ウソつき
彼女は顔をあげ、涙をこぼしたまま、こちらへ近づいてきた。
一歩、二歩。
どこまで近づいてくる気なのか分からなかった俺は、素直に言えば「恐怖した」。接近スピードから推測すると、こちらへ身をあずけてくる可能性があった。
俺は生身の女には触れたくなかった。それがこの模倣子の世界であっても、だ。頭がどうにかなるくらい好きだった女を、崖から突き飛ばしたときの記憶がフラッシュバックする。世界のすべてを拒絶して、殻に閉じこもりたくなる。たとえば雨に閉ざされた子供部屋のように。
だが、避けることもできなかった。
もし俺が受け止めなかったら?
彼女は行き場を失ってしまう。
予想通り、彼女は身をあずけてきた。
まったく攻撃性のない、柔らかい、体温のある肉体。
それでも鳥肌が立った。
ところが彼女は、俺の予想した理由で抱き着いてきたのではなかった。すぐにすっと距離を取り、こう言ったのだ。
「誰ですか?」
質問の意図は分かった。
俺の体内には、俺じゃない誰かがいる。そいつは人間の体をしていない。必要な部分だけ摘出されて、パッケージングされている。
「俺も知らない」
「なら、そこに姉妹を入れたのは、他人の意思ってことですね」
「姉妹?」
いちおう聞き返したものの、答えはもう分かっていた。
十二番の姉妹。つまりは木下沙織の娘だ。父親は不明。例によってどこかの誰かだろう。
十二番も答えなかった。
「またあの女の計画ですか?」
「まあ、そうなるな……」
すると彼女は、今度は力強くこちらを突き飛ばしてきた。
「なんで!? なんでいっつもそうなんですか!? どうせここへ来たのもあの女に言われたからなんでしょう!?」
「そうだ」
「なんで!? 答えてください! なんでそうまであの女の命令に従うんです!? もう償いはしましたよね? みんな自由になったんですよね?」
余計に泣かせてしまった。
俺はすっと空気を吸い込んだ。
ああ。
ここは……当時の空気のままだ。模倣子の世界だから、現実の世界とは違う。なのに……いや、だからこそ、すべてが当時のまま保存されている。不快になるほど完璧に。
湿った雑木林のにおいだ。樹木のにおいなのか、雑草のにおいなのか、腐葉土のにおいなのかは分からないが……。大自然の空気は、必ずしも爽快ではない。場所によっては、こういう雑多なにおいがする。
「彼女は自由だ。けど、俺は違う」
「なんで……ですか……?」
もう声を張り上げる力すら失った様子だった。
こちらが亡霊みたいな返事ばかりしているせいだろう。
「俺がそう望んだからだ」
「くだらないですよ、そんなの……」
「誰かにとってはそうなのかもな。俺にとってはそうじゃないが。ま、執着ってのはそういうもんだ」
すると彼女は、前髪の隙間から、血走った眼をこちらへ向けてきた。
「おかしいですよ。ここを出たら、私、あの女を殺すかも」
「やめてくれ」
「あなたを自由にするには、それしかない」
おそらく本気ではないだろう。
それはなんとなく分かる。
分からないのは、別の問題だ。
彼女は、俺を恨んではいないのだろうか?
父親を殺したのに?
「俺は自分の意思でこれをやってるんだ」
「ウソつき」
「ウソじゃない。昨日か今日出した結論でもない。人生の大半をかけて出した結論だ」
「そうやって操り人形みたいに生きていくつもりですか?」
「そうだな。けど、反論する前に聞いてくれ。俺は、彼女の件で、あまり自我を出したくないんだ。自我を出すと……また彼女に致命傷を与えることになるからな。あの女はアバズレだ。誰とでもヤる。俺以外の誰とでも。頭がおかしくなるよ。本当に。ぶっ殺したくなる。全然直ってないんだ。けど、それがなんだっていうんだ? そんなの、もともと彼女の自由だろ? おかしいのは俺のほうなんだ。俺は許されないことをした。俺の命は、あの女のものだ」
「バカですよ……そんなの……」
おそらく彼女が正しい。
バカなのだ。
はじめに極端なことをして、その結果をカバーするため、また極端なことをしている。
この世には、キャバクラに財産を継ぎ込む男がいる。
ホストに金をみつぐ女もいる。
俺はそいつらをバカだと思って眺めていた。
だが、同じだ。
俺はずっと同じ女に執着し続け、人生のあらゆる時間を捧げてきた。見返りも求めた。最初は身体を欲した。いまは……きっと許しを欲している。言葉だけでなく、本当の許しを。それがなんなのか自分でも分かっていないのに。
俺は朽ち錆びたロッカーに腰をおろした。
「ま、座って話そうぜ」
「はい……」
彼女も隣に来た。
急に思い出した。
この横倒しになったロッカーは、俺と木下さんの特等席だった。
ここに座り、日が落ちるまでずっと話をした。クラスメイトの誰がどうしたとか、テレビの話とか、漫画の話とか。
彼女の話はつまらなかった。きっと彼女も、俺の話をつまらないと思っていたはず。
それでも、一緒にいたかったから、いた。
「例の秘書が、あんたらをここに送ったって話は聞いた。もう部下でもないのに、なぜ命令に従ったのかは分からないが」
「命令ではなく、業務として来ました」
「オルガンの修理?」
「そうです。でも、修理を望んでいるのは間宮そーらーだけ。もっと悪い大人たちは、オルガンの破壊を望んでいます。証拠を隠滅したいんです。手に負えなくなってしまったから……」
ワームホールが開いたままだと、いずれ遺伝子と模倣子の世界がゴチャゴチャに混ざり合ってしまう。
既存の法則が通じなくなる。
世界秩序が一変する。
それは大災害とイコールだ。
事の重大さに気づいていないのは、間宮そーらーと無邪気な信者だけ。
その背後にいる連中、つまり秘書やその上司、新たな出資者たちは、一線を超えてからヤバさに気づいたのだ。オルガンは邪魔になった。
「俺も同じ依頼を受けた。協力できると思う」
「もちろんそのつもりです」
言葉は強い。
だが、彼女の態度はそうではなかった。有機周波数にも乱れがある。
「なにか懸念が?」
「懸念だらけです……。きっと逃げ出したくなりますよ。ここは耐えがたいことの連続です」
「具体的には?」
「死んだはずの人間が現れます……」
死んだはずの人間が、現れる。
記憶の中にある顔が、次々と思い浮かんだ。
最初は天使ちゃん、そして業務で命を奪った名も知らぬ人々、課長、データ観測室の室長、オニゲシ、オルガンに消された警察官、カナリア、五代大。
そいつらが、ここにいる……。
十二番は指で涙をぬぐった。
「基本的には偽物です。この世界には、現実界の模倣子が蓄積していますから。それがひとつにまとまって、生きているように見えているだけ。実際は、ほとんど残像のようなものなのに。でも、この模倣子の世界では、私たちもまた模倣子ですから……互いに触れ合うことができてしまう」
「えっ? あんたはホンモノだよな? 俺も本物だけど……どう説明すれば?」
「大丈夫です。存在がしっかりしてますから」
「残像は違うのか?」
「相手によります。見ず知らずの人なら、ぼんやりした霧みたいなものとして認識されます。でも知っている人なら……こちらの認知に反応して、しっかりした存在に見えてしまいます。有機周波数に敏感な存在なら、特にその傾向は強くなって……」
きっと彼女は誰かに会ったのだ。
だから泣いていた。
「望まぬ相手と再会する可能性があるってわけか」
「その逆も……」
「逆?」
望んだ相手にも会えるのか?
だとしたら、天使ちゃんと再会することも可能ということなのか?
彼女はかぶりを振った。
「とにかく、ここはなにもかもが異常です。死んでも生き返りますし」
「えっ?」
「じつは私、いま死んで生き返ったばかりなんです」
「誰に……殺されたのかを聞いても?」
「オニゲシです……」
オニゲシは十二番の姉妹だ。
それも父母が同一の。
つまりどちらも、木下沙織と五代大の遺伝子を受け継いでいる。特に説明の要らない姉妹。
そして一方は生き延び、一方は死亡した。殺したのは俺だ。オニゲシは、自分を茨城の研究所に送った十二番を恨んでいた。
俺はつい溜め息をついた。
「悪かったな」
「もう謝らないでください。私の望んだことです。本来なら私が自分でやるべきだったのに、あなたにやらせてしまった」
そうかもしれない。
それでも事実として、俺は、彼女の家族を二人も射殺してしまった。あのときは必死だった。いま思い返すと……。いや、他に選択肢はなかった。それでも、もっとうまくやれたのではないかと自問自答してしまう。
空気が悪くなったと思ったのか、彼女は話題を変えてくれた。
「もう一点。ここで遭遇するのは、死んだ人間だけではありません。私たちみたいに、生きたまま模倣子になった人間とも遭遇すると思います」
「えっ? あ、そうか。そうだな。じゃあ、カナリアは……」
「います。ただ、喉を失ったまま転送されたので……」
想像したくもない。
たしかに、彼女がオルガンに消されたとき、喉の機械だけが現場に残された。つまり彼女は、喉のパーツを欠いた状態でここへ送られたのだ。組織が開発したオルガンは、まだ無機物に対応していなかった。
いや、それだけじゃない。
俺たちに情報をくれた元警察官は、四肢を置き去りにしたまま消された。
オルガンは人を幸せにしない。
少なくとも未調整のまま使っていい機械ではなかった。
「ま、ともかく、だ。俺たちはオルガンを壊せばいい。修理する必要もない。そう考えれば、少しは楽になる。問題は、もとのハードルが限りなく高いってことだが」
「はい。きっと不可能だと思います」
「はい?」
いま、さらっとおかしなことを言ったな。
不可能?
なぜ断言できる?
十二番はもう泣いてはいなかった。その代わり、達観したような、諦めきったような表情で、はるか遠くを見つめていた。
「彼女は、もう神のような存在になってしまいました」
「彼女って? いったい誰のことを言ってるんだ?」
「教えません。でも、お手伝いしますよ。あなたにはそれをする理由がありますから」
「隠し事はナシにしようぜ」
「時期が来たらお話しします。そのほうが作戦の成功率があがるので」
彼女はクレバーだ。少なくとも俺より情報を持っている。その人間が「成功率があがる」と言っているのだから、おそらく事実なんだろう。
事実でなければ、ただのウソつきということになる。
「分かった。信じよう」
信じていないのにこんな言葉が出た。
俺もウソつきだ。
もちろん互いにウソだと分かっているのに、それでよしとしている。これはある種のゲームだ。違反が発覚するまでは知らないフリをする。しかし発覚した時点で、互いに罰し合う。
法律の問題じゃない。気分の問題だ。
俺たちは気分で生きている。
(続く)




