5 対談 その3
引き留める暇もなく、リチアを抱き上げたハインツが従者を連れて来た時と同じような慌ただしさで寄宿舎を出ていった。
地震の後に嵐が通り過ぎていった――そんな目まぐるしい展開の直後に生じる無の時間。リチアとディアムは黙ったまましばしその場に立ち尽くしていた。
「これ‥‥‥マズくない?」
と、ディアムはぼそりと呟き、隣で立ち尽くしていたリチアを見やった。
ハインツは娘の人格の所在を知らぬまま飛び出して行ってしまったのだ。プライドの高い貴族としては不本意だろうし、実の子としても気分の良いものではないはずだ。
自分の姿をした他人が父親に抱きしめられるなど‥‥‥どんなに歯がゆい気持ちだろうか。
ディアムは肩を竦め、なるだけ控えめな調子でリチアに声を掛けた。
「‥‥‥まぁ仕方ありませんよ。見た目からじゃ中身がどうとか判別なんてつきませんし、きっとスノウがうまいこと旦那様に説明してくれますよ。お嬢様の立場にとって代わろうとか、そんなとんでもない陰謀を考える奴じゃないので」
あまり気を落とさないでほしい。そういう気持ちを込めたつもりだった。
さっきのやり取りからリチアがだいたいどういう人なのかを考慮して、ディアムなりに気を遣ったのだ。
ところが、意外にもリチアは冷静だった。
静かに扉の方を眺めたまま、わずかに瞳を揺らしただけだった。
「‥‥‥あの様子じゃ、この事を知ったら卒倒しちゃうわね」
どこか寂しそうにそんな独白を零す。瞬きすら忘れて呆然としたその様子に、ディアムはゆっくりと視線を床に落とした。
「そう‥‥ですね」
ディアムが言った、その直後だった。
「”誰が卒倒する”って?」
この声が聞こえた瞬間、ディアムは光の速さで顔を上げた。
「だ、団長!?」
あからさまにサーっと青ざめる。
開け放たれた扉の向こうから音もなく現れたのは女性だった。ごつごつとした甲冑を身に纏った長身の女性で、シルバーの長い髪を頭の高い位置で結んでいる。
首から下、足の先まで銀色の甲冑を身に付けているというのに、どういう訳か音もなくいつの間にかそこに立っていた。
(一体いつ来たんだよ!?)
驚愕のディアムをスルーして、女性は男勝りな笑みをリチアに向けた。
「スノウ、目が覚めたようだな」
安心したぞ、と女性は重そうな装備をもろともしない、しっかりとした足取りで部屋の中へと入ってきた。そしてやはり、甲冑の音も足音もしない。
ビビりまくって数歩後ずさりするディアムに、女性はやれやれと首をゆるく振りながら距離を詰めた。
「――お嬢様が突然脱走されたと報告があったが、まさかこんなところに迷い込んでいたとはねぇ‥‥‥お前たち、お嬢様とここで何してた?」
お前たち、と言いながら、女性はディアムの眼前で仁王立ち。
(なんで俺!?)
ディアムは内心叫びたくなった。
女性は眼光鋭くディアムを見下ろしてから、リチアにも視線をスライドさせた。
女性の名は、シルベット・レ―ヴァ。オーディン家騎士団及び王家旗下第三騎士団の団長である。
普段はオーディン家とその領地を守護し、有事の際には真っ先に国王を守る王家の盾だ。幼い頃からリチアもよく知る、ハインツ直属の騎士である。
(シルベット‥‥‥普段はこんなに怖い顔をしているのね)
シルベットの鷹のごとく眼光を横目にあてられながらも、リチアはまじまじと臣下である彼女の姿を眺めてしまった。
‥‥‥ハインツといる時や、本来の自分と接している時は、常にニコニコと微笑んでいるところししか記憶しかない。
言葉も表情ももっと柔らかくて、いつも身に付けている甲冑さえ無かったら、とても剣士には見えないほど物腰穏やかな姿しかリチアは知らなかった。
これが本来のシルベットの――団長としての真の姿だったのか。思わず面食らってしまう。
沈黙するリチアの様子に何かを感じ取ったのか、シルベットが目を細めた。
何事かを発しようと口を開きかけた寸前、おろおろとまごついていたディアムが遅れてシルベットの問いに答えた。
「あのですね、お、俺達べつにやましいことはなにもしてなくて、はぃ‥‥‥」
しりすぼみに消えていく科白。気まずい上に自信もなさそうな、説得力の欠片もない否定である。どこか嘘くさい。
お陰で、もともと雲行きの怪しかったシルベットの表情から微々たる温度が抜け落ちた。眼光がますます厳しいものとなり、室内の空気が一瞬にして凍り付く。
「へぇ? 『なにも』ねぇ‥‥‥」
シルベットが失笑する。ひどく冷たい声だった。
「寝起き姿のお嬢様と年頃の雄二匹が密室で『なにも』?‥‥‥ではスノウ、何故お前は下着姿なんだ? それとディアム、お前はどうしてまだここにいる? 本当なら今頃ブレア地区にいるはずだが?」
指摘され、リチアは慌てて己の姿を見下ろし、ディアムはさらに青ざめた。
「それはその~‥‥‥」
だらだらと冷や汗を垂らしながら言い淀んだディアムは、やがてハッと何かを思いついたような顔でシルベットを見上げた。
「しゅ、出立前にスノウの様子を見ておこうかと! ほ、ほら一人で寝ているところに何かあったらいけないかなぁって――そ、そうです! 暗殺を食い止めたから報復を受けることだって無きにしもあらずですし」
ごくんと唾を飲み下し、ディアムはさらに言葉を続けた。
「お、お嬢様もきっと寝ぼけてたんじゃないですかね!? ね!?」
(それは‥‥‥ちょっと苦し過ぎない?)
リチアは思う。するとシルベットは「ほぉ?」とわずかに顎を上げた。
「――なるほど。刺客の殺気すら気づけなかった未熟者のくせに、私やその他騎士のいる宿舎のど真ん中でスノウの護衛を? 随分と腕に自信があるようだなぁディアム? 私たちの力はお前より劣ると」
「いいえ!? そ、そういうことでは」
「そのうえ立場もわきまえずにお嬢様を夢遊病扱いか。寝ぼけているのはどっちの方かな? ディアムよ」
「違います違います! 俺は決してそんな事を言ったんじゃ」
「ディアム!!」
シルベットの雷のような一喝がディアムを遮った。
「ひゃいっ!」
ディアムからおかしな悲鳴が出た。びくりと肩を浮かせ、足元から震えが脳天まで駆け抜けていく。
そして耐えきれなくなったのか、彼はとうとう奥の手に出た。
「――も、申し訳ありません団長ぉっ!」
今にも土下座しそうな勢いで頭を下げると、シルベットが口を開く前に素早く上体を起こした。すると彼はシュピっと手を胸の前にあて、オーディン家流の敬礼姿勢を取った。
「ではっ! 俺はこれでっ!」
言下、ディアムは部屋から逃げ出した。それはもう、風のような速さで。
「は?」リチアは面食らってしまい「ちょっ、ちょっとっ!?」慌てて引き留めようとしたが、逃げるように背を向けたディアムはリチアに見向きもしなかった。
壁に突進するような勢いで飛び出していくディアム。
シルベットと二人、取り残されたリチアはまたも唖然として立ち尽くしてしまった。
(嘘‥‥‥この状況で私一人?)リチアは思わず、ごくんと喉を鳴らした。
「スノウ」
(ど、どうしたらいいの‥‥‥?)
「スノウ!」
(今からでもシルベットに言うべき!? でも、信じてくれる保証なんてない!)
「――スノウ‼」
「‥‥‥え? あ、私?」
リチアは目が覚めた顔で左右を見回した。
そうだった‥‥‥今は自分が“スノウ”なのに。
やっと正気に戻ったリチアがシルベットを見上げると、彼女は奇妙な顔をして首を傾いだ。
「“私”? ――まぁいい。とにかく無事目が覚めたようで安心したよ。派遣前にこんなことになってしまって‥‥‥色々混乱しているところ悪いが、体調に問題が無いなら直ぐに事情聴取をさせてもらいたい」
勿論さっきのことも含めてな、と厳しく付け加えたシルベットだが、思いのほか落ち着いた声音であった。流れ的に「次は私の番」とリチアは思っていたのだが、どうやらシルベットにその気はないらしい。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、シルベットの言葉に引っかかりを覚えた。
(‥‥‥派遣?)
何のこと?とリチアが聞く前に、シルベットが口を開いた。
「それにしても、お前が優秀だったお陰で事なきを得たが、もしもお嬢様に何かあったら我々は全員路頭に迷うところだった‥‥‥礼を言う」
「い、いえ‥‥‥」
――そのお嬢様は私なんですけど。と思いつつ、うっかり応じてしまう。
よく見ると、シルベットは疲れ切った顔をしていて、目の下には珍しく隈まで色濃く浮かんでいた。
今回の騒動で色々あったのか、寝る暇も無いのかもしれない。リチアは自然と言葉を噤んでしまった。
(今の騎士団には副団長も部隊長もいないから‥‥‥シルベットが一番大変なのよね‥‥‥お母様の時代はまだこうじゃなかったみたいなんだけど)
苦い胸の内でもってシルベットを見つめる。するとシルベットが静かに吐息をはいた。
「‥‥‥このような事態を招いたオーディン家にも我々騎士団にも苦情が絶えない。旦那様は連日王都へ出向かねばならないし、その度に最高議会で公爵家への愚痴を聞かされる始末‥‥‥直接的なことではないが、今回王宮に派遣されることになったお前への信用度はガタ落ちだ。結局、派遣の日取りを見直すことになってしまったよ‥‥‥よって第三騎士団への入団も先延ばしになってしまってな‥‥‥すまない」
心から申し訳なさそうにシルベットが瞼を伏せた。
(派遣ってそういうこと‥‥‥)リチアは察した。
城を構える貴族の中には、雇われの傭兵ではなく専属の騎士団を持っているところがある。その中でも公爵家の騎士部隊は特別で、国王ひいては王都を守護する為の別動隊を保持していた。
それが王家旗下の騎士団である。
秀でた才能ある者で組織された少数精鋭部隊だが、そこに入るためには王宮で二年程経験を積まねばならないのだが‥‥‥どうやらこのスノウという人物はかなり優秀であったらしい。
精鋭部隊は文字通り、選りすぐりの才能を持つ者だけの組織なのだ。
(でも、それって‥‥‥今ここで私が正体を明かしたら、入団白紙なっちゃうわよね‥‥‥?)
スノウの未来が閉ざされるという事だった。
不安な表情をするリチアに何を思ったのか、シルベットは苦笑した。
「まぁあまり心配はするな。お前のために私があのいけ好かない王宮連中にとりなしておいたから。お前にとってはまたとない機会だからな。公爵家の面目もあるし、先代のセレステア様や旦那様の手前、それを潰すわけにはいかないだろう?」
セレステア‥‥‥今は亡きリチアの母親の名前である。
言葉に窮したリチアの肩を、シルベットが励ますように二度ほど叩いた。
「大丈夫だ。必ず早いうちにお前を王宮に送り出してやる。それに私としてもこれ以上オーディン家――いや、我が騎士団が舐められたままというのは癪だしな?」
王宮でだらけきっている連中に目にものを見せてやれ。そう言いながらシルベットは笑った。
「それより早く服を着ろ。あと、そんな顔をするな。ディアムはともかく、お前がお嬢様に手を出したなんて冗談でも思ってないから安心しろ」
(安心どころか、不安しかないんですけど‥‥‥)
お先真っ暗な今後の人生を憂い、リチアはがっくりと項垂れた。