19 救世主 その5
リチアは校舎から離れた道を迂回するようにして疾走していた。
足に自信があると言いながら、その実スノウと離れた今とにかく心細かった。
途中でもし魔獣に出くわしたら、そう思うと気が気ではない。
頭目掛けて飛びかかってきた魔獣の姿が何度も脳裏を過っていた。
(スノウを見送らなくて良かった‥‥‥)
去っていくスノウを見たらきっと彼を引き留めてしまうような気がして‥‥‥せっかく自分から「行ってきます」と言い出せたのに。
本当は怖い――そんな恐怖からか、ふと足を止めそうになる自分がいる事をリチアは自覚していた。
(スノウは大丈夫かしら‥‥‥)
魔除けの剣穂を握りしめ、リチアは右手に見える校舎の方を見やった。
無事でいてほしい、スノウも、そして巻き込まれてしまった住民たちも。
(一体誰がこんなことを‥‥‥!)
騒ぎを聞きつけた住民たちが、まだ何も知らない民家の戸口を叩いては叫んでいる。事態を知った住民たちが我先にと飛び出してくるのを横目にリチアは橋へと急いだ。
「ここね‥‥‥!」
舗装された開けた場所にその橋はあった。
すぐに分かった。目の前に広がった惨状が、ここに原因があると徐実に語っていたからだ。
橋は荷馬車が何台も往来できるほど大きなものだった。そしてその手前に、負傷した人々が何人も倒れている。その中には数名の騎士もいて、リチアはすかさずその一人に駆け寄り、そのぐったりとした身体を抱き起した。
「あなた、大丈夫!? ねぇっ!!」
騎士の肩口には、無理やり鋭いもので引き裂かれたような跡があった。
するとリチアの声が届いたのか、騎士はうっすらと瞼を開けた。
「スノウ‥‥‥か?」
騎士の唇が震える。
顔は血の気が失われているが、身体の方はまだ温もりがあった。
――まだ助かる!
それでも急がねばならないが、リチアは一先ず安堵する。できるだけ言葉を選びながら、騎士に訊ねた。
「‥‥‥魔獣にやられたのか?」
「あぁ‥‥‥いきなり橋の下が光って、魔獣が何匹も何匹も‥‥‥真っ先にギルドの人たちが襲われた‥‥‥俺達も囲まれて‥‥‥」
「他の騎士たちは?」
リチアは辺りを素早く見回した。
倒れている騎士は四人。遠目だが、街道で見た限り彼らは最初倍の人数はいたはずだった。
「他は‥‥‥住民たちを追っていった魔獣の後を追いかけて‥‥‥子供まで襲われたんだ‥‥‥だからスノウ、頼むから‥‥‥ぐっ!!」
途端、騎士が苦しそうに呻いた。ムリに喋らせたせいだろうか、リチアは狼狽し「もういい!」と慌てて声をかけた。
「ありがとう、話してくれて‥‥‥もう少し待っていて、必ず助けるから!」
そう言った瞬間、口元にわずかな笑みを滲ませた騎士ががくりと頭を垂れた。
(嘘――まさか!)
嫌な想像が頭に浮かび、リチアは咄嗟に騎士の口元に耳を近づけた。
呼吸は‥‥‥している。うっすらだが、微かな吐息の音とともに呼気が耳朶を掠めた。
気絶しただけだった。とはいえ一刻の猶予もない。
(‥‥‥早く何とかしないと!)
リチアはすぐ立ち上がった。だがその刹那、
「‥‥‥お前たちのせいだ‥‥‥!」
背後から恨みの声がした。振り返ると、ギルドの人間と思われる屈強そうな見た目の男が、顔だけ上げてリチアを睨み付けていた。
「あなた、その身体で‥‥‥!!」
男は右脚を――膝から下の部分を失っていた。
「ミネルヴァが――俺達がそんなに憎いのかっ! お前たちのせいだっ!!」
男が絶叫する。もはや痛みよりも怒りが優るのか、あらんかぎりの憎悪をその血走った瞳にたぎらせていた。
「オーディンがやらせたんだ‥‥‥! お前たちの中の誰かの仕業だろう‥‥‥!!」
「何を、言っているの‥‥‥?」
「とぼけるな!! これが本物でないことくらい分かってるんだ! お前たちが仕向けたんだろうがっ!!」
「なっ‥‥‥!? あり得ない!! なんでそんな!」
「俺達が、ゴートがミネルヴァ家の傘下に入った事を根に持っているんだろうが!!」
怒鳴った男を、リチアは唖然と眺めた。
そんな事、と言いかけ、だが同時に脳裏に蘇った記憶に動揺してしまった。
工業ギルド・ゴート――王国南部で設立された古い商人ギルドで、様々な職業を手頃な価格帯で手掛けることから“南部の便利屋”という名で有名なギルドだった。
しかし、最近は王都でも有数の魔術工業ギルド・アドリアが地方に進出した事をきっかけに、ゴートはアドリアに対抗するため出資者を探していたという。
――数か月前になる。ハインツが彼らゴートのギルド長を一度城に招いたのは。
同じ南部の者同士、協力しないかと持ち掛けたハインツの誘いを、彼らは「一度考えさせてくれ」と言ったきり、以降まったく音沙汰がなかった。
(そうだったのね‥‥‥ゴートはミネルヴァと協定を結んでいたんだわ‥‥‥でも)
リチアは眼を見開く。
「‥‥‥ハインツ様は、例え貴方達と友好関係を結べなくとも逆恨みをするような人じゃない‥‥‥!」
「‥‥‥なんだと?」
「こんな酷い事を命じるような人じゃないって言ったの!」
「証拠がどこにある! 俺達諸共ミネルヴァにでっちあげの罪を被せるつもりなんだろう!」
「違う‥‥‥ありえない!」
「最近公女が暗殺されそうになったんだってな‥‥‥それもこれも全て俺達に擦り付ける気なんだろ!? 同情欲しさの自作自演だっていう噂は本当なんだろ!?」
はっ、と吐き捨てるように嘲笑した男に、リチアは拳を握りしめる。
「本気でそんなことを言ってるの‥‥‥!?」
「落ち目の貴族が考えることなんて知れているんだ‥‥‥お前たちオーディン家のクソ犬には分からんだろうがなっ!」
リチアは腹の底から沸き上がる怒りに、唇を強く噛んで耐えた。
違うと言ってやりたかった。声を大にして、そんなことはありえないと否定してやりたかった。しかし、闇雲に言い返したところでこの男の心を動かすことはできないのも分かっていた。
リチアは黙り込む。
(どんなに違うと叫んでも、一度でも“そうかもしれない”と思い込んだ人の心はそう簡単には変えられない‥‥‥)
身に覚えがあった。
一年前、突然婚約を白紙にされた時だ。本当ならば、非難されるべき理由は相手側にあるはずだった。それなのに――周囲はどういう訳か相手側に同情し、リチアを嗤った。
事実と違うとどんなに訴えても、リチアの言葉は誰の心にも届かなかった。
リチアは男を見据え、静かに言った。
「‥‥‥私達があなたたち民にどう思われているのか、よく分かった‥‥‥でも」
男のそばに膝をつき、リチアは彼の右脚を見やった。
「お、おい! なにをする気だ!」
触るな! と狼狽した男が右手を振り回し、リチアの腕をパシンと薙ぎ払う。
だがリチアは表情を変えることなく、負傷した男の右脚に手を翳した。
――マナ操作。耳で聞いた限りでしかないけれど、スノウが使えるなら自分にもできるはず。
リチアは祈るような気持ちで、手のひらに意識を集中させた。
“マナで軽い傷なら治すこともできますが、少し勉強が必要です。あと、マナ操作では大きな怪我や病気を治すことは不可能なので、できるだけ無茶はしないように”
それでもスノウは、今できることの全てをちゃんと教えてくれていた。
“‥‥‥ですので、もし大きな怪我をしたら、痛みを和らげることと止血に意識をおいてください。やり方は簡単、相手の元気な姿をはっきりと頭に思い浮かべるだけです”
“相手”――スノウは確かにそう言った。
“でもこれが案外難しいんですよ。そういう時ほど頭は冷静になれなかったりして、嫌なことばかり考えてしまうから‥‥‥でも、お嬢様なら大丈夫でしょう”
もしこの場にスノウがいたら、聞いていたかもしれない。
“お嬢様は自分で思っているより、優しい人ですから”
何故そう言い切れるのかを。
(我ながら、驚いた‥‥‥)
リチアはフゥと息を吐いた。ただ念じるだけだと思っていたのに、疲労感が凄かった。
額にじっとりと汗が滲む。ポカンとした顔で見上げてくる男と目が合って、リチアは汗を拭いながら声を掛けた。
「血は‥‥‥止まったわね、痛みはどう?」
「‥‥‥」
男は無言だった。呆けたように口を開いている。けれど、土気色だった顔にみるみる生気が戻っていくのが分かり、リチアは安堵した。
マナはその実、生命力である。それをかなり消費したのは、リチアの顔色の悪さを見れば明らかだった。
「‥‥‥礼なんぞ言わんからな」
仏頂面で言い捨てた男に、リチアは深々と溜息を吐いた。
「怪我を治したわけでもないから、礼なんて要らない」
痛みを軽減してやったに過ぎない、所詮その程度の事である。
男は疑り深くリチアを観察する。どういう魂胆か、そう図りかねているように見えた。
そんな疑心暗鬼な視線に対し、リチアは小さく低頭した。
「‥‥‥っな、なんだよ‥‥‥」
男は驚き、思わずどもってしまう。リチアは頭を下げたまま、視線だけ男に合わせると言った。
「あなた達が疑いたくなる理由は分かる、けどね、今はとにかく一刻も早くあなた達の命を助けたい‥‥‥それだけは分かってほしい」
「‥‥‥‥‥‥」
「このままじゃみんな手遅れになる。今近くに公女様が来ているから、もうしばらく待っていて‥‥‥一介の医者よりも断然早く治るから」
男は驚き、リチアの顔を信じられないとばかりに見返した。
「公女、だと‥‥‥?」
「あなたのその千切れた足も元通りになるはず、嘘じゃない、絶対に見捨てたりなんてしないから‥‥‥だから、早く事を治めてしまわないと」
リチアは立ち上がると、淡い水色に輝く剣穂を見つめた。
――魔獣を出現させた仕掛けが近くにある。でも、どこに‥‥‥
辺りをしばらく見渡し、それからリチアはもう一度男の前に膝をついた。
「ねぇ、教えてくれる? この橋のどこから魔獣が湧いてきたのか――そこに犯人の痕跡もあるはずだから」
しばしの空白の後、男は静かに頷いた。




