そして、もうひとり
「ありましたよ。アーセナル所属のナディア号の記録」
港の隅っこ、港湾管理事務所の一角で、ミハイルは書類を指でなぞりながら、
「えーっと……三日前に停泊して翌日――つまり一昨日の昼頃に出港してますね」
「行先は分からないか?」
サーニャが訊ねるとミハイルは難しい顔をして、
「無理言わないでくださいよ……流れの船にそこまで関与できませんって」
これ見よがしに肩をすくめて見せる。ソーマもつられて顔を伏せ、
「そうですか……」
残念そうにこぼす。
すると事務所内で別の仕事をしていた女性が書類の山の隙間から顔を出し、
「もしかして、ソーマ・イーゲルニッヒさんですか?」
「? はい、そうですけど……」
ソーマが答えると、女性は書類の山から一封の封書を取り出し、
「ナディアの乗組員の方から預かってましたので」
ソーマに手渡す。
「あ……ありがとうございます!」
感嘆符付きで礼を言うソーマに、女性は「確かにお渡ししましたので」と事務的に告げ、自身の仕事に戻る。だがソーマは意にも留めず封を切り、中の便箋に目を通す。
「…………。ソーマ、なんて?」
控えめに訊ねるココにソーマは振り返り、安堵の表情を浮かべながら、
「船のみんなは全員無事だ、東に向かいつつ町々で一泊ずつするから、ゆっくり追い付いてこい……だって」
ほっ、と胸を撫で下ろす。
「そっか。よかったね」
ココもそれに笑顔で返し、
「じゃあ、早くみんなに追いつけるように、さっそく出発しないとね」
ソーマの手を握る。だが、
「待て」
サーニャが制止の声をかけた。
「病み上がりの人間を放り出す訳にはいかん。もう少しばかり、この街で養生していけ」
「でも……俺達は……」
「急ぐ気持ちも分かるが、先ずは体調を万全にすることを考えろ。その間に船と資材を準備して、それからでも遅くはあるまい?」
「持ち合わせがあんまり……船どころか宿代だって……」
「ならば尚更行かせる訳にはいかんな。途中で行き倒れられても寝覚めが悪い」
正論で諭され「むぅ……」と黙り込むソーマ。そんなソーマにサーニャは、
「案ずるな、私に考えがある。なに、悪いようにはしないさ」
そう言って微笑んだ。
数十分後。ソーマはぜーはーと息を切らしながら、たんまりと家具の乗った荷車を引いていた。これらの家具はサーニャの間借りしている家から持ち出したサーニャの私物だ。
「サーニャさん……ちょっと休憩しませんか……? っていうかさせてくださいお願いします……」
「何を言っている? 若いのだからしっかり働け。のろのろしていると陽が暮れてしまうぞ」
「ソーマ、がんばって!」
汗だくで涙目を浮かべるソーマに、サーニャとココは涼しい顔でそう言い捨てた。
言う事が全くアーニャと同じなものだから、間違いなく彼女はアーニャの妹だとむしろ感心して、ソーマは歯を食いしばりながら荷車を引き続ける。
そして一軒の古道具屋にやってくると、ソーマはようやく重労働から解放された。
「ふむ。なかなかいい金になったな」
売り払った家具の代金を手に笑顔を浮かべるサーニャ。
「ご苦労だったな、ソーマ。疲れたろう?」
「……それはもう、すっごく……」
道端に座り込んでぐったりしながらソーマが答える。サーニャは微苦笑を浮かべ、
「それだけ身体が本調子ではないという事だ」
「いや、違うと思いますけど……荷物めちゃ重かったですし……」
ぼやくソーマを無視して、サーニャは札束をピンと指ではじき、
「よし、ここは一つ精の付くものでも食べに行くか。体力回復には食事と休養、これに限るからな」
言いながら二人を先導して歩き出す。
大通りに出て、どこで食事をしようかと考えながら八百屋の前を通り過ぎると、後ろから大音声の叫び声が聞こえた。
「このガキ! 待ちやがれ!」
叫び声に足を止め振り向いたソーマに、汚れたボロボロのシーツを被った小柄な人物がぶつかってきた。
「おわっ!?」
「なのっ!」
尻餅を搗いた人物のシーツが捲れると、銀色の髪に紺碧の瞳を持った、齢十にも満たない少女の素顔が露わになった。
「ドロボウだ! 捕まえてくれ!」
背後から駆けてくる店主らしき男の声に、少女は肩を震わせる。手には盗品と思しき真っ赤なリンゴが一つ、大切そうに握られていた。
「泥棒……? こんなちっちゃな子が?」
怪訝に思いながら、ソーマはしゃがみ込み少女の肩に触れる。と、
「イヤっ! はなして!」
叫び、少女はしきりに身を捩る。その間に男が駆け寄ってきて、少女の髪を乱暴に掴むと地面に引き倒し、
「クソガキが! 何度も何度も大事な売り物盗みやがって!」
「ごめんなさい! おなかがすいてしにそうだったの!」
涙ながらに許しを請う少女。
「だったら代金を払え! 立て! ボコボコにしてから官憲に突き出してやる!」
しかし男は聞く耳持たず、少女を引き摺りその場を離れ――ようとしたところをサーニャが制する。
「止せ。子供一人の不始末に手荒が過ぎるのではないか?」
「こっちだって商売なんだよ! ガキだからって許せるもんか!」
振り返り叫ぶ男にサーニャは溜め息を一つ吐き、
「幾らだ?」
「……あん?」
「その子が今まで盗んだ品の代金は幾らだ? なんなら利息と見舞金も含めて全額私が支払おう。言ってみろ」
「……帳簿を見ねえと細かい額は……」
ドスを利かせたサーニャの声にたじろぐ男。サーニャは二つ目の溜め息と共に財布から金貨を三枚取り出し、男に放って渡す。
「釣りは要らん。今すぐその子を放し店に戻れ」
「…………え、偉そうに何だよ……」
「どうした、早く戻れ。それとも金貨三枚で足らぬ程、この小柄な少女が盗った品は多いと言う気か?」
目を細め、腰に佩いた曲刀の鯉口を切るサーニャ。その静かな剣幕に男は慌てふためきながら、
「い、いや! 十分だ! 十分過ぎる!」
「ならば早う去ね」
「分かった! 今すぐ行くからやめっ……やめてぇえええええええ!」
言いながら柄に右手を添えるサーニャに、男はいよいよ恐怖に顔を歪めて一目散に走り去った。
三つ目の溜め息を吐きながら刀を戻したサーニャが少女に顔を向けると、少女はくしゃくしゃの顔に怯えの表情を浮かべる。そんな少女に目線の高さを合わせてサーニャは、
「怖かったな。だが、もう大丈夫だ」
ふわっと微笑んで、優しく少女の髪を撫でる。
「あ……あり、がとう……」
くしゃくしゃの顔を涙で更にくしゃくしゃにして、少女は謝辞を告げた。
止め処なくこぼれる涙を指で拭いながらサーニャは、
「気にするな。袖振り合うも他生の縁と言ってな――難しい言葉はまだ分らんか」
微苦笑を浮かべる。
「名は何という? 家はどこだ? 送ってやろう」
「なまえは……アイラ、なの……おうちは……ないの……」
「家が、ない? 孤児か……? ならばどこの教会だ?」
重ねて訊ねるサーニャに少女――アイラは首を横に振り、
「おっきなおふねにのせられてたの……アイラのほかにもたくさん……でもおふねにいたおねいちゃんが、アイラをにがしてくれたの……」
再び涙を滴らせる少女。サーニャは自分の額に手を宛て、舌打ちと共にぼそりとこぼす。
「奴隷商船か……年端もいかぬ少女になんと惨い……」
「……サーニャさん……」
沈痛な面持ちを向けてきたソーマにサーニャは強く頷き、
「分かっている。ここでこの子を見捨てたら武人の恥だからな。――おい、アイラ」少女の名を呼び視線を上げさせると、その碧い瞳を真っ直ぐに見据え、「私達と共に来い」
「……どこにいくの?」
不安げに訊ねるアイラにサーニャは微笑んで、
「どこ、とは決まっていないが――わけあって、これから私達は旅に出る。決して楽ではないだろうが、悠々自適な船旅だ。どうだ?」
「……でも……」
「この街に留まったところで行く宛てもないのだろう?」
「…………」
視線を伏せるアイラ。見かねたソーマはアイラの肩を優しく掴み振り向かせて、
「実は、俺とこの変な恰好したお姉ちゃんも家無しなんだ」
「変な恰好って……」
気落ちするココを無視してソーマは続ける。
「こっちの赤い人のお姉さんに危ないところを助けてもらってさ。それで命拾いしたんだよ」
「私は仮面の大佐ではないぞ……」
不機嫌顔でツッコむサーニャも無視して更に続ける。
「だからさ、アイラ。帰る家の無い人を放っぽって見捨ててくなんて、俺達には出来ないんだ。どこか別の町でアイラを引き取ってくれる新しい家族に出逢えるまで、俺達のわがままに付き合ってくれないか? アイラみたいな可愛い子が居てくれたら、長い船旅もきっと楽しくなると思うしさ」
アイラに微笑むソーマ。するとココとサーニャが顔を寄せて、
「ロリコンだね……」
「ああ、ロリコンだ……」
手で口元を隠しつつもわざとソーマに聞こえるように言う。一瞬こめかみに青筋を浮かべながらもソーマは堪えて無視し、アイラを優しく見詰める。
するとアイラは眉根を寄せて瞳に涙を浮かべ、
「……いいの……?」
おずおずと訊ねる。ソーマは笑顔でアイラの頭を撫でながら、
「もちろん。――俺はソーマ。ソーマ・イーゲルニッヒ。よろしくな、アイラ」
「そーま……そーま……。うん! おぼえたの!」
言ってアイラは花が咲いたような笑顔を浮かべ、
「よろしくね! そーまおにいちゃん!」
ソーマの首筋に抱き着く。
若干照れながらアイラを受け止めたソーマに、後ろの二人は冷たい視線を向けて、
「シスコンだね……」
「ああ、シスコンだな……」
またも聞こえるように言うのだった。