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33 ”エルクリス” その4

 セイルが何を言ったのか、リチアには理解できなかった。


『エルクリス』


 この一言が決め手となったのであろう、三白眼で睨み付けてくるセイルに、え‥‥‥と戸惑うことしか出来なかった。

 ガッ!と胸倉を掴まれ、力任せに引き寄せる拳から彼の怒りが伝わってくる。


 ――なんで‥‥‥


 セイルの表情を見た瞬間、頭が真っ白になった。

 正体を見抜かれたことよりも、セイルから向けられた敵愾心(てきがいしん)の方がよっぽど胸にくるものがある。

 されるがままになるリチアに、セイルは凄んだ。


「兄さんのふりをしてまで‥‥‥うちに何の用だ? どんな目的があってこんなくだらないマネを?」


「‥‥‥セイル」


「訊いているのは俺だ。言えよ、何の目的があって兄さんの恰好をしてんだよ」


 今の自分と同じ、色素の薄い双眸が眇められる。家屋から漏れる僅かな明かりのなか、銀色に輝くその瞳はひどく印象的だった。

 セイルは、入れ替わっているということに気付いていない。目の前の人間が何らかの方法で、兄の姿に成りすましていると思っているようだ。


「見舞いに行った時から変だとは思ってた」


 セイルがいう。


「自分のことを「お兄ちゃん」とは本物の兄さんなら言わない。妙に他人行儀だし、騎士のくせに剣穂も知らない。あんなクソ高ぇ菓子の名前を知ってるのもおかしい‥‥‥「城下で人気」って‥‥‥給金のほぼ全額をこっちに送ってくれている兄さんが城下の菓子屋に行く訳ないだろ。それにあの顔‥‥‥父さんが歩けないってことアンタ、知らなかったよな?」


「っそれは‥‥‥」


 リチアは言葉に詰まってしまった。咄嗟に思い浮かぶ都合のいい言い訳なんかあるはずもなく。


「本物の兄さんはどこだ」


 剣呑な視線が突き刺さった。セイルの拳がわずかに震えている。もしかしたら兄がすでにこの世にいないかもしれないという不穏な予想をしているのかもしれない。


「とりあえず話を‥‥‥!」


「聞く前に答えろって言ってんだ。悪いが俺はマナ操作に覚えがある。――俺だけじゃない、うちは兄妹全員マナ使いだ。言わなきゃ意地でもその面の皮を剥いでやる」


 言下、セイルの体から青白い煙のようなものが生じる。――マナだ。理解した瞬間、リチアの足が地面から離れた。


「う゛っ‥‥‥‼」


 片手一本で易々と持ち上げられてしまったことに驚愕する。


(セイルは――本気だ!)


 だが、強靭な握力で胸倉を掴まれたリチアには喋ることはおろか、満足に呼吸さえままならない状況で。徐々に霞み始めた視界に、いよいよ慌てて抵抗を試みようとした――その直後だった。


「――セイル」


 セイルの手首を、白い手が掴んだのだ。


「やめろ」


 それはフードを目深に被った少女だった。小鳥のように細く澄んだ声が、セイルに蛮行を止めるよう短く命じる。大した声量もなかったのに、その声はやけによく響いた。

 今度はセイルがハッと顔色を変える番だった。フードの奥を垣間見たセイルから青白いオーラがフッと消え失せる。


「‥‥‥お前」


 力が緩み、その場に落ちたリチアが膝をつく。咳きこんだリチアに寄り添った少女は、「大丈夫ですか、お嬢様」といった。フードの隙間から深紅の髪が一房(ひとふさ)零れ落ちて‥‥‥現れた少女の正体はやはり、スノウだった。


「なんで‥‥‥ここに」


 途切れ途切れにリチアがそう訊ねると、スノウは困ったように眉尻を下げた。


「お一人で行かれたとティティさんから聞いて、嫌な予感がしたから」


 するとスノウは、ハァ‥‥‥と溜息などを吐いた。


「またなんで一人で。しかも僕の家に。そしてこんな急に‥‥‥普通に困りますので、せめて声くらいかけてってください」


 ちょっと気まずくても、と付け加える。リチアは肩を竦めた。


「それは、ごめん‥‥‥」


 見た目は見た目でも、中身は赤の他人である。窘めるスノウの意見は最もだ。


「それはそうと‥‥‥」


 スノウがちらりとセイルを見上げる。

 訝し気にこちらを眺めていたセイルは途端に肩をビクつかせた。


「な、なんだよ‥‥‥」


 怯んだように半歩ほど後退る。現れた少女の顔を知らずとも、貴族であることぐらいは分かるらしい。高貴な身分の少女がわざわざ助けに入ったという流れで、自分の立場があまりよろしくない方向に向かっているという事態を察したようだった。

 貴族には下の立場の者を独断で裁く権利がある。少女がかりそめの兄の肩を持っているという事実は、この状況を見れば明らかだった。


 狼狽えるセイルに、スノウはゆっくりと立ち上がるとフードを頭の後ろに落とす。月明りに照らし出されたその顔は、何一つ欠点の無い彫刻のように美しく、真っ直ぐに向けられた深紅の瞳には1ミリたりとも隙が無い。その燦然(さんぜん)と輝く深い赤色から覗く威光は、辛うじて残っていたセイルの気概をいとも容易くへし折った。

 どこか悄然とした表情で固まるセイルに、スノウが口を開いた。


「“敵意の無い相手にマナを使うな”‥‥‥そう教えたのは誰だった?」


「それは――!」


「お前に任せたのは守ること。家族の誰も手を汚さないように。もちろんお前自身も‥‥‥そう言ったのは、誰だった?」


 スノウが問いかける。それは、セイルが抱いていた疑念の答えを、兄として出した瞬間だった。リチアにもそれが分かって、するとセイルはしばし沈黙した後、


「‥‥‥うん」


 罰が悪そうに俯いた。


「ごめん」


 それはリチアに対してか、それとも本物の兄の方にだったのか。セイルはどちらともなく謝ると、「‥‥‥でも、無事で良かった」ぽつりと小声をもらした。


「ひょっとしたらって‥‥‥少し、そう思ったんだ」


「え‥‥‥消されたと思ってたのか? 本気で?」


 細腰に手を当ててスノウが問うと、セイルは顔を上げた。


「そりゃあそうだろ! 心配にもなるさ! だいたいこれ――どういう事だよ!」


 訳が分からないと怒りだしたセイルにスノウは、


「悪かった‥‥‥今度ちゃんと説明するから」


 言いつつ、セイルの後ろを軽く顎で示した。家の扉から、なかなか戻ってこないセイルを心配したのか、妹弟たちが顔を少し覗かせていて。こちらの様子を興味津々と窺っていた。


「‥‥‥分かったよ」


 セイルは仕方ないと肩を落とした。


「まだアイツらには知らせない方が良いな、どこで喋るかも分からないし‥‥‥――とりあえず早く帰ってくれ。アイツらが我慢できなくなる前に」


「‥‥‥そうするよ。後は頼んだよ、セイル」


 苦笑いで言い、スノウはくるりとリチアを振り返った。


「帰りましょう、さぁ」


 華奢な白い手が差し伸べられる。もう片方の手には、ノアの手綱が握られていた。




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