血飛沫を浴びている。口元に飛んだ赤い滴を、青い舌でペロリと舐めると、『魔女』から『人間』の顔に戻し、きゃあと盛大な悲鳴を上げた。
『誰か……誰か来て! 殿下が……殿下があの娘に……! あの娘を捕まえて!』
少女は理解した。
オルベル……いや、地の魔女は……王子を殺め、その罪を自分に着せたのだと。
慌ただしくなる部屋で、ドクドクと血を流し続ける王子。何も出来ずに眺めている内に、いつの間にか少女は海に戻っていた。
呆然とする少女に、海の魔女は愉快そうに告げる。
『王子に想いを寄せていたお前は、結婚した二人に嫉妬し、寝室に忍び込んで王子を刺した。兵が船中を探すも、当然お前の姿はどこにもない。王子の後を追って海に身投げしたのだろう……と都合良く片付けられたようだね』
『そんな……王子様……王子様が』
少女は激しく混乱する。あれ程愛し合っていた女性が実は残酷な魔女で、夜伽の最中に王子を殺してしまうなど、誰が予想出来ただろうか。
(彼に生きていて欲しいと、幸せになって欲しいと海に飛び込んだ私は、一体何だったのだろう。
泡になる前に、やるべきことがあったはずだ)
『……時を戻してくれるの?』
『ああ。必ず地の魔女の魂を持って来ると約束するなら、足を授けた日に時を戻してやろう。お前からは既に声をもらっているからね。後払いで構わんよ』
『もし魂を持って来られなかったら……約束を守れなかったら?』
『守れるさ。お前は必ず魔女を殺してくれるだろうから。だが念の為、記憶は調整させてもらおう。二度目の今日、突如全てを思い出したお前が、確実に魂を手に入れられるように。……余計なことを考えずにね』
『……分かったわ』
『だけど、本当にいいのかい? 次の取引は、お前にとっては何のメリットもないんだよ。王子は命を救われ、アタシは地の魔女の魂を得るが、お前はもう一度泡になるだけだ。前回のように、人間になれば愛されるなんていう、淡い希望すらない。たとえ魔女を殺したところで……』
少女は魔女の言葉を遮る。
『構わないわ。王子様とマリナージュ国を救えるなら。それが私の望みだから』
◇◇◇
「さあ! 早く! 早く受け取って!」
姉の言葉に、少女ははっと我に返る。
(思い出したわ……全て。私がやるべきことも)
迷いはない。海の魔女に見せられたあの悪夢以上に、怖いものなどないのだから。
少女は姉の手から短剣を受け取った。
甲板を踏みしめ、王子の部屋へと向かうも、何故か兵とは一人も遭遇しない。
まるで地獄へ導かれているようねと、少女はくすりと笑う。
とうとう部屋に辿り着いてしまった。そっとドアを押せば、待ち構えていたように簡単に開く。
そこに広がっていたのは、魔女に見せられたあの淫靡な悪夢。狭い寝台の上、一糸纏わぬ姿で絡み合う、王子とオルベルだった。
獣みたいに熱い息を吐く雄と、狂った声でよがる雌。……自分が此処に立っていることにも気付かずに。
(見たくない……見たくない)
黒くドロドロした感情が、少女の胸を支配する。王子を守るでも、国を救うでも何でもない。ただ己の為に、少女は剣を握り締めた。
寝台へと一気に近付き、オルベルに跨がる王子を引き剥がすと、赤い花が咲く白い胸に剣を突き立てた。たった今まで王子に愛されていた、その忌々しい胸に。
地の魔女はぎゃあと悲鳴を上げ少女を睨みつけるも、貪欲な短剣に魂を奪われ、呆気なく息絶えた。
魔女の魂が抜けたその身体は、もう『オルベル』ではない。中身のない、空っぽの、どこかの女だった。
剣を引き抜けば真っ赤な血飛沫が宙を舞い、白いシーツを染めていく。鮮烈な色彩をぼんやりと眺める少女を、何かがどんと突き飛ばした。
「オルベル……オルベル!!」
たった今、少女を突き飛ばした手で空っぽの女を搔き抱き、悲痛な声で叫ぶ王子。やがて、もう戻らないことを知ると、少女へゆっくりと顔を向ける。
愛していたエメラルドの瞳。
海のように深く、優しいエメラルド色の瞳。
それは今、少女への激しい憎悪に歪んでいた。
「よくも……よくも私のオルベルを!!」
少女の胸を凄まじい感動が襲う。こんなに熱い目で見てもらえたことなど、今までにあっただろうか。嬉しいはずなのに、じんじんと高揚する頬には、冷たい涙が伝っていた。
(ずっと憎んでいて。ずっとずっと、私を忘れないでいて)
王子が兵を呼ぶより早く、少女は短剣を胸に抱き、部屋を飛び出す。甲板を走り、船縁を越えると、微笑みながら暗い海へ飛び込んだ。
「……お前なら、必ず約束を守ってくれると信じていたよ。純粋な恋心ほど、愚かなものはないからねえ」
泳ぐことも出来ずに、ただ沈みゆく小さな身体。その腕から、海の魔女は魂の入った短剣を受け取る。
「ゆっくりおやすみ。哀れな人魚のお姫様。……暗い海で、永遠に」
魔女がニタリと笑うと、少女はもう一度泡になった。
無色透明だった前とは違い、黒く淀んだ泡に。
己の為に殺意を抱いた少女は、天に召されることも消えることも叶わず、永遠に暗い海を彷徨い続けることになる。
長い長い年月が経っても、誰一人、哀れな泡に気付く者は居なかった。
◇◇◇
女は冷えきった手に、奇妙なそれを掬う。
「……汚い泡ね。こんな綺麗な海に、一人ぼっちで」
逆さにしても、波で揺すっても。頑なに自分にしがみつくそれに、女はふっと笑う。
「いいわよ。おいで」
手のひらに泡を乗せたまま、沖へ押し流そうとする波を躱し、何とか浜へ戻る。もう二度と履くつもりはなかった靴から遺書を取り出し、その中に泡を入れた。
裸足のまま、重い腰を砂浜に落とし、泡へ向かって力なく呟く。
「戻って来てしまって……馬鹿ね。一人ぼっちで、これからどう生きていけばいいのかしら」
さっと風が吹き、暗い雲間から一筋の光が差す。
靴の中で揺れていた泡は、黒から無色透明へと変わり、やがて虹色に弾けながらキラキラと消えていく。
「……あなた、本当はとても綺麗だったのね」
微笑みながら天を仰ぐ女の胸を、甘酸っぱい歌声が優しくそよいだ。
ありがとうございました。