17 救世主 その3
真っ先に駆け出したのはスノウだった。
「誰か‥‥‥助けてぇ!!」
ひっ迫を叫ぶ声が校舎の方から木霊する。
校舎に近づくにつれ、いくつもの悲鳴と喧騒がリチアたちの耳に届いた。――それと、何か獣のような咆哮も。
窮地を察するには、十分だった。
「スノウ! 待って!」
「お嬢様は退避を!」
当然のようにそう口走ったスノウの肩を、リチアが引き留める。
「スノウ! あなた分かってる!?」
走りながら、忘れたの!?と叫んだ。
「私達、入れ替わっちゃってるのよ!?」
「--あっ」
‥‥‥しまった!
急ブレーキで立ち止まったスノウが目を瞬く。己の失念に、唖然とリチアを見つめた。
「そうだった‥‥‥!」
「今のあなたが行っても何もできることなんて」
「――騎士様!!」
縋るような呼び声に遮られ、二人は同時に校舎の方を向いた。
見ると、小さな子供達を両手に引き連れた教師らしき女性が、命からがら駆けてくるところだった。
「助けてください! 騎士様!」
乞われて、咄嗟に女性に駆け寄ろうとしたスノウの横を女性が素通りする。女性はリチアの前に膝をついた。
「近くの橋に、魔獣の群れが――! 逃げてきた子供達を追ってきて‥‥‥子供が、子供たちがまだ校舎の中に!!」
リチアは狼狽えた。
「うそでしょ‥‥‥魔獣って‥‥‥そんな」
魔獣はほとんど天災といってもいい。非常に獰猛かつ凶悪な獣で、オルタニカ国内ではここ百年は出現したことがなかった。
「お願いです! 子供たちが!」
「そんな、私には」
「私達を助けてください! その為に来てくれたのでしょう!? お願いです!」
あまりにも必死な懇願に言葉が詰まった。女性は他でもない、リチアに助けを求めている。
どうしたらいいのか、一つも分からなかった。
(魔獣を相手に戦えなんて‥‥‥私には無理よ‥‥‥)
悲鳴を聞いている今でさえ足の震えが止まらない。リチアは視線を彷徨わせた。
いま縋っている者の正体が実は、城の中で何不自由なく暮らしてきたお嬢様でしかない事など、女性は想像もしていないのだろう。
責め立てるように向けられる瞳に、リチアは動揺を隠せなかった。
「わ、私には‥‥‥その‥‥‥」
纏まらない思考で言い淀む。
すると横から、
「大丈夫ですよ」
リチアの肩をスノウが掴んだ。彼は女性の前にしゃがみ込むと、頭を隠していた外套に手をかけ、ゆっくりと外した。
そして露わになる深紅の髪と美貌に、女性が息を呑む。
「あ、あなたは‥‥‥!?」
その刹那だった。
女性の目が、決定的な絶望を二人の背後に捉えた。
土をかくひづめの音と、腹を空かせた獣の唸り声。それが背後に迫っている事を、リチアは寸前まで気付けなかった。
え――?
振り返った時には闇が口腔を覗かせていて。
その身を切り裂くような悲鳴を、リチアは最初、自分の声なのだと思った。
「きゃあぁぁっ――!!」
真っ黒い獅子ようだった。真っ赤な瞳が二つ、リチアに狙いを定めているのを直感で察して。鋼色の牙が頭ごと噛み砕かんと迫ったのと同時に、銀色に閃く切っ先が、その黒い眉間を貫いた。
血飛沫が飛び、視界の端で深紅の髪が舞う。
「え‥‥‥?」
驚いた反動で尻もちをついたリチアの前には、スノウが剣を突き出したまま姿勢を保っていて。スノウの剣は、今の今まで襲いかからんとしていた魔獣の頭を貫通していた。
‥‥‥断末魔をあげる隙さえ、なかったと思う。
見慣れたはずのその横顔には、自分とも彼ともつかないような、見た事もない苛烈な敵意を宿していた。