表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚姫は、もう一度泡になる

作者: 木山花名美

 

「……何かしら」


 肩まですっぽり海水に浸かり、たぷたぷと波に揺られる女の前に、奇妙なものが浮かんでいる。ピンと張った膜の中で、黒いもやが渦巻く一粒の珠。

 それは、『泡』と呼ぶべきものかもしれない。だが、どんなに波に揺られても、流されることも消えることもなく、そこに留まり続けている。

 まるで女の行く手を阻むかのように────




 ◇◇◇


「……大丈夫か? おい、おい!」


 愛しい声にくすぐられ、少女はハッと目を覚ます。


(ここは…………)


 張り付いた海草と砂以外には、何一つ持たない裸の身体。何かを奪われ、ひりひりする喉。

 顔を上げれば、陽の光にキラキラと輝くエメラルドが、自分を覗いていた。海のように深く、優しいエメラルド色の瞳。


(王子様……)


 パクパクと口を開けるも、少女の喉からは掠れた息が漏れるだけ。一言も発せぬまま、砂を含んだ風を吸ってしまい、ゲホゲホと咳込んだ。


「無理しないで」


 エメラルド色の美しい青年は、自分の上着を少女に掛けると、その背を優しく擦る。



(私……本当に戻って来たのね。

 海の泡になってしまったけれど、もう一度戻って来ることが出来たのね)


 ぼんやりした記憶の中、少女の頬には哀しい涙が伝っていた。



 ◇


 親切な王子は、今回も少女を城に連れて帰り、手厚く保護した。

 喋ることも文字を書くことも出来ない。帰るべき家も頼るべき家族も分からぬと首を振る少女に、好きなだけ此処に居ていいと。


 自分でドレスを着て、『足』には靴だって履ける。海にはない色々な道具も、教わらなくても難なく使えた。

 身体が覚えている記憶を、心の記憶がゆっくりと辿っていく。少女は、自分がやるべきことを必死に思い出そうとしていた。



 ────かつて人魚だった少女は、船縁に立つ美しい王子に恋をした。潮風になびく金の髪と、エメラルド色の瞳。揺れる波間からこっそり覗いたその姿は、大好きな真珠よりも、珊瑚礁よりも、少女の胸を甘くときめかせた。

 ある夕暮れ、少女は気付く。王子が船縁へ出て来るのは、自分が歌を歌っている時だと。嬉しくて嬉しくて、それからは自分の為ではなく、彼の為に歌った。疲れている時は優しい歌を。寂しそうな時は明るい歌を。想いを込めて、彼の為だけに歌った。

 波間に耳を傾け、微笑わらってくれるなら。少女はそれで充分幸せだった。


 嵐の夜、少女は、海に投げ出された王子を助けた。

 胸に抱いた温かい肌、空気を送った柔らかな唇。遠い太陽に触れてしまった少女は、強烈な残像に苦しむ。

 もっと王子の傍へ行きたい、その為には尾ひれではなく足が欲しいと、海の魔女を訪ねた。



『その美しい声と引き換えに足をやろう。但し王子に愛されなければ、お前は海の泡になって消えてしまうよ』


 危険なその条件を、少女は呑み込んでしまう。

 王子と繋がっていた大切な声を手放してでも、少女はもう一度、あの太陽に触れたかったのだ。



 砂浜で目が覚めた少女は、王子に救われ、城で保護される。

 一歩……また一歩。傍に居れば、いつかは自然に太陽に近付けると思っていた。けれど、ある日突然、何の心の準備もなく、『婚約者』を紹介されてしまった。


『彼女は嵐の夜、僕を救ってくれた命の恩人なんだよ』……と。


 肩を抱き、見つめ合う二人。彼女を映す王子の瞳には、少女には決して向けられない、甘酸っぱい熱が灯っていた。

 貴方を助けたのは本当は私だと、叫びたくても声が出ない。どうして声を捨ててしまったのだろうと、後悔したがもう遅かった。


 愛されないなら、王子の胸をこの剣で貫け。そうすれば貴女は泡にならずに済むと姉達は言うが、とてもそんなことは出来ない。

 結局少女は海に身を投げ、自ら泡になることを選んだのだ。



 泡になり波に漂っていた少女の前に、あの魔女が再び現れこう言った。


『…………と引き換えに、時を戻してやろう』


 もう二度とこんな苦しい思いはしたくない、泡のままで構わないと断ったが……少女は結局、魔女ともう一度取引をし、足をもらったあの日にこうして戻って来てしまった。


 引き換えたものが何なのか、何故もう一度取引をしたのか。どうしてもそれだけを思い出せぬ少女に、王子は今回もまた、あの婚約者オルベルを紹介した。


「彼女は嵐の夜、僕を救ってくれた命の恩人なんだよ」


 前回と全く同じ、熱い眼差しと共に。


 ……もしかしたら、王子様と結ばれる為に戻ってきたのではないか。本当は自分が命の恩人なのだと伝えられれば、王子様に愛され、結婚して、人間のまま幸せに暮らせるのではないか。少女は少しだけ、そんな生温い夢を見た。

 だが、こうして同じ日々を繰り返したことにより、あることに気付いてしまった。

 王子がオルベルを妃にと望んだのは、命の恩人だからではない。ただ、オルベルを愛しているからだということに。もし自分が命の恩人だと伝えたところで、王子は決して、自分を愛することはないと。

 本当は、前回も気付いていたのかもしれない。気付いていたのに傷付きたくなくて、喋れない、文字も書けないからと逃げていたのだ。本当に伝えたいのなら、どんな手段だってあったはずなのに。


 愛を深め結婚へと向かう二人を、少女は今回も傍で見ているだけしか出来なかった。



 結婚式を挙げた二人は、隣国へ新婚旅行に向かう為、船に乗り込む。


「殿下にも私にとっても、貴女は可愛い妹のような女性ひとよ。是非一緒に来てね」


 目も眩む程美しい花嫁オルベル。手を握られ、少女はまたしても頷いてしまった。


 何故もう一度戻ってきたのか。それを思い出せぬまま、少女は今回も船に乗り込み、儚い泡になろうとしている。



 月が照らす仄暗い海面。ぷくぷくと細かい泡を立てながら、鮮やかな色がそこかしこに浮かぶ。それは少女の姉達の頭だったが、腰まであったはずの美しい長い髪は、耳の下でバッサリと切られてしまっている。一番上の姉の手には、月明かりにギラリと光る何かが握られていた。


「この短剣で王子の心臓を貫くのよ! そうすれば貴女は、海の泡にならずに人魚に戻れるわ!」



(そう……お姉様達は美しい髪と引き換えに、魔女からあの短剣を手に入れてくださったのだったわ。愚かな取引をした私を助ける為に……

 だけど私は、愛する人を殺めることなど出来なくて、結局海に身を投げてしまった)



「さあ! 早く受け取って!」


 姉に急かされるも、どのみち今回も出来るはずがない。ならばさっさと海に飛び込んでしまおうと思った時、少女の中心を、泡になったあの夜の記憶が鋭く突き抜けた。



 ◇◇◇


『……哀れな人魚のお姫様。あんなに素晴らしい声を捨てて平凡な足を手に入れたのに、王子様には愛してもらえなかったようだね』


『…………』


『どうだい? アタシともう一度取引をしないかい?』


『いいえ……もう二度と、こんな苦しい思いはしたくないの。泡のままで構わないわ』


『……時を戻してやると言ったら?』


『…………』


『魔女の魂と引き換えに、時を戻してやろう』


『魔女……?』


『ああ。王子を殺せなかったこの剣で、今度は魔女の心臓を刺すのさ。地の魔女の魂は、海の魔女(アタシ)の大好物だからね』


『……どういうこと? 地の魔女って?』


『オルベル……あの女は、人間の身体を借りた地の魔女さ。王子を殺して、腹の子を玉座に就けようとしている。魔女の血を引くその子は、いつか暴君となり、平和なマリナージュ国は血に染まる。地の魔女が大好きな、人間の生き血にね』


『まさか……そんな……!』


『信じられぬなら見せてやろう。お前が海に飛び込んだ後、王子の部屋で何が起こったかを』



 魔女が人差し指をくいと折り曲げるだけで、泡になった少女はすいっと海面に浮上する。そのまま宙を飛び、船縁を越えて、あっという間に王子の部屋へやって来た。扉をすり抜け、目にした光景に、少女は思わず目を背ける。


 船室の狭い寝台の上、一糸纏わぬ姿で絡み合う男女。獣みたいに熱い息を吐き、狂った声を上げるのは、あの美しい王子とオルベルだった。



(見たくない……見たくない……)


 少女の意思に反し、泡となった無力な身体は、淫らな二人へと近付いていく。


(見たくない……見たくない!!!)


 声なき叫びと同時に、オルベルの指から鋭い爪が伸びる。それは王子の、少し汗ばんだ、滑らかな背中に突き刺さった。



(オルベル……様?)



 残酷な笑みを浮かべながら、長い爪を引き抜くオルベル。倒れ込む王子を胸に抱き、恍惚と血飛沫を浴びている。口元に飛んだ赤い滴を、青い舌でペロリと舐めると、『魔女』から『人間』の顔に戻し、きゃあと盛大な悲鳴を上げた。


『誰か……誰か来て! 殿下が……殿下があのに……! あのを捕まえて!』


 少女は理解した。

 オルベル……いや、地の魔女は……王子を殺め、その罪を自分に着せたのだと。



 慌ただしくなる部屋で、ドクドクと血を流し続ける王子。何も出来ずに眺めている内に、いつの間にか少女は海に戻っていた。

 呆然とする少女に、海の魔女は愉快そうに告げる。


『王子に想いを寄せていたお前は、結婚した二人に嫉妬し、寝室に忍び込んで王子を刺した。兵が船中を探すも、当然お前の姿はどこにもない。王子の後を追って海に身投げしたのだろう……と都合良く片付けられたようだね』


『そんな……王子様……王子様が』


 少女は激しく混乱する。あれ程愛し合っていた女性が実は残酷な魔女で、夜伽の最中に王子を殺してしまうなど、誰が予想出来ただろうか。



(彼に生きていて欲しいと、幸せになって欲しいと海に飛び込んだ私は、一体何だったのだろう。

 泡になる前に、やるべきことがあったはずだ)



『……時を戻してくれるの?』


『ああ。必ず地の魔女(オルベル)の魂を持って来ると約束するなら、足を授けた日に時を戻してやろう。お前からは既に声をもらっているからね。後払いで構わんよ』


『もし魂を持って来られなかったら……約束を守れなかったら?』


『守れるさ。お前は必ず魔女オルベルを殺してくれるだろうから。だが念の為、記憶は調整させてもらおう。二度目の今日、突如全てを思い出したお前が、確実に魂を手に入れられるように。……余計なことを考えずにね』


『……分かったわ』


『だけど、本当にいいのかい? 次の取引は、お前にとっては何のメリットもないんだよ。王子は命を救われ、アタシは地の魔女(オルベル)の魂を得るが、お前はもう一度泡になるだけだ。前回のように、人間になれば愛されるなんていう、淡い希望すらない。たとえ魔女オルベルを殺したところで……』


 少女は魔女の言葉を遮る。


『構わないわ。王子様とマリナージュ国を救えるなら。それが私の望みだから』



 ◇◇◇


「さあ! 早く! 早く受け取って!」


 姉の言葉に、少女ははっと我に返る。


(思い出したわ……全て。私がやるべきことも)


 迷いはない。海の魔女に見せられたあの悪夢以上に、怖いものなどないのだから。

 少女は姉の手から短剣を受け取った。


 甲板を踏みしめ、王子の部屋へと向かうも、何故か兵とは一人も遭遇しない。

 まるで地獄へ導かれているようねと、少女はくすりと笑う。


 とうとう部屋に辿り着いてしまった。そっとドアを押せば、待ち構えていたように簡単に開く。

 そこに広がっていたのは、魔女に見せられたあの淫靡な悪夢。狭い寝台の上、一糸纏わぬ姿で絡み合う、王子とオルベルだった。

 獣みたいに熱い息を吐く雄と、狂った声でよがる雌。……自分が此処に立っていることにも気付かずに。


(見たくない……見たくない)


 黒くドロドロした感情が、少女の胸を支配する。王子を守るでも、国を救うでも何でもない。ただ己の為に、少女は剣を握り締めた。


 寝台へと一気に近付き、オルベルに跨がる王子を引き剥がすと、赤い花が咲く白い胸に剣を突き立てた。たった今まで王子に愛されていた、その忌々しい胸に。

 地の魔女(オルベル)はぎゃあと悲鳴を上げ少女を睨みつけるも、貪欲な短剣に魂を奪われ、呆気なく息絶えた。


 魔女の魂が抜けたその身体は、もう『オルベル』ではない。中身のない、空っぽの、どこかの女だった。

 剣を引き抜けば真っ赤な血飛沫が宙を舞い、白いシーツを染めていく。鮮烈な色彩をぼんやりと眺める少女を、何かがどんと突き飛ばした。


「オルベル……オルベル!!」


 たった今、少女を突き飛ばした手で空っぽの女を搔き抱き、悲痛な声で叫ぶ王子。やがて、もう戻らないことを知ると、少女へゆっくりと顔を向ける。


 愛していたエメラルドの瞳。

 海のように深く、優しいエメラルド色の瞳。

 それは今、少女への激しい憎悪に歪んでいた。


「よくも……よくも私のオルベルを!!」


 少女の胸を凄まじい感動が襲う。こんなに熱い目で見てもらえたことなど、今までにあっただろうか。嬉しいはずなのに、じんじんと高揚する頬には、冷たい涙が伝っていた。


(ずっと憎んでいて。ずっとずっと、私を忘れないでいて)


 王子が兵を呼ぶより早く、少女は短剣を胸に抱き、部屋を飛び出す。甲板を走り、船縁を越えると、微笑みながら暗い海へ飛び込んだ。




「……お前なら、必ず約束を守ってくれると信じていたよ。純粋な恋心ほど、愚かなものはないからねえ」


 泳ぐことも出来ずに、ただ沈みゆく小さな身体。その腕から、海の魔女は魂の入った短剣を受け取る。


「ゆっくりおやすみ。哀れな人魚のお姫様。……暗い海で、永遠に」


 魔女がニタリと笑うと、少女はもう一度泡になった。

 無色透明だった前とは違い、黒く淀んだ泡に。

 己の為に殺意を抱いた少女は、天に召されることも消えることも叶わず、永遠に暗い海を彷徨い続けることになる。


 長い長い年月が経っても、誰一人、哀れな泡に気付く者は居なかった。




 ◇◇◇


 女は冷えきった手に、奇妙なそれを掬う。


「……汚い泡ね。こんな綺麗な海に、一人ぼっちで」


 逆さにしても、波で揺すっても。頑なに自分にしがみつくそれに、女はふっと笑う。


「いいわよ。おいで」


 手のひらに泡を乗せたまま、沖へ押し流そうとする波を躱し、何とか浜へ戻る。もう二度と履くつもりはなかった靴から遺書を取り出し、その中に泡を入れた。

 裸足のまま、重い腰を砂浜に落とし、泡へ向かって力なく呟く。


「戻って来てしまって……馬鹿ね。一人ぼっちで、これからどう生きていけばいいのかしら」


 さっと風が吹き、暗い雲間から一筋の光が差す。

 靴の中で揺れていた泡は、黒から無色透明へと変わり、やがて虹色に弾けながらキラキラと消えていく。


「……あなた、本当はとても綺麗だったのね」


 微笑みながらそらを仰ぐ女の胸を、甘酸っぱい歌声が優しくそよいだ。



ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  プロローグとラストの繋げ方がいいですね!(´꒳`)   文章も流れるようにすっと読むことができるので、5000文字が長く思わないのですよね。いつもすごいなぁと思っています。  人魚姫。…
[良い点]  生温い夢の果てにあったもの。  二度目を望んだ時の気持ちには偽りはなかったのでしょうけど。  憎悪と恋情は紙一重、でも確実に違う。  堕ちきれず伝う涙がラストの奇跡を引き寄せたのかな、…
[良い点] 「人魚姫」の持つ仄暗い背徳感。 自己犠牲という自己満足、エロティックなエゴイズム。 とても面白く拝読いたしました。 [一言] 大人の童話、シリーズで読みたいです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ